捨て城
この国を『スタッグ』が出たのは、もう数ヶ月前のことだ。しかし、彼には昨日のようにも思える。各国を放浪しているうちに、飴色の体色はすっかりくすんできた。黒葡萄酒の『王子を殺せ』という呪縛はまだ完全には消えていなかった。しかし、エビネ国に入るとエビネの心地よい風が、彼の中の『イト』の力と共鳴し、次第にその呪縛をも解き放っていった。
「これが、あの美しかった『エビネ城』なのか……」
明け放された門は、左の鉄の扉が根元から抜けて地面に倒れていた。その上には無数の泥の足跡があった。階段には草がはえ、得体の知れないひからびた死骸が転がっていた。兵士らしきものは見えない、影さえない。風もいやな匂いがする。しかしそれが『イト』の力なのか、彼の通った後は、見る見るうちに浄化され。生気が戻っていった。
「ガサッ」
脇で音がした。子供を背負ったコオイムシが目の前にでて来た。
(子守りでもしているのだろうか?)
彼は呼び止めた。
「子守りの途中か?」
どう見ても、涸れた死体のような子供だが、まだ息はしているようだ。
「どおれ、わしに貸して見ろ」
抱え上げられた子供は不思議なことに、次第に皮膚に潤いが戻っていく。
「おお、何ともったいないこと」
みるみる太って来た我が子を見て、コオイムシは彼に手を合わせた。
「あなたは『フック』王と同じ力を持っていらっしゃる」
コオイムシは、石段に腰掛けてこの国の惨状を『スタッグ』に説明した。
「この城は、今では捨て城です。『ギリーバ』と言う者が王国から来るとすぐ、エビネ池から遠く離れた東の森に城を移しました。それ以来、この有様です。『イト』の風も、ここには吹いて来なくなりました」
「女王は、いかがされていらっしゃる?」
彼は、母の様子を知りたかった。
「即位式の直前に『ヴアッカス』王子を殺害した弟の『スタッグ』と共謀したとの罪で、女王もお尋ね者になっていたのですが、行方不明のままです。ただ、国民は決してそうは思っていません」
「それはどうして?」
コオイムシは笑って言った。
「『スタッグ』様、あなたがきっと戻ってこられると『ドルク』様がおっしゃっていたからです」
「俺が『スタッグ』だと……」
「イトの力で光輝く飴色のタガメ、この国を救う。間違うことはありません」
そう言うとコオイムシは止められていた堰を開き、城の堀にエビネ池から水を引き入れた。その水は『ギラファ』がこの国に来て、すぐにせき止めさせた『イト』の聖なる湧き水だ。流れにのり、オオゲンゴロウが真っ先に参上した。
「お待ちしておりました、案内いたします」
堀に水が入るにつれ、捨て城に『イト』の風が入りはじめた。城内のたまったホコリを吹き飛ばし、光が入り込みはじめた。『ゲンゴ』と名乗ったオオゲンゴロウは、地下の水牢に『スタッグ』を案内した。カビと湿気の充満した水牢には、水はない。水棲昆虫にとってそれが、最も辛い罰なのだ。水牢の中で人影が動いた。
「私に、顔を良く見せておくれ。あなたは『スタッグ』ではありませんか」
しかし彼はひからびた老婆に見覚えはない。彼は水牢など来たこともなかった。罪人すらこの国では久しくいなかったのだ。次第に水牢に水が満ちて来た。
「ああ、やっと。やっと、この城が甦る」
『イト』の聖なる湧き水に身体を浸し、老婆が顔を拭った。紛れもないそれはエビネ国の女王『サキ』、懐かしい母の姿だった。
「彼らに、ずっと守ってもらっていたのです。お前の帰りを待っていて良かった。」
「オオゲンゴロウの『ゲンゴ』コオイムシの『ケンザ』そして一番後ろがミズカマキリの『サギリ』です」
その声に振り返るとそこには勇者『ドルク』が立っていた。




