3. 揺れる境界線
目を覚ましたとき、夢愛は自分がどこにいるのか分からなかった。
白い天井。知らない匂い。頭の奥が、じん、と鈍く痛む。
「……起きたか」
低く、ぶっきらぼうな声。
体を起こすと、昨日見たヤンキー――龍真が、壁にもたれて腕を組んでいた。
「大丈夫か。水、飲む?」
差し出されたペットボトルを、夢愛は一瞬ためらってから受け取った。
冷たい水が喉を通ると、現実がゆっくりと戻ってくる。
――夜の街。ネオン。笑い声。
誰かに聞かれた質問。
「お前、ここ来た理由ってさ」
「……私、どうしてここに……」
「酔いすぎた。倒れたから、うちで寝かせただけだ」
龍真はそれ以上説明しなかった。
その無愛想さが、逆に嘘っぽくなくて、夢愛は何も言えなくなる。
安全なのか、危険なのか。
分からない。でも、少なくとも――何かをされた気配はなかった。
「学校、今日からだろ。送る」
「……え?」
「一人でフラつかれても困る」
それだけ言って、龍真は玄関に向かった。
札幌の朝は、思ったより冷たかった。
隣を歩く龍真は無言で、時折こちらをちらりと見るだけ。
「……あの」
「何」
「昨日のこと、私……ちゃんと覚えてなくて」
龍真は少しだけ眉をひそめた。
「無理に思い出さなくていい」
それきり、会話は途切れた。
*
転校初日の教室は、予想どおり居心地が悪かった。
好奇の視線。ひそひそ声。
「ねえ、あの子昨日の夜、繁華街にいたって」
「マジ? 地味そうなのに」
胸の奥がきゅっと縮む。
私は、どう見られたいんだろう。
静かに、目立たず、生きたい。
それなのに、昨夜の自分は――。
「おい」
突然、教室の空気が変わった。
廊下側の扉に立っていたのは、龍真だった。
制服は着崩しているが、視線は鋭い。
「こいつに何か言うなら、俺通せ」
一瞬で、教室が静まり返る。
「龍真……?」
「知り合いだ」
それだけ言って、夢愛の前に立った。
守られている、と思った。
でも同時に、怖くもなった。
――この人の世界に、私は足を踏み入れてしまったのではないか。
*
放課後。
夢愛は一人で帰ろうとしたが、校門前で龍真に呼び止められた。
「さっきは悪かった」
「……え?」
「勝手に出てきて。迷惑だっただろ」
意外な言葉に、夢愛は首を振る。
「助かりました。でも……」
「俺、こういうの慣れてるだけだ」
龍真は視線を逸らした。
「家、母親いなくてさ。親父も夜いねぇ。
ガキの頃から、弟の面倒見てた」
初めて聞く、彼の話。
「ヤンキーになった理由も、別にカッコつけじゃねぇよ。
守るには、強くなるしかなかった」
夢愛の胸に、昨夜の記憶がちらつく。
自分に向けられた、あの真剣な視線。
「……昨日、あなたが聞いてきたこと」
「覚えてたか」
「全部じゃない。でも……
“ここに来た理由”って」
龍真は少し黙ってから、言った。
「お前、逃げてるように見えた」
図星だった。
札幌に来た理由。
父から逃げたくて、環境を変えたくて。
でも――自分がどうなりたいかは、何も決めていない。
「私は……」
言葉が、出てこない。
龍真は深く追及しなかった。
「答えなくていい。
ただ、危ねぇ場所には来るな」
優しさなのか、線引きなのか。
夢愛には、まだ分からなかった。
この人は安全なの? それとも――
でも確かなのは、
龍真が自分を「ただの面倒な存在」だとは思っていないこと。
そして夢愛自身も、もう「何も考えずに流される自分」ではいたくない、と思い始めていた。
札幌の街は、まだ遠い。
龍真との距離も、測れない。
それでも――
この揺れの中で、自分の輪郭を見つけたい。
夢愛はそう、強く思った。




