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第四章「島野咲羽の胸の内」

今回は島野咲羽視点のホームルームが描かれます。

翌朝、制服を着た咲羽は鏡の前でくるりと一回転した。

スカートの裾がふわりと揺れて、制服が少し乱れたことに気づくと、慌てて直す。


「……よし。たぶん、大丈夫……かな?」


ぎこちなく笑って鏡に小さく手を振る。


「じゃあ、いってきます」


「いってらっしゃい。あ、待って、制服のリボンが曲がってるよ」


玄関先で母にそう言われ、島野咲羽はハッと顔を上げた。

反射的にカバンの中から手鏡を取り出し、リボンを直す。頬が赤くなり、指が少し震える。


「ありがとうございます……」


ぺこりと頭を下げると、母は優しく微笑んで「頑張ってね」と背中を押してくれた。

その笑顔にほんの少し勇気をもらって、咲羽は家を出る。


通学路には、まだ春の花の香りがほんのりと残っていた。

どこか、昨日までと景色が違って見えるのは、きっと制服のせい。


「……どんな人がいるのかな。優しく話しかけてくれる人、いるかな……」


ひとりごとのように呟きながら、鞄の持ち手をぎゅっと握り直す。


「きっと大丈夫です……うまくやれます、ちゃんとやれます……」


心の中で唱える言葉は、まるで自分を支える呪文のようだった。

声に出した言葉はかすかでも、心の奥に少しずつ灯る光のように、確かさを増していく。


けれど、その足取りはやはり慎重で、そっと地面を確かめるような一歩ずつだった。


教室の扉の前に立ち、咲羽は大きく息を吸い込んだ。

掌には、うっすらと汗がにじんでいる。


「大丈夫、大丈夫……きっと、大丈夫です……」


小さく呟いて、意を決してドアを引く。

瞬間、中のざわめきがどっと耳に飛び込んできた。


あちこちの机で、すでに何人かの生徒たちが談笑していた。

笑い声、椅子の音、ページをめくる音……音に包まれているのに、どこか遠く感じた。


「あ、新しい子だ」と誰かの声が聞こえる。


咲羽の胸がぎゅっと縮こまる。けれど、その声もすぐに賑やかな会話に溶けていった。


──よかった……まだ、怖くない。


ほんの少しだけ、胸の奥が軽くなったような気がした。


咲羽は教室の隅の席へと向かう。

通りがけに近くの席の女の子に、そっと声をかける。


「……お、おはようございます」


ほんの小さな声。

けれどその子は一瞬驚いたあと、にこっと笑って「おはよう」と返してくれた。


その瞬間、胸の奥にぽっと小さな灯がともったような気がした。


「……っ、ありがとうございます」


思わずお辞儀をしそうになって、あわてて頭を戻す。

顔が熱い。でも、そのぬくもりは少し心地よかった。


席について、鞄を開けて筆箱とノートを取り出す。

ノートの表紙に自分の名前を書く。けれど、ペン先がかすかに震えて文字が歪んだ。


「……だめですね、まだ緊張してます……」


くすっと笑って書き直す。

目の前の机も椅子も、どこか夢の中のものみたいで現実味がない。


でも──今日から始まる。この場所での、新しい日々が。


「……いい一日になりますように」


小さなおまじないのように呟いたその言葉は、誰にも聞かれないようにそっと空気に混ざって消えた。


ホームルームが終わり、担任の先生が明るい声を響かせた。


「教科書、取りに行ってきてくださいねー!」


咲羽も周囲の動きに合わせて立ち上がる。

少しずつ、周りの音が自然に耳に入ってくるようになっていた。


教室を出ると、廊下にはやわらかな春の光が満ちていた。

窓から差し込むその光が、制服の袖を優しく照らす。


──ここが、自分の学校。

──ここで、これから毎日を過ごしていくんだ……。


小さく息を吐き、歩き出したそのときだった。


前方から、一人の少女がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。


──……え……?


思わず、足が止まった。


黒く、まっすぐな髪。白い肌。凛とした制服姿。

全てが整っていて、まるで誰にも触れさせないような空気をまとう少女。


なのに、その雰囲気の中に、なぜかふとした寂しさが混じっていた。


横顔が、光の中でやわらかく揺れる。


──綺麗な人……。


言葉にはしなかったけれど、心の中で呟いたその感想が、自分でも驚くほどはっきり響いた。


その瞬間、目が合いそうになった。

けれど──すぐに逸らされる。


咲羽も慌てて視線を落とした。


──声を、かける理由も勇気もない。

でも、ただ通り過ぎただけなのに、胸がざわめいている。


『……誰だったんでしょうか』


遠ざかっていく後ろ姿を、咲羽はただ立ち尽くしたまま、目で追っていた。


「……また会えたら……」


ぽつりと漏れたその言葉は、自分でも気づかないほど自然な想いだった。


教室に戻ると、クラスの中はもう元通りのにぎやかさに戻っていた。

でも、咲羽の心だけは、まだあの廊下に取り残されたままだった。


教科書を机の上に並べながら、ふと窓の外を見る。

春風が枝を揺らし、遠くの空がやわらかく霞んでいた。


──もう一度、会えるかな。


名前も知らないその人に向けた想いが、胸の奥でふくらんでいく。


『次に会えたら、名前を知りたいです。……それだけでも、いいから』


そう願うと、ほんの少しだけ胸が温かくなる。


その感情に名前をつけるには、まだ少し早い。

けれど──確かに、小さな芽が心の中で芽吹こうとしていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。お気に入り登録してただけると嬉しいです。

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