第八章「島野咲羽は知らないあの子に心を奪われた」
今回は島野咲羽から見た新入生オリエンテーションのシーンが描かれます。
体育館の空気は、どこか冷たかった。
春だというのに、足元からじんわり伝わってくる冷えに、咲羽は思わず肩をすくめる。
「……さむ……」
小さくつぶやいて、自分でも恥ずかしくなってすぐに唇を噛んだ。
真新しい制服はまだどこかぎこちなく、ブレザーの襟元をそっとつまむと、生地の硬さが指先に伝わった。
斜め前に並んでいる男子が咳払いをして、隣の女子は袖口をそわそわといじっている。
みんなが少しずつ緊張を隠しきれずにいるのが、咲羽の目にも映った。
『私だけじゃ、ないんだ……』
そう思ったけれど、安心よりも、やっぱり不安の方が少し大きかった。
「……ふぅ……」
咲羽は小さく息をついて、膝の上で組んだ指先をそっと握りしめる。
冷たい手のひらと、微かに汗ばんだ指先。
新しい制服の生地が肌に馴染まなくて、なぜだか余計に孤独を感じた。
『みんな知らない人……教室も、まだ居場所って感じじゃないし……』
胸の奥がもぞもぞと落ち着かなくて、目の前の壇上を見つめながらも、心は少し宙に浮いていた。
『でも、なんだろう……』
ふと、そんな思いが胸をよぎる。
『私……何かを、待ってる……?』
そんな気がした。でも、それが「何」なのかはわからなかった。
それでも、胸の奥にある小さなざわめきだけは、なぜか確かに感じていた。
そのときだった。
「それでは──新入生代表、白雪彩音さんによる歓迎の演奏です」
司会の先生のマイクを通した声が、静かに体育館全体に響きわたる。
ざわついていた空気がすうっと静まり返った。
咲羽も自然と顔を上げる。
その瞬間、舞台の袖から一人の少女が歩み出てきた。
「……あ……」
思わず、声にならない息が漏れた。
あの子だった。
教科書を取りに行ったとき、廊下ですれ違った──黒髪の、綺麗なあの子。
舞台の上に立つその姿は、まるで別世界の人のようだった。
黒髪が光を受けて艶やかに揺れ、整った制服姿はまるでパンフレットのモデルみたい。
凛とした空気を纏いながらも、どこか儚げなその雰囲気に、咲羽は目を奪われた。
『……きれい……』
心の中で、言葉がぽつんと浮かぶ。
そしてそのとき、ふっと胸の奥に何かが灯るような感覚があった。
彩音は舞台中央に設置されたグランドピアノの前に静かに座り、姿勢を整える。
譜面を見つめるその横顔は、まるで目の前にいる誰かと静かに言葉を交わしているようだった。
『どうしてだろ……見てるだけで、泣きそう……』
咲羽は唇を噛んで、胸の奥をぎゅっと押さえるように手を重ねた。
ピアノの椅子が微かに軋み、やがて──指が、鍵盤に触れた。
「……っ」
最初の一音が体育館の空気を震わせた瞬間、咲羽の全身にぞくりとした震えが走る。
それは音ではなく、風のようだった。春の風。柔らかくて、でも確かに触れるもの。
『え……何……? この音……』
音の波が、咲羽の胸を打つ。優しさと、切なさと、遠い記憶のような、でも確かに“今”に触れるもの。
ただ上手いとか、綺麗とか、そんな言葉じゃ追いつかない。
音に、感情が宿っていた。
孤独。希望。痛み。祈り。
言葉にできないものが、旋律になって、咲羽の心に溶け込んでいく。
「……うそ……なんで……」
気づけば、頬に温かいものがつたっていた。
驚いて目を瞬かせ、制服のポケットから慌ててハンカチを取り出す。
『どうして……涙……?』
小さな声が、震える喉から漏れる。
悲しくもない。苦しくもない。でも、胸がいっぱいで、息をするのが難しかった。
『やさしい……でも、くるしい……でも、きれい……』
震える指で顔を覆って、咲羽は小さく首を振った。
涙の意味が、自分でもわからなかった。でも、涙は止まらなかった。
『……誰……この人……』
まるで心をまるごと見透かされたような、そんな感覚だった。
誰にも触れられたことのない場所に、そっと手を添えられたような。
やがて演奏が終わり、静寂を破るように体育館中から拍手が沸き起こる。
でも咲羽の耳には、まるで遠くの波の音のようにしか届かなかった。
咲羽は、まだ涙を拭ききれないまま、音の余韻の中にいた。
拍手を送る手が動かなかった。
ただ、胸の奥に残った温もりを、そっと大切に抱きしめるようにしていた。
──名前も、クラスも、何も知らない。
でも確かに、この人の音が、私の中に届いた。
『どうしよう……私、今……』
そのとき、舞台の上の彩音がふとこちらに目を向けた。
咲羽の心臓が跳ねた。
その視線が自分を見ているのだと気づいた瞬間、思わずハンカチの下で唇を噛む。
目が合った。確かに合っていた。
でもそこに、威圧も驚きもなかった。
ただ静かに、優しく、凛としていて──そして、少しだけ寂しそうだった。
『……この人も、さみしいの……?』
胸の奥が、きゅうっと痛んだ。
涙がまたこぼれた。
でも、わかっている気がした。
これが、始まり。
心が動き出した瞬間。
まだ名前のない感情。でも、確かに、ここにある。
彩音がゆっくりと舞台から降りていくその背中に、咲羽は心の中でそっと言葉を送った。
「……ありがとう」
声には出せなかったけれど、心は確かにそう言っていた。
これは──まだ誰にも見せたことのない心の奥の灯火。
彼女の音が、ともし火をくれた。
始まりの音。
咲羽の物語が、今、静かに動き出した。
最後まで読んでいただきありがとうございました。島野咲羽が演奏に感動して涙を流すシーンは描いていてとても実感がありました。