第90話 久しぶりの塾はやっぱりボロい
待ちに待った吉永とのデート(嘘)だが、いざ当日を迎えてみると思いの外緊張していない自分が居る。
緊張しないで済んでいる理由は、吉永の様子が何となくおかしい気がするから。
具体的に何処がおかしいのかと聞かれても困るけど、何となく気もそぞろと言うか。
珍しく遅刻をした事もそうだけど、もしかしたらあまり体調が宜しくない可能性も考えられる。
だから、吉永が合流する直前まであった緊張は気合で飲み込む事にして、現在進行形で調子が悪そうな彼女をフォローしようと、気持ちを切り替えたわけだ。
吉永は弱音を全部隠してしまう人だから、体調が悪いとしても絶対に何も言わないし、助けも求めてくれないだろう事は想像に難くないしな。
その為、うきうきデート気分は残念ながら閉店してしまった。
「本当に大丈夫か? 水分補給しとく?」
「だから大丈夫だって。もしかしたら将来後輩になる子もいるかもしれないしね、どっちかって言うと楽しみ」
「まあ、それはそうだなー。一人も居なかったら、一人くらい深山に来たいと思って貰えるように、精々楽しい高校生活を話してやるか」
緒方先生から呼ばれるまで待機するように言われた俺達は、教室のドアの前でコソコソと話す。
大変ボロい建物はドアの建付けも悪く、あまり大きな声で話すと中に筒抜けになる。
「おお~奈良~、オロシちゃ~ん、どうぞ~う」
待機する事としばらく。
ガチャリと開いたドアの向こうから、嬉しそうな緒方先生の声が聞こえて来た所で、いよいよ俺達の出番。
相変わらず妙なテンションと言うか、変わった人と言うか。
オガ先には絶対に夜道で話しかけられたくない。
呼ばれた俺達は互いに見合い、軽く溜息を吐いた後に教室に足を踏み入れた。
「はぁい、みんな~、こちらの二人はなんとぉ~おお? 皆の先輩に当たるお兄さんお姉さんだよおお~」
「お兄さんお姉さんって、一つしか歳離れてないんすけど」
「と、皆わかっている事をわざわざ言った真面目な彼がそう、奈良だ 奈良の鹿だ」
「誰が鹿ですか」
俺が突っ込むのを計算したような腹の立つ意味のない紹介をされた所で、塾生のまばらな拍手が教室に響く。
何だ、この状況は。死ぬほど恥ずかしいんだけど。
「そして奈良の鹿さんの横にいる綺麗な子がオロシちゃんでえ、二人は今年の二月までうちの塾で学んでいた現役の深山高校の生徒さんだ~」
「どうもー」
相手にすると疲れるとわかっているからか、吉永はオガ先のうざい紹介を完全に無視する事に決めたらしい。
すっごく良い笑顔だけど、明らかに人工的な笑顔だな。
「奈良君とオロシちゃんは去年の夏からうちの塾に通うようになったんだけど、なんとまあ、たったの半年で学力を爆上げして、あの深山にまで入学してしまった頑張り屋さんなんだあよぉねえー」
緒方先生の言葉を聞いた教室の生徒、二十人の生徒が口々に“おお”と感嘆の言葉を漏らす。
そんな二十人の中の一人は、特に大袈裟に驚いた振りをしていて、わざとらしく”すごーい”なんて言って、穴開くんじゃないかってくらいに俺の方を凝視している。
なんてわざとらしい驚き方だ。
それにまあ感心してくれたところ悪いけど、俺の場合はここに入塾した時点である程度基礎が仕上がっていたから、完全に誇張だな。
ただ、吉永の場合はあながち嘘ってわけでもないのかな。
実際に夏休み直後の彼女の学力は深山を狙えるレベルに届いていなかったので、半年で爆上げして難関校に受かったと言うのも、吉永には当てはまらなくもないだろう。
その吉永にしたって基礎は十分出来上がっていたけど。
「じゃあ、私の紹介もこのくらいにしてぇおいてぇ、奈良君とオロシちゃんがどんな感じでぇお勉強をしてぇいたのか、皆の参考になるようなお話を聞かせてぇ貰いましょう!」
オガ先の独特な喋り方は平時に聞くと気が散って仕方ない。
だけど、喋りが気にならなくなるくらいに教えるのが上手いから、授業中に集中して勉強していたら、不思議とどうでもよくなるんだよな。
「どうも、たった一つ年が上ってだけの先輩だけど、皆さんの中に深山とかその上を目指してる人がいるなら、参考まで聞いてくれればいいかなって思います。吉永、いいか?」
「はいはい、えーっとですね。まず皆がどのくらいの高校狙ってるかって聞いていいですか? 多分オガ先からも聞いた事あるかもしれないですけど──」
話す内容は至ってシンプル。
勉強に近道は無い、と言う事。
本気で難関高校を目指すならこの塾を信じろ、と言う事。
深山高校の生徒は楽しい、と言う事。
夏休みにクラスメイト全員で遊びに行く、と言う事。
深山高校の料理倶楽部は楽しい、と言う事。
要約してしまえばこのような事を話しただけ。
ディスカッションとまではいかないが、合間に塾生の質問を受けながら俺や吉永が受け答えする、そんな感じのお話。
普段している勉強法や思考法、夏休みのどの時点でどの程度まで仕上げている必要があるか、合格に必要になる学力と今の学力の差を推し量る方法とか。
俺達がわざわざ話すまでもなく、殆どは塾が教えてくれる内容ではある。
だけど、講師から聞くよりも歳の近い人間から聞いた方が親近感が沸くと言うタイプも居るだろうから、俺と吉永はそう言う人達に向けて期待を膨らませるように話す役割。
基本的に全員が熱心に聞いてくれていたと思うけど、やはり一人だけずっとニヤけていると言うか。
若干浮ついた様子のふざけた態度の塾生も居たが、それ以外に特に気になるような事もなく。
俺と吉永の二人で行う初めてのお仕事は、無事に終わりを告げた。
報酬はお金じゃなくてジュースとお菓子だけどな。
◇
ボロ塾での話はサクサクと進み、これと言ったアクシデントも無く無事に終わった。
それは良いんだけど、何となく気になる事もあって今一つ集中できなかったかもしれない。
「えー、すっごー!」
塾生の中に一人だけ、鹿島が話す度にチョロチョロと反応する変な女子がいたから。
気にする程でもないんだけど、何となく気になると言うか……。
ずーっと鹿島の事を凝視していたので、もしかしたら一目惚れでもしてしまったのかもしれない。
鹿島カッコイイし気持ちはわからなくもないけどね。
だけど、折角鹿島が真面目に話してるんだから、もう少し真面目に聞いた方が良いとは思う。
「奈良先輩とオロシ先輩って付き合ってるんですかー?」
「はいはーい。俺とオロシさんそう言うんじゃないでーす。皆もアレだからな? 高校生になったらすぐに彼氏彼女が出来るってわけじゃないから、そこは勘違いすんなよー」
ドキリとするような質問もあったけど、何を聞かれても鹿島が適当に流して相手にする事は無くて、妨害されると言う程でもなかった。
だけど、もしかしたらああ言うのをアプローチと言うのかもしれない。
と、少し勉強になったような気がしなくもない。
だけど、それでもちょっとモヤると言うか……。
「おつかれ、吉永」
「おつかれー」
話が終わって教室を出た私達は、講師の控室に向かう。
て言うか、あんなにわかりやすく距離を詰めて来られていたと言うのに、鹿島が全く無反応だったのはどうなんだろう。女子のあしらい方が上手過ぎると言うか……。
普段から近藤達に絡まれまくってるけど気にした風でもないし、そう言うのに慣れているのかもしれないけど、それを差し引いても落ち着きすぎていると言うか。
やっぱり経験豊富だったりするのかな、なんて考えてモヤってしまっていた。
まあでも、中三の時に初恋がまだで童貞だとか自分で暴露していたからそんなはずはないんだけど、それにしたって鹿島はちょっと落ち着き過ぎている気がする。
姉や妹がいる男子がその手の距離感に慣れている事はわかる。
でも、一人っ子の鹿島がこうも落ち着いているのはどうなんだろう。やっぱり初恋が分からないとか言ってたから、全然ドキドキとかしないのかな?
私なんて今日ずっとドキドキしてるのに。
「奈良もオロシちゃんも今日はあーりがとおねー!」
その後すぐに休憩時間に突入した緒方先生が控室に現れて、長々と会話をした後にようやく私達は解放された。
そうして、沢山の缶ジュースと袋に詰め込まれたお菓子を手渡された私と鹿島が、頭を下げてお礼を口にしながら控室から出た直後──。
「──せーんぱいッ! おつかれさまでーす」
「うおっ、なんだなんだ?」
つい先程教室で鹿島を凝視していた女子が、講師の控室から出て来た彼の背後から遠慮なく抱き着くと言う、信じられない光景を目の当たりにしてしまった。
「ちょっ、ちょっとあなた何やって──」
名も知らぬ後輩のあまりにも突然の蛮行に、一瞬思考が停止してしまったけれど、何度か瞬きをした私はすぐに気を取り直して口を開く事に。
何なのこの女! 鹿島だって驚いてるじゃない!
なんて思ったのも、やはり一瞬。
「なんだよ、真……。今授業中じゃないのか?」
「トイレ休憩ってあるじゃないですか? アレですよー、先輩知らないんですかー? おっくれてるー」
「知ってるわ。いや、だったらトイレ行けよ」
いきなり背中にへばりついてきた知らない女子と普通に話し始めた鹿島を目の当たりにした事で、私の頭は余計に混乱した。
え? 誰?
だけど、嫌いじゃないんだよな、ここ