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【8月限定公開】あと、1日。

作者: 夢生明


 私にとって夏は、出会いと別れの季節だ。


 だから、夏は決まって、胸が締め付けられる。


 これは、どこまでも続く青い空をすべて、黒く塗りつぶしてしまいたいと考えていた、夏の日の記憶。




***




「ふみさん。ぼうっとしないの」

「え? あ、うん」


 ぼんやりと空を眺めていたら、隣に座っていたみっちゃんに肩をつつかれた。

 意識が現実に引き戻された私の視界には、ラジオと十数人の教師達、そして慣れ親しんだ学友の姿が飛び込んでくる。


「しっかり聞きなさい。もうすぐ始まるんだから」


 重大放送が、と言ってみっちゃんはすぐに前を向いてしまった。


 1945年8月15日。


 今日は、天皇陛下から大事なお知らせがあるらしい。ラジオでの放送を聞くため、私が通っている熊谷市立女子高等学校のグラウンドで待機していた。


 天気は晴れ。空は澄み渡っており、太陽の光が燦々と降り注いでいる。


 あまりの暑さに身が焼けそうになりながらも、大人しく座って放送の開始を待ちわびる。先生達は、「やはり、降伏か」「いや、しかしこのままでは」と、ぼそぼそ話し合っていたが、やがて放送が始まると、すぐに口をつぐんだ。


 初めて聞く天皇陛下の声は無機質で冷たく、想像していたものとは大きくかけ離れていた。もっとたおやかで、聞くだけで心地のいい声だって想像していたのに。


 やがて放送が終わり、誰もが呆然としている中で、一人の女学生が声を上げた。


「先生、日本が負けたなんて嘘ですよね?」


 核心を突く質問をしたのは、みっちゃんだ。


 同じ学級に所属している彼女は、生じた疑問はすぐに解消しないと気が済まない性格だった。国家への忠誠心も人一倍厚く、女学生が勤労動員の対象となった後も誰よりも真面目に働いていた。


 日本の勝利を一心に信じていた彼女は、敗戦という事実を受け止めきれないようだった。


「残念ながら、本当のようです。日本は敗戦しました」

「何故ですか。日本は神の国なのに」


 彼女の質問に、先生が顔をゆがめる。


「これからどうなってしまうんですか?!」


 彼女は必死の形相で先生を問いただす。

 どこからか「もうやめようよ」という声が聞こえてくるが、みっちゃんはやめようとしない。集まっていた数人の女学生の子達はさめざめと涙を流し始めた。


 私はその光景を現実感のないまま見つめていた。先生に縋ることも、友人と共に涙を流すことも出来ずに、ただ呆然と立ちすくむ。


「終わった……」


 戦争が終わった。ならば、もう空襲に怯えることはない。ほっとしている一方で、恐ろしさも感じていた。


 先程の放送で、日本は全面降伏をしたという旨が伝えられた。つまり、米国の軍が日本の支配を始めるということ。あの“鬼畜米兵”が日本に上陸してきたら、私たちは何をされるのだろう……。


 ぶるりと身震いした、その時だった。


「ふみぃ!」


 どこからともなく、私を呼ぶ声が聞こえてきたのだ。振り返ると、そこには同じ学級の友人の姿があった。


「明美ちゃん」

「終わった! 戦争終わったって!」

「ちょっと、声が大きい」

「負けちゃったって!」


 あははと心底楽しそうに笑う彼女の名前は、早川明美。私の唯一無二の友人だ。


「ね、こんな所にいないで、学校を抜け出しちゃおうよ!」

「え?」

「散歩したい気分なの。いいでしょう、ふみ」

「う、」


 容姿端麗な彼女に顔をのぞき込まれ、私は顔を引きつらせた。彼女は自分の顔の良さと、私が彼女からのお願いに弱いことを知っている。


「ね、ね? お願い」

「うん……」


 最終的には押し切られて、反射的に頷いてしまった。


 彼女は少し強引で、反対に私は押しに弱い。


 だから、彼女のわがままに付き合わされることはこれまでも多々あった。周りは、正反対の性格である私たちが仲良くしているところを見ると、いつも不思議そうな顔をする。


 しかし、私たちは最初から仲がよかった訳ではない。



 明美と出会ったのは、1年程前の初夏。

 私達が14才の時だ。

 明美の父親は、東京で軍事工場を営んでおり裕福な家らしい。明美は、親戚筋を辿って、ここ熊谷に疎開してきた。


 女学校に転入してきた彼女を初めて見た時の衝撃は忘れられない。

 彼女は、その場にいた全員が目を奪われるほどの端麗な容姿を持っていたからだ。

 長い手足、ぱっちりとした目、形の整えられた凜々しい眉。雪のように白い肌とほんのり染まった頬。本当に同い年なのかと疑ってしまうほど、その姿は優艶としている。


 まるでお人形さんみたい、と誰かが呟いた。


 その見た目故に、転入初日から彼女の席には人だかりが出来ていた。特にしっかり者のみっちゃんは、校内を案内するなど積極的に関わっており、周りから羨ましがられていた。

 地味で目立たない私は、それを遠目で見るだけ。人気者の彼女と関わる機会なんてほとんどなかった。


 私たちの関係が変わったのは、しばらく経ってからだ。

 その頃には既に勤労動員が始まっており、女学生である私達も、近くにある軍需工場で働き始めていた。


 風の心地よい秋の夜。虫の鳴き声を聞きながら疲れた体を引きずって帰っていると、道端で誰かがうずくまっているのを見かけた。


 最初は酔っ払いが眠っているのかと思ったけれど、その人物が学校で人気者の早川明美だとすぐに気づいた。彼女は自身が住んでいる家の前で、膝を抱えて体を丸めていたのだ。


 うずくまる彼女を横目で見つつ、私は一度その場を立ち去った。しかし、数軒先まで歩いたところで、回れ右をして彼女の元まで戻ることにした。

 彼女は体勢を変えず、石のように動かない。私は一度大きく息を吸って、思い切って彼女に話しかけた。


『は、早川さん』


 緊張で声が裏返ってしまい、頭に血が上るのを感じた。話しかけない方がよかったかもと後悔する中、彼女はゆっくり顔を上げた。


『わ……』


 初めて至近距離で見た明美は、遠くで見る彼女よりも一層、綺麗だった。彼女の真っ黒な瞳は少しだけ濡れており、頬には涙の跡が残っている。

 それを見て、私の胸はぎゅっと切なくなった。私は緊張で手を震わせながらも、彼女に「とあるもの」を差し出した。


『これ!』

『え?』

『これを……』

『くれるの?』


 私は一生懸命、首を縦に振った。夜でよかったと心の底から思う。暗くて私の顔が真っ赤になっていることを知られなくて済むから。


『これって、砂糖だよね。こんな貴重な物、もらってもいいの?』

『うん。配給で受け取った物じゃなくて、前から家にあったものを持ってきただけだから』


 早口で捲し立てて弁明をする。

 私が渡したのは、角砂糖。仕事の合間にこっそり口に含むつもりで、風呂敷に包んで持ってきていた。

 彼女が何故、こんなところで泣いているのか知らないが、甘い物を食べて元気になって欲しかった。その一心で持っている物を差し出す。

 彼女は角砂糖を手に取り、不思議そうに見つめている。それだけで一枚の絵画のように様になっていた。その姿に見とれていると、彼女はにっこりと笑みを浮かべた。


『ふみちゃん、ありがとう』

『う、ううん。それじゃあ、またね』

『うん。また明日ね』


 私は禄に目を合わすことも出来ずに、彼女に別れを告げた。もう二度と関わることはないのだろうと思い、少し寂しく感じながら。しかし、次の日の昼休憩の時、なんと私は明美に呼び止められたのだ。


『ふみちゃん、一緒にお昼食べよう?』


 その日を境に、彼女は他の友人の誘いを断り、私と行動を共にするようになった。初めは戸惑うばかりだったが、引っ込み思案でなかなか友人を作れなかった私にとって、彼女の強引で奔放な性格は心地よかった。

 明美も同じように思ってくれたようで、すぐに私達は無二の友人となったのである。




 私たちが二人で学校を抜け出そうとしていると、後ろから呼び止められた。


「待ちなさい。何をしているの」


 声の主は、みっちゃんだった。


「げっ」


 明美は「嫌な奴に見つかった」とばかりに、小さく声を漏らす。転入当初は共に行動することの多かった明美とみっちゃん。しかし、その関係は徐々に変化していった。


 理由は単純明快。2人の相性が悪かったからだ。


 真面目で規則に厳しいみっちゃんと、自由奔放で我が儘な明美。最初は仲良く出来ても、主張が相反することの多い2人は衝突することが多くなっていった。


 現に、学校の外に出たい明美と、規則に厳しいみっちゃんの主張は対立している。明美は不要な言い争いを避けたのか、私の後ろに隠れてしまった。


「先生から指示があるはずよ。早く戻りなさい」

「う、うん」

「それに、向こうで火事が起きているから、危ないわ」

「うん……」

「さあ、一緒に戻るわよ」


 私が困って明美を振り向くと、彼女は眉を上げて、にいっと笑っていた。「あ、悪巧みをしている時の顔だ」と気づいた時には、明美は私の手を握って走り出していた。


「ちょっと、待ちなさいよ!」

「ごめんね、ふみを借りるね」

「戻りなさいー!」


 後ろから、みっちゃんの呼び止める声が聞こえる。しかし、明美は「あはは」と高笑いをしながら逃げていく。私は彼女に手を引っ張られながら、懸命に足を動かした。



 しばらく走って後ろを確認すると、果たしてみっちゃんは追ってきていなかった。息を整えて明美と目を合わせると、どちらからともなく吹き出してしまう。


「もう。みっちゃん、怒ってたよ」

「後で、ふみから謝っておいてよ」

「一緒に謝ろうよ」


 そう提案すると、彼女は気まずそうに目を逸らした。その表情に違和感を覚える。

 そういえば、みっちゃんは頑なに明美の方を見ようとせず、ひどく怒っているような印象を受けた。


「もしかして、みっちゃんと喧嘩したの?」

「うーん。……実は今朝、彼女を泣かせちゃったんだよね」

「みっちゃんを?」


 明美は負けん気が強いから、真面目な彼女と喧嘩することは多かったし、明美が言い負かすことも多々あった。

 けれど、みっちゃんが泣いている所なんて見たことがない。いつも凜としていて厳しい彼女の涙は想像できなかった。

 これは、明美が相当なことをしたに違いない。


「ほどほどにしてあげなよ」

「うん。もうしないよ」


 お、と思った。これなら、すぐに仲直りも出来そうだ。


「珍しく素直だねえ」

「いつもは素直じゃないみたいに!」


 あははと国民学校の子供みたいに、ふざけて笑い合う。こんな楽しい時間がいつまでも続けばいいのに。



 明美の後ろに付いて道を歩いていると、いろいろな人が目に飛び込んでくる。


 子供を抱いて、さめざめと泣いている女の人や、「日本が負けるわけない」とわめき散らして、宥められている男の人。呆然と立ちすくむ幼い子供もいた。


 そんな人達の姿を見ると、どうしようもなく敗戦を強く実感してしまう。胸を痛めながらも彼等の前を素通りし、私は前を歩く明美の後を追った。


「ねえ、どこに行くつもりなの?」

「うん。それより、ふみは戦争終わって嬉しい?」


 私の質問には答えないで、彼女はまったく違う質問を返してきた。彼女が人の話を聞かないのは、いつものことだ。慣れている私は、すぐに返答した。


「負けちゃったし、なんとも言えないかな」

「そっか。私は嬉しいよ」


 彼女は立ち止まり、私を振り返る。


「だって、もう大切な『何か』を失わなくていいもの」


 彼女の憂いを帯びた表情に、私はずきりと胸が痛んだ。心臓が鳴り、じくじくと痛みが広がっていく。


「なんで、そんなこと言うの」

「それは……」


 彼女はにっこりと笑ってポケットから「何か」を取り出した。


「じゃーん、ビー玉!」

「え?」

「空襲警報がある度に、これを持ち出していたんだよね。でも、防空壕まで走っているから、落としていないか不安で溜まらなかったの。落とす心配がないって素晴らしいよね!」


 彼女の取り出したちっぽけな遊び道具に胸がつまった。


「ね、覚えてる? 私の宝物」


 彼女の問いかけに、私は小さく頷いた。




 あれは、厳しい冬のことだった。


 少しずつ食糧が減っていて、皆がお腹を空かせていた時期だ。地方への空襲も続いており、ここ熊谷もいつB29からの攻撃を受けるか分からない状況。


 そんな中でも、工場から課せられた仕事は達成しなければならない。誰もがピリピリしていた。


 そんな矢先、私と明美は喧嘩をしてしまったのだ。

 理由は些細なことだったと思う。けれど、お互い気が立っていたこともあり、少しだけ長引いてしまったのだ。友人になってから、初めての喧嘩だった。


 明美と話さなくなると、自然と一人で昼食を取ることが多くなっていた。

 彼女のいない日々はこんなにも寂しいものなのかと考えながらも、私はどうしても明美と仲直りする気になれなかった。


 彼女と口をきかなくなってから、1週間と少し。

 とぼとぼと帰り道を歩いていると、道端でうずくまっている人を見つけた。

 明美である。前と同じように家の前で体を丸めており、顔を上げようとしない。一度は、そんな彼女の前を黙って通り過ぎた。


 しかし、また彼女が泣いていないかが気になって、私は彼女の前まで戻ってしまった。


 息を吸い、彼女に話しかける。


『明美ちゃん』


 以前と違い、声は裏返らなかった。明美はゆっくりと顔を上げる。


 果たして彼女は、満面の笑みを浮かべていた。騙されたと思った時にはもう遅い。


『ふみなら、声をかけてくれると思った』

『今、声をかけたことを猛烈に後悔してる』

『まあまあ、そう言わずに』


 彼女は、「こっち」と自分の座っている隣の地面をぱんぱんと叩いた。


 有無も言わさぬ雰囲気を感じ取って、私は吸い込まれるように彼女の隣に座る。それでもこの時までは、「絶対に許さない」と固く決意していたのだ。彼女の前では、そんな決意なんて意味がないのに。


『ねえ、ふみはこの一週間寂しくなかった?』

『……』

『私はね、とっても寂しかったの』

『……』

『ふみがいないと、元気になれない。だから、仲直りして』


 そう言われて、私の決意はいとも容易く崩れ去った。

 明美は、私が彼女のお願いに弱いことを知っている。知っていて、こんなに嬉しいことを言ってくるのだ。結局、私は彼女のことを許してしまった。


 後日。私たちは、仲直りの印にお互いの大切な物を交換し合うことにした。


『はい。これをふみにあげます』


 彼女が渡してきたのは、なんと彼女自身の写真。白いワンピースを着た明美が控えめに微笑んでいる。戦争が本格化する前に撮ったのだろうか。写真の中の彼女は、目の前にいる明美よりも若干幼く見えた。


『こんなもの、貰えないよ』

『いいの』

『でも……』

『私が家の前でうずくまっていて、ふみが角砂糖をくれた時のこと、覚えてる?』


 忘れるわけがない。あの日をきっかけに、私たちは親しくなることが出来たのだから。


『実は、その前の日に、お父様から縁談があるっていう手紙を受け取っていたんだ』

『え?』


 明美の話によると、戦争が長引くならば早い内に身を固めた方がいいと、父親が手紙を寄越してきたのだそうだ。

 相手は5歳ほど年の離れた人で、条件としては悪くなかったが、明美はまだ婚約なんて考えられなかった。


『腹が立って、このことを友達に話したけど、みんな羨ましがるばかりで、誰も私の気持ちを聞いてくれなかったんだ。それで、寂しくなって家の前でうずくまっていたら……』

『私が通りかかった?』

『そう。それで、まさかの角砂糖を渡すっていう……ふふ』

『ちょっと、笑わないでよ』

『だって、急に角砂糖を差し出してくる子なんて他にいないよ、あはは』


 彼女は声も憚らずに大笑いし始めた。最初は恥ずかしかったが、笑っている彼女を見ていると、私もつられて笑ってしまった。


『結局、その縁談は駄目になってしまったけど。これは、その縁談で使う予定だった写真』

『なおさら貰えないよ。これからの縁談に使うかもしれないでしょう』

『私が思いっきり反抗したから、しばらく縁談はないと思う。それに、その時には新しく写真を撮り直すんじゃないかな。せっかくだし、ふみが持ってて』


 彼女はそう締めくくると、私の手に写真を握らせた。そして、今度は自らの両手を差し出してきた。


『この話は終わり! ふみは何をくれるの?』

『えっと』

『早くしてよ』


 私はおずおずと持ってきた物を差し出した。


『び、ビー玉です……』


 彼女は私の差し出した物を見て、目を丸くしている。それはそうだろう。写真とただのビー玉では価値が違いすぎる。明美がくれる物を知っていたら、もっと別の物を用意したのに。


 そもそも、『仲直りの印に大切な物を交換しよう』と聞いた時、一番最初に思いついたのが、このビー玉だった。


 十数年前、まだ幼い子供だった時、私はラムネ瓶の中のビー玉を欲しがった。父に我が儘を言って取り出してもらい、母に洗って綺麗にしてもらう。ようやく手に入れたビー玉を、月の光にかざした時の胸のときめきは忘れられない。

 まるでラムネの甘さがしゅわしゅわと溶け出し、凝縮されているようだと、幼い私はわくわくしたのだ。まだ、戦争が始まっていなかった時代の甘い記憶。


 そのときめきを忘れられなかった私は、これを箱の中に仕舞っていた。だから、「大切な物」と聞いた時にこれを明美に渡したいと思ったのだが。


 縁談の縁談の話を聞いた後だからか、急に自分の持ってきた物が子供っぽく感じられた。明美との距離を感じ、恥ずかしくなって俯いたところ、明美はむんずと私の手からビー玉を奪い取った。


『ふみ』


 幼い私が月明かりにかざしたそれを、彼女は日の光にかざした。柔らかな光に包まれて、ちっぽけなビー玉が輝く。


『綺麗だね』

『……そうだね』


その時に見た明美の笑顔が、今もまぶたの裏に映る。目を閉じれば、すぐに思い出すことが出来るくらい、鮮烈な記憶だった。




 意識を現実に戻すと、目の前で明美は微笑んでいた。その笑顔にほっとして、私は「覚えているよ」と頷く。


「ふみにもらったから、ずっと大切にしていたんだよ」

「ありがとう」

「ふみは?」

「え?」

「私の写真、持ってくれている?」


 頷こうとして、手元に写真がないことに気づいた。


「あれ……」


 私は必死に彼女の写真を探す。さっきまで手元にあったはずなのに、どこを探しても見つからない。

 なんで、なんで、と私は懸命に鞄の中を探す。ポケットの底をかき回して、ひっくり返しても、見つからないのだ。


「ごめん、さっきまでは持っていたんだよ」

「まあ、そのうち見つかるよ。先に行こう」


 彼女は淡々と告げて、私を置いて歩いて行ってしまった。慌てて彼女を追いかける。


「本当に大切にしてるんだよ。きっと、どこかで落としたんだと思う」

「落としてないよ」

「え?」

「行こう」


 彼女は一度振り返って、笑った。悲しくて仕方がないとでも言いたげに、でも、何も告げず。泣きそうな顔で、笑った。

 その表情に、胸が詰まる。私はそれ以上何も言えなくなって、黙って彼女に付いて行った。




「ここは、星川?」

「そう。星川」


 星川は、私と明美の住む家の近くに流れている川のことだ。玉の池から続く澄んだ水が流れており、太陽の光を反射してきらきらと輝いている。小さな魚も泳いでおり、時々川の中で魚が跳ねて水しぶきを起こしていた。


 明美は川岸まで行くと、川の中へと迷わず足を踏み入れた。ばしゃばしゃと音をたてて、豪快にもんぺの裾を濡らしている。


「ふみもおいでよ」


 夏、昼過ぎ。川の水はひんやりと冷たそうで、その魅力にあらがえなかった。彼女を追いかけて、靴を脱ぎ恐る恐る水の中に入って行く。


「ひゃっ!?」


 突然、横から水をかけられた。着ている物が濡れないよう、慎重に川の中に足を踏み入れた努力は、すぐに水の泡となってしまう。犯人はもちろん明美で、水を両手で掬ってニヤニヤ笑っている。


「もう!」

「悔しいなら、ふみもやり返しなよ」


 彼女はニヤリと右頬の口角を上げて、更に水をかけてくる。やられてばかりではいられないので、私も水をかけ返した。


 バシャバシャと音を鳴らして、子供みたいに水を掛け合う。私達の服や髪はすっかり濡れてしまった。ひとしきり水の掛け合いの応酬を行った後、お互いの濡れてしまった姿を見て大笑いした。


 明美は濡れた顔を拭って、私を振り返った。


「ねえ、ふみは覚えてる?」

「今日はそればっかりだね」

「語りたい気分なの、いいでしょ。……ふみが、ここの河原で私のことを励ましてくれた時のこと、覚えてる?」


 私は首を傾げた。彼女との思い出は全て覚えているはずなのに。


「じゃあ、春先に私が深―く落ち込んでいた時のことは?」


 そう言われて、あの時のことだと気づいて首を縦に振った。あの時の明美を思い出すと、今でも胸が痛む。




 あれは、花が芽吹き、春の気配が迫っていた季節のこと。


 明美の元に、両親の訃報が届いた。

 東京で軍需工場を営み、明美を熊本へ疎開させた両親は、東京大空襲によって亡くなったのだ。熊谷に疎開してから、両親にほとんど会うことが出来なかった明美はひどく落ち込んでいた。

 それでも、彼女は工場で働かなければならない。他の皆も親族を亡くしており、明美が両親を失ったことは珍しいことではなかったのだ。何より、学生の手が必要なほど働く人が足りていなかった。


 両親の訃報が届いた数日後。明美は、帰り道の途中で、寄り道したいと言って星川に足を運ばせた。

 一緒に帰っていた私は、そんな彼女の後を慌てて追う。川面に月が映り、ゆらゆらと揺れているのが印象的な夜だった。


『みっちゃんは、妹を亡くしていた。恵子さんは、二人の兄を。みえさんは、父親を。先生は、旦那さんを』

『……』

『私だけが不幸じゃないって、分かってる。分かっているんだけどな』


 自由気ままで、我が儘。よく言えば、天真爛漫。悪く言えば、傲慢。そんな彼女の姿はどこにもなく、当時の彼女は危うくてすぐに消えてしまいそうだった。


 明美は夜の川に静かに入っていった。


『明美ちゃん、危ないよ!』

『大丈夫だよ。ふみは先に帰っていて』


 そう言って振り返る彼女の顔に生気はなく、彼女が死にたがっていることが分かってしまった。そして、「死なないで」なんて言っても、今の彼女には響かないことも。


『明美ちゃん!』


 私は川の中に入り、明美の腕を掴んだ。彼女は驚いて、目を見開いている。


『ふみ?』

『あと一日、生きよう。そしたら、絶対にいいことがあるから!』

『いいことって……』

『とにかく、明日も会おうね』


 私はそう言って、明美の手を引いて川岸に上がった。そして、そのまま明美の家まで送り届ける。珍しく強引な私に、明美はぽかんと口を開けている。


『絶対だからね』


 ぼうっとしている明美に、私は念を押したのだ。




「その次の日からのふみは、すごかったよね」

「そうかな」

「お昼を分けてくれたり、変顔を見せたり、友達を増やそうとしてきたり……。毎日、私を繋ぎ止めようとしてくれた」


 あの時のことは必死でよく覚えていない。けれど、明美が生きていられるように、毎日彼女が喜ぶことを考えていたと思う。

 そうした日々を積み重ねていくうちに、徐々に彼女はいつもの笑顔を取り戻していったのだ。


「私にとって一番のいいことは、ふみと友達になれたことだなって思えたの」


 彼女は優しく微笑む。彼女が目を細めると、長いまつげが頬に影をつくった。


「あの時は、ありがとう」

「ぜ、全然……」

「あはは、照れてる」


 思い出話をしていたら、いつの間にか日が落ちかけていた。彼女の横顔に夕陽が差し、艶やかな黒髪が風に揺れる。


「本当に、ふみと友達になれてよかったって思ってるんだよ」

「どうしたの。そんなことを言うなんて、明美ちゃんらしくない」

「いつもは素直じゃないって言いたいのね」

「違くて」


 そうではなくて。もっと別のことを言いたいのに、上手く言葉が紡げない。彼女がどこか遠くに行ってしまいそうで、嫌な焦燥感に駆られる。


「あけ……」

「そこで何をしているの! 危ないでしょう!」


 その声にびくりと肩が揺れる。私たちに声をかけてきたのは、みっちゃんだった。きっと川に入っていることを怒っているのだ。


「あ、明美ちゃん。どうしよう」

「ふみ。今日一日、生きていてくれてありがとう」

「明美ちゃん?」


 明美は、逃げようとしなかった。真っ直ぐみっちゃんを見つめている。そして、私の手を引っ張って、ゆっくり川岸へ上がっていった。

 岸辺で待ち構えていたみっちゃんは、私たちの前に立ちはだかり、明美の腕を引っ張った。私はびっくりして、咄嗟に明美の反対の腕を掴む。


「みっちゃん? 何するの」

「いいから、それを寄越しなさい」


 彼女の言葉に、ドクンと心臓が鳴った。


「そ、そんなこと言わないでよ」

「いいから、早く渡しなさい」

「嫌だよ」


 みっちゃんの手を振り払い、彼女を睨んだ。徐々に日は沈んでいき、私たちを照らすのは月明かりだけになっていく。


「やめてよ」

「やめないわ」

「明美ちゃんの腕を放して。痛がってるよ」

「痛い訳がないでしょう!」


 突然、みっちゃんは大きな声を出した。


 何故か、彼女は涙を流しており、その涙に胸を突かれる。どんなにつらいことがあっても絶対に泣かない子なのに。親元を離れて暮らす子を率先して励ましたり、お腹が空いている子に自分の食事を分け与えたりする強い子なのに。


 彼女は嗚咽をこらえるように、唇をかみしめていた。


 その姿に驚いて、私は「明美」を握っていた手を放してしまう。みっちゃんは再び口を開いた。


「痛がっているわけがないのよ」

「や、やめて」

「だって、明美さんは……」

「やめ、」



「明美さんは、もう死んでいるんだから」



 足元に、ひらりと一枚の写真が落ちる。私の手から放り出されたのは、明美の「写真」。私たちの手が離れたそれは、いとも簡単に地面に落ちてしまった。




 1945年8月14日。

 私たちの住む熊谷は、空襲に遭った。広島と長崎に新型兵器が落とされており、明日には終戦するのではないかと噂されている中でのことだった。油断していた私たちは、容赦ない爆撃に見舞われることとなる。


 空襲警報が鳴り響いたのは、夜。すぐに轟音が一帯に響き渡り、爆撃に襲われた。枕元に置いてあった服に着替え、最低限の荷物を持って防空壕まで向かう。しかし、爆撃によって燃え広がった火が私達の行く手を阻んだ。

 夜にも関わらず、昼なのかと錯覚してしまうほど火が一帯を照らしていた。


『星川に入ろう』


 父の一言によって、私の一家は火と爆撃から逃れるために星川で身を潜めることになった。他の人達も同じように考えたらしく、星川の近くに住んでいる多くの人が川の中に入ってくる。その人々の中で明美達一家を見かけた。

 話しかけに話しかけに行きたかったが、人が密集していたために彼女の元までたどり着くことは困難だった。


 落とされた爆弾によって多くの家が燃えている。火が辺り一面を焼き、熱波が私たちを襲った。水の中に浸かっていると、自然と体力も奪われていく。意識が朦朧とし、不安で押しつぶされそうになりながらも、必死に夜が明けるのを待った。


 あれは、何時くらいだっただろうか。じりじりとした緊迫感に包まれる中、突然、燃えた建物が川の方向へと崩れてきたのだ。

 人の悲鳴と怒号が重なる。火のついたままの建物に押しつぶされていく人を目にした。その場所には明美の姿もあって……。


 やがて、長い夜が明けた。

 幸いにも、私のいた場所に被害はなかった。けれど、星川に入っていた多くの人が建物に押しつぶされ、火に燃やされて、亡くなった。川には死体が積み重なっていた。


 私は父母と共に一旦、家に戻り、家の状況を確認する。そして、昼の時間が近づき、天皇からの重大放送を聞くため、女学校へと向かった――





 昨夜の記憶を思い返し、もう一度、星川を見た。

 先程まで明美と遊んでいた美しい川は、いつの間にか消えている。土砂や建物の残骸が川の水を濁らせていて、腐った臭いが鼻を刺激する。


 私は拳を握りしめて、口を開いた。


「明美ちゃんは死んでない」

「いいえ。今朝、私も明美さんが瓦礫の下で亡くなっているのを見ました」

「でも、さっきまで私は明美ちゃんと喋っていたのに」

「あなたは一人で、写真に向かって話していたわ」


 容赦なく突きつけられた現実に、唇を噛みしめる。


 本当は、ずっと分かっていた。明美は、もう生きていないのだと。

 明美が建物に潰される瞬間を目にしていたのだから、分かっているはずだった。けれど、彼女と二度と会えないなんて信じたくなかった。


 信じたくなかったのだ。


「……あと、一日だったじゃない」


 私はぽつりと呟いた。その一言が波紋となって、絶望が広がっていく。


「あと一日早く戦争が終わっていれば、明美ちゃんは死ななくて済んだじゃない!」


 我儘で自由奔放、強引に人を振り回す癖、傷つきやすくて脆い一面を持っている。些細なことをきっかけに私と仲良くなってくれた、人を惹きつけてやまない明美。


 そんな彼女が永久にこの世から失われてしまったのだ。


「どうして、明美ちゃんは死ななければいけなかったの? どうして。どうしてよ!」


 どうして、もう一日早く戦争は終わらなかったのだ。あと一日でも早ければ、彼女は今でも生きていたのに。


 取り乱し、息も絶え絶えになった私の肩に、みっちゃんが手を置く。


「私には、あなたの問いに答えることは出来ないわ」

「……」


 ごめんなさい、とみっちゃんは頭を下げた。その姿をぼんやりと見つめていると、すぐに顔を上げた彼女と目が合った。


「けれど、ひとつ言えることがあるわ」

「え?」

「今はお盆。亡くなった人が私達に会いに来てくれる日」


 みっちゃんは、腫らした目を細める。その瞬間、彼女の瞳から涙がこぼれ落ちた。


「あなたが明美さんと話していたと言うのなら。明美さんが、他でもないふみさんに会いに来たと考えてもおかしくない、と思うの」

「……」


 死んですぐに会いに来るなんて、彼女らしいなと思った。そう思った時には、涙が溢れかえっていた。

 みっちゃんが私を抱きしめる。その背に縋り付いて、私は泣いた。


 明美のことを考えて、涙が涸れるまで。



***



 あれから、数十年。私は必死に生きてきた。結婚し、子供も産んだ。何度も泣き、時代の荒波に押しつぶされそうになりながら、必死に。


 その中で、明美のことを思い出すのは少しずつ減っていってしまったと思う。けれど、夏になるとどうしようもなく思い出す。


 二人で歩いた道が。川に入って、小学生の子供のように笑い合った記憶が。「ねえ、覚えてる?」と尋ねる彼女の声が。鮮烈に私の中に残っている。


 あの夏の日、死にそうになっていた私に、明美は会いに来てくれたのかもしれない。そして、誰かに縋ることが出来るまで、「一日だけ」とそばにいてくれたのかもしれない。


 すべて、私の妄想だ。けれど、自由な明美ならば、私の前に姿を現すくらい簡単にやってのけることが出来るのではないだろうか。


 夏は出会いと別れの季節だ。明美と出会い別れた夏になると、今でも彼女を思い出して胸が締め付けられる。





熊谷空襲で亡くなられた人数は、266人。ご冥福をお祈りすると共に、1日でも早く世界中の戦争が終結することを願っております。


〇参考文献

・『熊谷空襲の戦禍を訪ねて』 平成七年八月十四日印刷発行 熊谷市立図書館 美術、郷土係編集 関印刷株式会社

・『熊谷歴史年表 増補改訂版』 平成一五年四月一日発行 熊谷市立図書館編集・発行 関印刷株式会社

・『熊谷空襲―昭和20年8月14日夜のことー』 二〇一〇年八月一四日発行 鯨井邦彦編著 株式会社博文社


※この小説は私が学生時代にコンテストに応募し、受賞したものを再掲しております。ご了承下さいませ。

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