第57話 ぎこちない距離感は
中野と衝突した翌朝。
教室には微妙な空気が流れていた。
昨日の放課後は既に部活に行っていたり、帰宅していて内容を知らなかったであろうクラスメイトも、教室に残っていた他の連中からリリンクで何となくの内容を聞いたのか。
教室に入ると、中野の周りの空気だけがピリピリとしていた。
うーわ。どうしよ、これ。
俺は中野と散々話して納得したから、マジでもう何とも思って無いんだけど、クラスの空気わりぃー……。
姫野と吉永も久しぶりに俺の席の周りに移動していて、中野の席の周りだけ静かになっていた。
「おはっすー」
どうしたものかと考えながらも、気付かない振りをしながら挨拶をすれば、佐々木や泉井達が挨拶を返してくれた。
教室の後ろで駄弁っているラグビー部のトリオや、教壇の周りに集まって喋っている女子等、いつも通りの教室に見える。
でもやっぱり、少し雰囲気が悪い。
「おはー、中野」
どうするのが正解なのかなんて、そんな事はわからないけど、俺は俺に出来る事をするしかない。
またなと言って別れたんだから、とりあえず挨拶だ。
「……お、おはよう、鹿島」
「うぃっす」
席を通り過ぎながら挨拶すると、居心地が悪そうにしながらも、それでも挨拶を返してくれた中野を見て、ほっと一安心。
とは言え、あんまり構い過ぎると目立つから嫌だとか言われたので、俺が出来るのはこのくらいしかないんだろう。
後は俺達の間の話し合いはもう終わっていると言う事をクラスに周知すれば、そのうちいつも通りの教室に戻るだろう。
「き、昨日は、悪かった!!」
──と思ったんだけど、俺が通り過ぎるよりも前に椅子から立ち上がった中野が、大きな声で謝罪の言葉を口にしたかと思うと、その場で深々と頭を下げた。
……普通にビビった。
「い、いや、俺は全然ってか、もう昨日十分話しただろ?」
「だ、だとしても、悪かったと思ってます!」
今まで教室の中で自己主張らしい自己主張を何もしてこなかった中野が、出来る限りの大きな声を出して頭を下げている光景。
教室内はやはりシンと静まり返ってしまった。
「駄目だよ、鹿島君!! よくわからないけど! 中野君謝ってるなら許してあげようよ!」
静まり返ったのだが、直後に響いた姫野の言葉に教室の空気は瞬時に弛緩し始める。
扱いが大変難しい鉄砲玉みたいに次々に言葉を放つ姫野だけど、やっぱりこう言う時は本当に助かるかも。
「許すも何も喧嘩とかしてねえから! な、中野?」
「それは、まあ、いや、でも、昨日は僕が悪かったと思って」
「それはもう昨日話して終わっただろ? どうしても言いたい事があるなら、クラスに向かって何か言ってもいいけど、なんかあるか?」
中野の横に移動した俺は、肩を抱きながら口元を隠してヒソヒソと耳打ちをした。
「……いや、ありがとう鹿島。でもこれは、自分で言うよ」
「オッケ。……心配しなくても一組は良い奴ばっかりだよ」
肩から手を離した俺は中野から一歩距離を取って、手を出すのを辞めた。
多分、こう言うのは誰かじゃなくて自分で一歩踏み出さないと駄目なんだと、中野にはそれがわかっているのだろう。
やっぱり、思った通りちゃんとした奴じゃん。
「き、昨日は、鹿島を含めて、僕の発言で不快な思いをさせてしまった人が、居たと、思います。皆が色々な事を頑張っている事は、わかっているつもりで、ぼ、僕は勉強を頑張っているのに結果が出なくて、それで──」
「えー!! でも中野君凄く頭良いよ! 私より全然順位上だったよね!」
「姫野さんと比べるなよ」
「一組は冬が一番下なんだから、中野君の順位が上なのは当たり前でしょ……」
「うっ……」
姫野の言葉に俺と吉永が突っ込むと、中野の言葉で再び緊張感が漂い始めていた教室が再び弛緩した。
もし狙ってやってるならたいしたものだけど、姫野の場合は考える前に口が動いてるんだろう、たぶん。
「てか、中野って何位だったんだ?」
そして、こう言う時に空気が読める男と言えば、一年一組で一番大人な男、服部大明神だ。
弛緩した空気を見逃さずにすかさず質問を被せてくれるんだから、間の読み方と言うか、空気の読み方と言うか、服部は本当に頭が良いと思う。
ずっと剣道やってたらそう言うのが読めるようになるのかな?
部活を引退したら一気に成績を伸ばしそう。
「ク、クラスは7位で、学年だと46位で──」
「いや全然高いじゃねえか!」
そして、中野の言葉を受けた服部が突っ込みを入れた所で、この話は終了。
「私も頑張ったつもりだったんだけど全然だったー」
「期末で挽回しないと親に怒られるー」
空気は一度弛緩すると何処までも緩くなっていくものだ。
真面目な顔をして頭を下げていた中野から漂っていた緊張感は、一瞬にして塗り替えられて、教室は一気に喧騒を取り戻してしまった。
「いや、あの、」
「だから言っただろ、一組は良い奴しかいないって。皆部活もイベントも遊びもどれもやる気満々だけど、それと同じくらい勉強ばっかしてる連中しかいないんだって」
中野の中学時代がどんな感じだったのか、どんな中学校だったのか。
もしかしたら色々あったのかもしれないけど、それを深く聞こうとは思わない。
だけど、ここは中野が通っていた中学とは違うんだって事は覚えておくべきだろう。
「……みたいだな」
「って事で、次の期末は勝負だな、中野。このクラスの誰が一番勉強をしまくる真のガリ勉か、はっきりさせようじゃないか」
「なんだよ、それ」
俺の言葉の何が面白かったのかはわからないけど、中野翼は初めて、ほんの少しだけ楽しそうな顔をして、それを隠すように口元に手を当てた。
「それじゃ、お互い頑張ろうな」
そもそもの話。
地元から一人でこの学校に来たと言う事は、周りに知り合いが誰も居ないと言う事だろう。
親元を離れて、親戚の家に居候していると言う事は、身近に相談相手が誰も居ないと言う事でもある。
それに、昨日もそうだし今もそうだけど、言いたい事を言えるってのは、中野が考えているよりずっと凄い事だ。
正直言って、高校一年でその選択が出来る時点で、中野は俺達よりもずっと強いと思う。
俺なんて大学も一人暮らしじゃなくて、家から通いたいって思ってるくらいだから……。
いや、本当に凄いと思うわ……。
「べ、勉強も頑張りますが! 学校行事も頑張ろうと、思いますので、よろしくお願いします!」
そして、話が有耶無耶になって五月蠅くなった教室で、中野がもう一度大きな声を出して頭を下げた所で、この話はお仕舞。
この手のやり取りを女子がどう思うかわからないけど、少なくとも男子は──。
「んだよー、そう言う事なら中野も今日から球技大会の練習参加しろよー?」
「補欠って結構大事だからな? 当日何かアクシデントがあった時に誰とでも交代できるように整えてないと駄目だしな」
「学校行事も頑張るって言ったの中野だからなー?」
──少なくとも男子は、こう言う奴が嫌いではない。
「私も頑張るよー! 今はね、昼休みに皆でバレーの練習してるよ!」
「はいはい。冬は勉強も頑張りましょうねー」
「がん、ばってる」
ガッツポーズを取った姫野の腕を掴んだ吉永が下におろすと、腕が下に移動するにつれて姫野の言葉からもどんどん力が抜けて行った。
「いやー、良かった良かった、中野がやる気になってくれたなら俺も本腰入れてシステムの話出来るわー」
「ちょ、な、なんだ鹿島」
「ほい。球技大会でサッカー選んだ男子は集まれー」
学校行事も頑張ると宣言した中野の腕をひっつかんだ俺は、そのまま自分の席ではなく教室の後ろに中野を連れ出した。
「が、頑張るとは言ったけど、僕は本当に運動神経が無くて」
「だーいじょぶだいじょぶ。ピッチで疲れ見えてるなーって奴を休ませる為に交代するってのも全然あるから、居てくれる事に意味があるんだよ」
「鹿島それ中野のこと戦力外扱いしてね?」
「ち、ちげえし!」
「いや、実際に僕は戦力にはならないんで──」
今までずっと自分の席で教科書だけを眺めていた中野翼は、この日初めて教室の後ろで集まった男子の中に混ざって、鹿島蒼斗の隣で照れくさそうに笑った。
いつかきっと無くなるら、一緒に頑張ろうぜ!