5 それぞれの役目 ⑥
エンリェードは立ったままフィンレーを見下ろし、独り言のように言葉を続けた。
「もう一つ」
「うん?」
「死ぬなと言われた」
短い言葉を紡ぎ、エンリェードも息を一つつくと、驚いたように自分を見上げているフィンレーからゆるりと視線を外して、白くぼんやりとした眼前の世界へと目を向ける。
「父には世話になったから、息子の私だけでも生きて欲しいと」
「そうか……君は黒狼公の唯一の後継者だしな。俺もそれを願うよ」
どこかひやりとした夜の気配を感じさせるエンリェードの言葉にフィンレーはうなずき、やがて「よし」と明るい声音で言う。
「何かあったら俺が守ってやろう」
得意げに胸を張るフィンレーに、しかしエンリェードは思案するように沈黙を返しただけだった。
未だ白くかすむ壁の向こうの景色に意識をとらわれたままでいるエンリェードを一瞥し、フィンレーはぼやくように言う。
「俺の護衛は不満か?」
エンリェードはそれに黙然と首を振り、いくばくかのためらうような沈黙をはさんだあと、静かな声音で呟いた。
「父との思い出など数えるほどしかないのに、ここにきて父に背を押されている気になるから不思議だ。彼の残した功績が人々の耳を私の話に傾けさせ、彼の築いた人望が私を守ろうとする」
その言葉にフィンレーは少し寂しげに微笑んだ。
「お互い、父親の影を追うばかりだな」
エンリェードがフィンレーの方へと顔を向ける。
この陣営でただ一人の人間の騎士は、自嘲混じりの苦笑を浮かべて言った。
「俺にとっての父親は月夜の民の王だ。彼の代役を務めようと、彼のようになろうとしてきたが、なかなか上手くいかない」
「……指揮官の件はイドラス卿に任せていいと思う」
エンリェードがそう言うと、フィンレーは「わかってる」と返して顔を正面へ戻し、誰かを探すように朝靄の向こうをじっと見やる。
「その件に限った話じゃなく……」
そこまで言ったところで、フィンレーはまるで次の言葉を見失ってしまったかのように口をつぐんだ。
それから大きく息をつき、立てた片膝を抱えるようにして顎を乗せると、ぽつりとこぼす。
「やはり俺はただの人間なんだなと思うよ。陛下のようにはなれない」
それにエンリェードは何も言葉を返さず、ただフィンレーが次の言葉を発するのをじっと待った。彼には他にも何か吐露したいことがあるのだと気付いていたからだ。
やがてフィンレーはエンリェードに話しかけるというよりも、自分に事実を確かめるように言葉を紡いだ。
「もし陛下が戻らなかったら、俺には本当に何もなくなってしまう。実の両親は俺を死んだものとした、当然俺の存在を家の歴史から消しただろう。そうなると俺に残されているのは、育ててくれた陛下だけだ。
その彼が戻らなかったら、人間の歴史の中では死んだことになっている俺は、誰とも縁もゆかりもない幽霊のような存在になってしまう。月夜の民は人間の歴史から姿を消し、俺も消える……はじめからいなかったみたいにな」
そう言うとフィンレーは顔を上げ、エンリェードの方へ目を向けると、「今日死んだやつもそうだ」と続けた。
「灰になって、あとには何も残らない。だから月夜の民には葬儀をする慣習すらないと聞く。彼は皮肉屋のヴェルナンド卿にずいぶんといじめられていたが、主を主と思わぬ物言いで反論しては、仲良くけんかしている愉快な連中だったよ」
「……ここにいる者は誰一人、彼のことも君のことも、共に過ごした者たちのことを忘れないだろう」
ひやりとした静謐な声でエンリェードが言う。
「もちろん私もだ。今日亡くなった人については残念ながらほとんど知らないが、それでも忘れることはできないと思う。この手で受け止めた時はまだ生きていたから」
あの時のように伸ばした両腕に視線を落とし、エンリェードはそう呟いた。
フィンレーはそれにはっとした表情を浮かべ、「そうだったな」と小さくうなずく。
そんな彼の方へ視線を向け、エンリェードは言葉を継いだ。
「君のこともそうだ。父の亡きあと、長らく空席だったという近衛騎士となって陛下を守り、そばで戦い続けたその功績を、月夜の民も私も忘れることは決してない。人間の歴史には残らなくても、妖精族の共通にして不滅の歴史である記憶の図書館には残る。私が記すから」
「それはますます、君を死なせるわけにはいかないな」
フィンレーはそう言ってにやりと笑う。
その彼の名をエンリェードは一つ呼び、じっと目を見据えながらゆるやかに言った。
「何一つ表舞台の記録には残らないとしても、世界中の人にその存在を認められなかったとしても、華やかな足跡のない人生が無駄ということは決してない。君自身にとって満足のいく生であったなら、それは誰にも文句のつけようのない上等な一生だ。
そしてもし君が自分ではそう思えなかったとしても、誰か一人にとってでも君と分かち合った時間が尊いなら、やはりその人にとって君は何物にもかえがたい、唯一無二の価値ある存在だと言える。たぶん君にとってもその人が唯一無二の存在であるように」
「……それは屍学者の言葉か?」
彼が本当に恐れているのは他人とのつながりが切れて独りになることではなく、自分の人生に価値を見出せなくなることだ。それをあっさりと見透かされた気がして、動揺を隠すようにフィンレーは冗談めかしてそう言ったが、エンリェードは表情を変えず淡々と言葉を続けた。
「お望みなら、屍学者からも真実を一つ教えよう。魂には一つとして同じものはなく、そして絶対的に平等だ。だから誰かと比べて価値のない生、などというものは存在しない。どんな人生を送ろうと、魂は一分の一の欠けることなき完璧な生の結晶だ」
「……まるで聖職者の言葉みたいだな」
「だから彼らは屍学者を嫌うのだろう」
「なるほど、商売敵というわけだ」
そう言ってフィンレーは笑い、そんな彼にエンリェードも微笑んで応えた。
「心配しなくても、少なくとも君は私に日よけを貸してくれる、私の人生でただ一人の奇特な人間の友人だ」
「一人? 学院にも人間の友人がいたんじゃないのか。君が学んだのは人間の街にある学院なんだろう?」
エンリェードの言葉に小首をかしげながらフィンレーが問う。
それにエンリェードは「広義では人間と言えるが、彼女は妖精族だ」と言葉を返した。




