5 それぞれの役目 ⑦
その返答を聞き、興味を引かれた様子でフィンレーが身を乗り出す。
「へえ、妖精族か。しかも女性とは隅に置けないな。恋人か?」
「そうだ」
短く返ってきた言葉にフィンレーは目を見開き、「本当に?」と声をあげる。
「それなら是が非でも帰らないとな」
明るく言うフィンレーに対し、エンリェードはわずかな沈黙をはさんだあと、「おそらく間に合わないだろう」と感情の欠ける音吐で言った。
フィンレーが眉を上げ、いぶかしげな表情を浮かべる。
「何だって?」
「彼女の病気は末期だ。秋までここで戦うなら、帰るころには彼女はいまい」
「そんな重篤の恋人を置いてきたのか?」
「連れてくれば良かったと?」
「まさか! そばにいてやれば良かったのに」
よく通る大きな声でそう言ったフィンレーの真剣な顔を見返し、それからたおやかに吹きつけた春の風でも追うように視線をよそへ移したエンリェードは、「医学の知識も薬学の知識もない、多少治癒術が使えるだけの私がそばにいるだけで治るなら、迷わずそうしただろう」と平板な口調で応えた。
そんな彼を見据えたままフィンレーも言葉を返す。
「死の迫った病人が恋人に求めるものは、知識でも魔術でもないぜ」
「そして愛も万能薬にはならない」
フィンレーはその返答に返す言葉を失い、口をつぐんだ。
エンリェードは再び彼に視線を戻し、ほんの少し申し訳なさそうな表情を浮かべて「気にしないでくれ」と言う。
「私たちはお互い、自分のやるべきことのためにこの選択をした。彼女は未だ不治の病である自分の病気を治すため、最後まで研究を続けることを選び、私は父が交わした盟約を守るため、そして月夜の民という自分の属する世界を守るためにここへ来た。戦いが長期にわたることは予想していたから、何も問題はない。何も後悔はしていないし、お互いの選択を誇りに思っている」
そう言ってエンリェードは微笑み、かぶっていた上着をフィンレーの肩にかけると、「ありがとう、もう大丈夫だ」と言って踵を返した。
軽やかに石壁から飛び降り、館の方へ視線を向ける。
「どこへ?」
「ペンとインクを借りる。姉に手紙を送らなければ」
外壁の上から顔を出すフィンレーを見上げてそう返したエンリェードは、たちまち黒い狼に姿を変えると、音もなく前庭を駆けていった。
月夜の民の血は引くものの、人間として生活している姉に月夜の民のことで手をわずらわせるのはどうにも気が引ける、と彼は心の中で呟く。
しかし、エンリェードにはどうしても姉に頼らなければならない理由があった――というのも、外で戦う策を推したのは自分だからと、館の外での防衛に使う携行魔術装置を自らが用意すると皆に約束したからだ。
魔術装置は効果範囲内の魔術の威力を増幅する他、あらかじめ構築した魔術を装置内に書き込み、それを任意のタイミングで発動することのできる魔器の類である。持ち運びできるような小型のものでも非常に高価で、エンリェードの私財をすべて投じても必要な数だけそろえるのは不可能だ。
よって、彼は黒狼公の領地を治めている姉に、領地内の他の財産とは別に管理しているはずの、王からの要請時に備えた軍資金を借り受けるつもりでいる。それを使う権利があるのは、現状、黒狼公としての決断を姉自身から一任されているエンリェードだけだ。規則や規約に厳しく、真面目な堅木の民の血を引く姉なら応じてくれるだろう。
領地の今後の管理も姉一族にゆだねることを伝えなければ、と彼は思った。
彼らが月夜の民の王の奪還に失敗し、表舞台から姿を消すことになった時、領地を持っている者はこの戦いで協力関係にある商人のルースに土地を譲ることになっているが、そもそもそれは任意であり、すでに人間が治めている場合、そのまま維持しても何も問題ないことはルクァイヤッドに確認済みだ。
長年黒狼公の持つ領地の良き主を務めた姉に、エンリェードの一存で領地を手放すよう言うことはとてもできなかったため、彼女に正式に託せるようになったのはエンリェードにとって朗報と言える。
黒狼公の領地が正式に人間のものとなり、エンリェードのことを知る姉がこの世界を去れば、おそらくもう人間には誰も彼が何者なのかわからないに違いない。フィンレーのように彼もまた、人間にとっては幽霊のような存在になる。
それでいい、とエンリェードは思った。
人間のフィンレーとは違い、月夜の民には無限に近い時間がある。光の時代が終わり、闇に沈む夜の時代が来た時、彼らの生きやすい時代がやってくるだろう。それを待つだけの忍耐力もある。
だが、そのためにはまず、この戦いを生き延びなければいけない。それが叶わなかった者は灰となり、風に乗って消えていく。
その風を追うように、その日の夜にはキナヤトエルの寂しげな竪琴の音色と、ヴェルナンド卿やその眷族たちを悼む彼女の澄んだ歌声だけが静かに夜の闇の中に響いていた。




