第三章「白雪彩音は名前を知らないあの子に、心が揺れた」
今回は白雪彩音のホームルームシーンが描かれます。
翌日の春の朝は、まだ少し冷たい空気を残していた。
真っ白な校門をくぐった彩音は、鞄を片手に静かに歩く。
足音は、誰とも重ならない。まるで、世界に自分ひとりしかいないようだった。
「……はぁ……冷たい」
吐き出した言葉は白くならないけれど、胸の奥はまだ冬の名残を抱えていた。
昨日は入学式だった。
拍手と注目を一身に浴びた舞台の記憶が、まだ肌に残っている。
けれどそれは、感動でも誇らしさでもなく──「役割を果たした」というだけの、乾いた記憶だった。
『昨日の入学式は緊張したけれど、春休みの間に一生懸命頑張ってよかった……あの拍手は、忘れられない……今でも、しっかりと耳に残っている……』
制服の裾を風がさらい、朝の光が校舎の窓に反射してまぶしい。
「今日も、ちゃんとやるだけ……」
ぽつりとつぶやいた言葉は、誰にも届かないまま空に溶けていった。
昇降口の扉を潜ると、春の空気がふわっと校舎の中に流れ込んできた。
新しい一日が始まる──そう思うと、ほんの少しだけ胸が高鳴った。
「……一組、だったわね」
制服のポケットから時間割の紙を取り出し、小さく確認する。
下駄箱に上履きを取りに来ていた生徒たちの視線が、ちら、と彼女に向けられる。
そのどれもが、一歩引いたようなまなざしだった。
「……やっぱり、まだ馴染めないな」
誰にも聞こえない声でそうこぼし、彩音は教室の前に立った。
扉の向こうからは、にぎやかな声が漏れている。
始業前だというのに、もう何人もの生徒が集まっていて、誰かが笑っていた。
『楽しそう……』
けれど、その輪の中に自分が入る未来は想像できなかった。
彩音はドアノブに手をかけ、一呼吸おいてから扉を開いた。
一瞬で、空気が変わった。
数人の視線が一斉に彼女に向けられ、ざわ、と小さな波が教室に走る。
「──あ、新入生代表の子だ」
「見た見た、スピーチしてたよね」
「すご……モデルみたいな顔してる」
「なんか……近寄りがたいっていうか、別世界の人っぽい……」
そんな声が、教室の空気に紛れて聞こえたような、聞こえなかったような。
彩音は何も表情を変えず、黒板に貼られた座席表を確認し、静かに自分の席へ向かう。
窓際の最後列。
誰にも話しかけられなくて済みそうな場所。
鞄を机に置き、ゆっくりと椅子に座る。
背筋を伸ばしながら、ふと目を伏せた。
──今日もまた、ひとりで過ごす日が始まる。
ホームルーム開始のチャイムが鳴り、彩音は席に着いた。
「それじゃあ、次にクラス目標と委員会決めに入ります」
担任の明るい声が教室に響く。
掲示板には色とりどりの目標案が貼られ、生徒たちはそれを見ながらざわざわと話し始めた。
「元気なクラスがいいなー!」
「やっぱ勉強もちゃんと頑張らないとだよね」
「『絆』とかどう?ちょっとベタだけど」
彩音は、静かにノートを開いた。
──こういう時、何も言わないのが一番いい。目立ちすぎると距離を置かれる。けれど、無関心すぎると変に目を引く。
そんなことを、彼女はもう知っていた。
「ねぇ、クラス委員長……白雪さん、どうかな?」
ふいに、前の席から声が上がった。
数人がその声に同調するように、頷く。
「しっかりしてそうだし」
「代表やってたし、ぴったりじゃん!」
「落ち着いてるし、頼れそうだよね」
教室の空気が、自然とその流れに傾いていく。
誰も反対しない。いや、誰も他に立候補しない。
彩音は少しだけ微笑んで、首をかしげるようにして言った。
「……わかりました。私でいいなら、クラス委員長をやらせてください」
その笑顔には、温度がなかった。
心が何も動かないまま、ただ静かに役割を受け入れた。
それはまるで、感情を置き去りにした作業のようだった。
ロングホームルームが終わり、生徒たちはぞろぞろと廊下へ出て行く。
彩音は、クラス委員長の資料を職員室に提出するために一人歩いていた。
「……静か」
空になった廊下は、教室とは違う種類の空気が流れていた。
そんな中、ふと前方に人影を見つけた。
青みがかった髪が、春の光にやさしく透けて見える。
背は自分より少し低くて、控えめな足取りで歩く少女。
──あの子、どこか、違う。
言葉にできない感覚が、胸の奥にすとんと落ちた。
その瞬間、少女がふと顔を上げた。
目が合いそうになる。けれど──ほんの一瞬の差で、それは交わされてしまった。
すれ違ったあとも、彩音は振り返らないまま歩き続けた。
けれど心の奥には、小さなひっかかりが残っている。
「……誰だったんだろう」
知らない誰か。名前も知らない。
でも、なぜか気になる──そんな感情に、戸惑いを隠せなかった。
そして、放課後のチャイムが鳴る。
彩音は教科書を鞄にしまいながら、ふと窓の外を見つめた。
春の陽射しが、グラウンドに長い影を落としている。
遠くで部活動の声が響いていた。
──誰かとすれ違った。何気ない瞬間。
けれど、それはなぜか妙に、記憶に残っている。
「……名前も、知らないのに」
思わずこぼれた言葉に、彩音は小さく笑った。
感情に名前をつけるには、まだ早い。
けれどたしかに、心の奥で何かが、静かに揺れていた。
鞄を手に取り、立ち上がる。
あの横顔が再び現れることなど、きっと偶然にしかすぎない──そう思いながらも、なぜか期待してしまう自分がいた。
春の始まり。
その心のざわめきに、まだ彼女たちは名前を知らない。
だけど、物語はもう、すれ違ったあの瞬間から動き始めていた。
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