第2話 誰かが動き、捻じれは解かれ
造語の詠唱が出てきます。詠唱してる人が口に出してるのは造語の方です。
何処の都市にも見られる交差点を、今日も大勢の人が行き交い、通り過ぎる。老人、老女 、中年男性、女子学生、あるいは中年女性と小さな子供の親子。誰もが前を向き、または携帯電話の画面を覗き込みながら、足早に自身が向かうべき場所へと移動する。
その交差点の横断歩道を、紺色のローブを身に付けた青年がゆったりと歩いていた。辺りを興味深そうに眺めているかと思えば、ふと後ろを振り返り、誰かを探すかのように目線を泳がせる。
そのような挙動不審な行動を取る青年が歩いているのにもかかわらず、通り過ぎる人は、青年に対し訝しげな目で見る事はせずに目的地を目指す。
テクノロジーが発達した現在、人間関係が希薄となり、人が周囲の人に興味を持たない時代とはいえ、限度があるだろう。画一化した服装をした人が近くを歩いている訳ではないのだ。紺色のローブを羽織り、雨が降っている訳ではないのに、顔をフードで覆っている青年が、まるで後ろを歩く人の邪魔をするかの如くゆっくりと歩を進めているのに、誰も不審な目で、あるいは苛立たしげな目で見ず、一定の距離を隔てて青年の後ろを歩く。まるで青年などいないかのように、青年と周囲を隔てる空間など存在しないかの如く一定の速度で歩き、不思議がりもしない。
青年は立ち止まり、後ろを振り向く。周囲の状況に対して満足そうに頷き、一人呟いた。
「さてとーーそろそろ本気で探さないと。時間が無限に在る訳ではないしね」
この国では時は金なりって言うんだっけ、と一人ごち、青年はまた歩き出す。ただし、何時の間に取り出したのかーー掌に正六角形の方位磁石を乗せて。
***
六時間目の終わりを告げるチャイムが鳴る。
我先にと生徒達は教室から飛び出し、自分の教室へーー帰りのHRが始まる教室へと向かう。僕と葉月仁は教室に残り、自分の席へと移動する。
僕が自分の席に座った時、仁は椅子を後ろへ逸らし、囁いた。
「今日、忘れんなよ」
「了解。剣道が終わるまでどっかで暇を潰すよ」
僕の返答に対してにやりと笑い、仁は椅子の重心を前に戻す。同時に、開いたままの教室の出入り口からがっしりとした、いかにも体育会系の身体をした中年の男性がドアの前に現れた。
我らが担任の瀬戸先生だ。
「早く座れ。ホームルームを始めるぞーー葉月、今日は部活に出るな」
「えー? 何でですかー?」
「物理の定期試験で赤点取っただろうが。今日は補習だ」
椅子がガタガタと鳴る。椅子に腰を下ろし、生徒達は鞄を机の上に載せる。
「別に良いじゃないすか、分からなくても困る訳じゃないしーーそりゃ、センセには悪いと思いますけど」
「ばか者、剣道部の部長が物理ぐらい出来なくてどうするっ。今日はマンツーマンで教えてやる。これを、」
瀬戸先生の手が仁の机にプリントを叩きつける。
「他の部員に練習メニューを伝えに行くから、それまでに左半分解いとけ。上の公式に当てはめれば解けるーー連絡事項は特になし、日直、挨拶を」
「はいーー起立、礼」
1人の男子生徒が返事をし、号令する。
ドアが開き、生徒達は廊下へと繰り出した。
僕は鞄を肩に掛け、仁に声をかけた。
「あの先生の様子じゃ、今日はかかり稽古だけかなーー図書館で暇を潰すよ」
「りょーかい。ちくしょう、こんな量、戻ってくるまでに解けるわけねーだろ」
ブツブツと不平を言う仁を尻目に、教室の出入り口を通り抜け、僕は図書館へと歩を進めた。
***
人が足繁く行き交う雑踏の中、黒衣の青年は、方位磁石なる物が示す方向を目指す。
逆方向から来る制服の集団が青年を無意識に避けて行くなか、青年は静かに歩を止める。
目の前にそびえる建物ーー真具市によって設立された函蓋中学校をたまゆら眺め、青年は目をそらし、唇を歪めた。
「この場所は歪んでるな。儀式にはぴったりだ」
方位磁石に似た正六角形の道具をポケットにしまい込み、青年は校門を通り抜けた。
***
二回分階段を上がった。三階に到着した所で右に曲がる。魔力が溜まり、澱んでいる場所ーー図書館を目指して歩を進める。
「ーー早く、完成させないと」
中に入って扉を閉め、カーテンを閉めて室内を暗くする。
ローブを脱いで服の袖をめくり、左の手の甲に意識を集合させる。
ぼんやりと、しかし蒼色に克明に浮かび上がっていく原始刻印。
「Shel fast fice shelt wiste fol woste.」
《私は世界に、周囲から断絶する境界を望む》
詠唱と、手の甲に刻まれた文字が共鳴し、足元を中心に蒼色の光輪が床に描かれていく。
ポケットから宝石を取り出し、握りしめる。そのまま腕を床と平行に上げ、次の詠唱を口にするーー。
***
踊り場を通過し、最後の段を越える。図書館の入り口付近に着いた時、僕はある事に気づいた。
「ーーなんだ、あの蒼い光?」
綺麗な、あるいは神々しいとさえ見える蒼光が、チラチラとカーテンの隙間から漏れ出ている。
ーーそれは何処か、獲物をおびき寄せる深海魚の発する光に似ていた。
視界中にあの蒼光が広がり、浸食していく。
頭の中が蒼色に染まり、真っ白になっていく。
「ーーきれい、だなーー」
何故、図書館からあの蒼光が見えているのか。そもそも何故、図書館の扉の手前に付いているカーテンが閉められているのか。
図書館の様子が、いつもとは違う事を認識している筈なのに、僕は何故かーー扉の取っ手に手を掛けた。




