ww1に参戦しなかった日本(IF)
1905年 ロンドン
日英同盟第二次改訂会議
厚い絨毯が足音を吸い込む。ロンドンの外務省会議室は、冬の曇天をそのまま切り取ったかのように薄暗かった。高い天井、重厚な木製の机、その奥に並ぶ英国側代表団の顔はいずれも動かない。
日本全権・林董は、ゆっくりと背筋を伸ばした。日露戦争の講和がようやく見え始めた今、ここでの一言一句が、戦後の日本の進路を決める。
「では、本題に入ろう」
英国外相ランズダウン卿が低く告げた。
「今回の改訂において、我々が重視するのは同盟の実効性だ。欧州、極東を問わず、同盟国が危機に瀕した場合、相互に援助が行われる体制でなければならない」
机上の書類がわずかに鳴る。英国側の意図は明白だった。欧州での不穏な情勢——ドイツ帝国の台頭を、彼らは誰よりも肌で感じている。
林は一拍置いて口を開いた。
「援助、支援、その理念に異論はございません。しかし——」
言葉を切り、英国側を見渡す。
「我が国は、極東における安定を最優先としております。日露戦争の最中である今も、国力は限界に近い。将来、欧州における戦争が発生した場合、日本が自動的に武力行使へ拘束される条文は、国内の承認を得られません」
空気がわずかに張り詰める。
「自動参戦義務を欠いた同盟は、同盟と呼べるのか?」
英国側の一人が鋭く問う。
林は首を横に振らなかった。
「同盟とは、即ち信義です。信義とは、無条件の武力行使ではなく、危機に際して誠実に協議し、最善の選択を共に探ることではありませんか」
沈黙。ランズダウン卿は椅子に深く腰掛け、指を組んだ。
「つまり、日本は——欧州戦争への自動参戦は拒む、と?」
「拒む、という表現は適切ではありません」
林の声は静かだった。
「我々は、地理的条件、国力、国内事情を踏まえ、協議を尽くした上で援護の形を決定したい。軍事行動に限らず、外交、後方支援、海上警備——選択肢を閉ざさぬための協議義務です」
英国代表団の間に、かすかなざわめきが走る。
「それでは、日本は都合の良い時だけ動くと?」
「いいえ」
林ははっきりと答えた。
「日本は、無謀な約束をしないだけです」
その言葉に、英国側の空気が変わった。強硬な否定ではない。だが、曖昧な同調でもない。
ランズダウン卿は、ゆっくりと頷いた。
「……極東の同盟国が、欧州の火薬庫に縛られることを嫌うのは理解できる」
しばしの沈黙の後、彼は続けた。
「ならばこうしよう。両国は、東洋および欧州において、地理的状況を考慮し、相互に援護・支援を行う意思を確認する。ただし、武力行使については、事前の協議を義務とする」
林は、内心で息をついた。
望んだ形だった。
「その文言であれば、日本政府は責任をもって同盟を維持できます」
こうして、日英同盟第二次改訂は形を変えた。
表向きは強化。だが、その内実は、慎重で、柔軟で、そして未来への余白を残す同盟。
この会議室で交わされた沈黙と選択が、十年後、欧州を焼く大戦の中で、日本を戦場から遠ざけることになるとは——まだ、誰も知らなかった。
ーー
六月末の東京は、例年より湿り気を帯びていた。外務省の廊下を抜ける風は重く、窓越しの空もどこか鈍色に見える。
「――サラエボで、オーストリア皇太子夫妻が暗殺されたそうです」
報告は、簡潔だった。書記官の声に余分な感情はない。だが、その一言が持つ重みは、室内に集まった者たち全員が理解していた。
外相は眼鏡の奥で視線を落とし、報告書を読み進める。
バルカン。火種。民族主義。
どれも欧州ではありふれた言葉だが、それが皇太子暗殺という形を取った以上、話は別だった。
「すぐに戦争になるか?」
誰ともなく、そう問う声が上がる。
「まだ分かりません。ただ――」
外務次官が言葉を継いだ。
「ウィーンは強硬です。セルビアへの最後通牒は、相当厳しいものになるでしょう」
沈黙が落ちた。
この部屋にいる誰もが、次に何が起きるかを想像していた。
七月。
欧州からの電報は、日を追うごとに短く、そして硬くなっていった。
――最後通牒発出。
――部分的動員開始。
――同盟国間での協議。
日本政府内でも、自然と人が集まり始めた。外務、陸軍、海軍。公式の閣議ではない、非公式の意見交換。だが、誰も軽くは見ていない。
「英国は、どう動くと思う?」
海軍側の一人が問う。
「当面は静観でしょう。しかし、ドイツが絡めば別です」
外相は答えながら、ふと十年前のロンドンを思い出していた。
あの会議室。
“協議義務”という言葉に込めた、逃げでも強硬でもない、ただ現実を見る姿勢。
七月末。
ついに電報が届く。
――オーストリア=ハンガリー帝国、セルビアに宣戦布告。
その知らせは、雷鳴のように広がった。
だが、日本の政府中枢は、即座に動かなかった。
「慌てる必要はない」
外相は静かに言った。
「我々は当事国ではない。条約上も、自動的に何かをする義務はない」
机の上には、日英同盟第二次改訂の条文が置かれていた。
“協議義務”。
その四文字が、紙の上で確かな重みを持っている。
「英国から照会が来るでしょう」
「来たとしても、協議に応じる。それだけです」
八月初頭。
ドイツが動き、フランスが動き、そして英国が参戦を決めた。
東京の新聞は号外を打ち、街では「欧州大戦」の文字が踊った。
人々は口々に言う。
「今度は世界戦争だ」
「日本も、また戦うのか」
だが、その問いに、政府はすぐには答えなかった。
外務省の一室で、外相は窓の外を見ていた。
遠くで蝉が鳴いている。
欧州が燃え上がろうとしているその時、日本の夏は、あまりにも平穏だった。
「……協議の時が来たな」
彼はそう呟いた。
日本はまだ、戦争をしていない。
だが、戦争を“どう避けるか”という、静かな戦いは、すでに始まっていた。
八月三日、午後遅く。
外務省の電信室に、一本の長い電報が届いた。
差出人はロンドン、日本大使館。
暗号は最上位。扱いは「至急」。
外務次官は、解読文に目を走らせ、わずかに眉をひそめた。
「……来たか」
文面は簡潔だった。
英国政府は、現下の欧州戦争に関連し、極東における情勢安定について、日本政府の意向を照会したい。
特に、ドイツ帝国の極東拠点および通商活動への対応につき、協議を希望する。
「参戦」という言葉はない。
だが、その不在こそが、英国の計算を物語っていた。
外相は電報を机に置き、しばらく黙っていた。
十年前なら、この電文は「要請」に変わっていただろう。
だが今は違う。あの改訂条文が、英国の言葉を慎重にしている。
「各省に連絡を。至急、合同協議を行う」
声は低く、だが迷いはなかった。
⸻
会議は、同日夜に始まった。
外務、陸軍、海軍の幹部が顔を揃える。公式の閣議ではないが、実質的にはそれ以上の重みを持つ場だった。
電報の写しが回される。
「英国は、我々が何をするか、見極めたいだけだ」
外相が口火を切った。
「参戦を求めてはいない。しかし、何もしないことも期待していない」
沈黙の中、陸軍側の将官が咳払いをした。
「問題は、我々に“余力”があるかどうかですな」
その言葉に、空気がわずかに揺れた。
「日露戦争が終わって、まだ九年です」
別の陸軍幹部が続ける。
「講和後も、満州・朝鮮の守備は軽くなっていない。シベリアの動向も読めぬ。動員計画は紙の上では整っておりますが……」
言葉が途切れた。
“紙の上では”。
それは、この部屋にいる全員が共有している現実だった。
財政。兵員。装備。
いずれも、日露戦争で削り取られたままだ。
海軍大臣が、静かに口を開いた。
「艦隊は整備されています。しかし、戦争とは消耗です。今、欧州のために艦を動かせば、十年後、二十年後に必ず響く」
誰も反論しない。
外相は、机の端に置かれた古い資料に目を落とした。
日露戦争当時の戦費試算。
赤字で書き込まれた数字が、今も消されずに残っている。
「国民は、どう受け取ると思うか」
外相の問いに、誰もすぐには答えなかった。
やがて、陸軍の若手将官が口を開いた。
「……正直に言えば、また戦うのか、という声が大半でしょう」
その言葉は、決して弱腰ではなかった。
ただ、現場を知る者の実感だった。
「凱旋と称されましたが、地方では今も戦傷者が暮らしています。年金も十分ではない。農村は疲弊したままです」
会議室の空気が、さらに重くなる。
外相は、ゆっくりと頷いた。
「英国は、我々の血の記憶までは引き受けてくれない」
誰かが、苦く笑った。
沈黙の後、外相は日英同盟改訂条文を手に取った。
「我々には、協議義務がある。それ以上でも、それ以下でもない」
その言葉に、海軍大臣が応じる。
「協議には応じましょう。しかし、参戦は別問題です」
「中立を選べば、批判は受けます」
「それでも、条約違反ではない」
外相は、全員の顔を見渡した。
「日露戦争で、我々は何を得たか」
誰も即答しなかった。
「勝利です。しかし、代償もまた勝利に等しい重さでした」
彼は続ける。
「次の戦争で、日本が得るものは何か。欧州の戦場で、日本兵の血を流す理由が、今ここにあるのか」
会議室に、答えはなかった。
だが、その沈黙こそが、結論に近かった。
「英国には、協議に応じる旨を伝える」
外相は静かに言った。
「極東の現状維持。通商の安全確保。必要であれば外交的支援。だが、武力行使については、現時点では判断しない」
それは、参戦の拒否ではない。
だが、中立へと確実に踏み出す言葉だった。
会議が終わる頃、夜は深くなっていた。
誰も高揚していない。誰も安堵していない。
ただ一つ、全員が共有していたのは——日本は、あの戦争の続きを、もう一度繰り返す余裕はないという、痛みを伴った理解だった。
八月中旬。
帝国議会は、例年よりも重い空気に包まれていた。
議場の天井は高く、声はよく響くはずだった。だが、この日の議論は、どれも低く抑えられている。誰もが理解していた。ここで交わされる言葉は、欧州の戦火よりも静かだが、日本の進路を同じだけ左右する。
外相が演壇に立つと、ざわめきが自然と収まった。
「欧州において、大戦が始まりました」
その一言で、場の緊張は極まった。
「英国政府より、極東情勢に関する照会がありました。我が国は、日英同盟第二次改訂に基づき、協議に応じました」
議員たちは、固唾を飲んで聞いている。
「しかし、同盟は自動参戦を義務付けるものではありません。我が国は、地理的条件、国力、国民生活を総合的に勘案し——」
一瞬、言葉を切る。
「現時点において、武力をもって参戦することは、日本の国益に資さないと判断しました」
議場に、どよめきが走った。
賛同も、反発も、どちらもあった。だが、誰も軽々しく声を上げる者はいない。
ある議員が立ち上がる。
「それは、同盟国を見捨てるということか!」
外相は、正面から受け止めた。
「いいえ。同盟国との信義は、条約に従って果たします。極東の安定維持、通商路の保護、外交的支援——できることは行う。しかし、再び国民を総力戦に投じる理由が、今ここにはない」
その言葉に、議場の空気が変わった。
“再び”という言葉が、誰の胸にも刺さったからだ。
日露戦争から、まだ十年も経っていない。
地方には今も、片腕を失った兵がいる。
財政は、ようやく息をつき始めたところだ。
長い審議の末、議会は政府方針を追認した。
満場一致ではない。だが、反対派もまた、この決定が軽いものではないと理解していた。
その夜、政府声明が発表された。
帝国政府は、現下の欧州戦争に関し、日英同盟の規定に基づき、同盟国との協議を継続する。
しかし、帝国は直接の交戦当事国にあらず、当面、中立の立場を堅持する。
極東の平和と通商の安全を守ることが、帝国の責務である。
新聞は、号外を打った。
「日本、中立へ」
「参戦見送り、政府声明」
街角では、人々が立ち止まり、紙面を覗き込む。
「戦わない、のか」
「また戦争だと思っていたが……」
安堵の声も、不安の声もあった。
だが、怒号はなかった。
誰もが、あの戦争を覚えている。
勝ったはずなのに、失ったものの方が多かった戦争を。
同日、外務省からロンドンへ電報が打たれた。
日本政府は、日英同盟第二次改訂条項に基づき、協議義務を誠実に履行する意思を有する。
極東の現状維持、通商路の安全確保については、英国政府と緊密に連携する用意がある。
しかし、武力行使に関しては、日本政府は現時点で参戦の決定を行わない。
英国側の反応は、すぐには返ってこなかった。
それは、失望かもしれない。
あるいは、理解かもしれない。
だが、日本は、初めてはっきりと線を引いた。
同盟を否定せず、戦争にも踏み込まないという線を。
この選択が、正しかったかどうかは、まだ分からない。
だが少なくとも——この国は、自分の傷の深さを、誤魔化さずに見つめた。
それだけは、確かだった。




