4 死に至るもの ③
しかし、実際にそれを言葉にして尋ねる前に、エンリェードが先に口を開いた。
「屍学の分野で戦闘に使える魔術というのは、呪いと呼ぶに相応しい、たちの悪いものが多い。先ほどの勝負で君に使わなかったのは、君の生死に関わるからだ。命を奪う目的以外で使えるものはほぼないし、私はそのために屍学を学んだわけでもない。
いつかこうして月夜の民の王の名の下に、戦に加わるよう要請が来ることはわかっていたが、戦いに役立つ屍術の研究ではなく別の研究を始めてしまったしな」
エンリェードは、最後は独り言のように呟く。
魔鉱ランプの青白い光に照らされ、やや人間離れして見える端正な彼の顔を見つめて、フィンレーは「何を研究していたんだ?」と尋ねた。
エンリェードはその問いには答えず、「終わった」と言って再び椅子から立ち上がる。見ると裂けていたズボンの裾がきれいに直っていた。キナヤトエルが直してくれる時と同様、まさに魔法のような仕上がりだ。
「すごいな、器用なもんだ!」
フィンレーは無邪気とも言えるほど純粋な賞賛の声をあげた。
その子供っぽささえ感じられる素直な言葉に、エンリェードは静かに微笑む。
彼が笑うところをフィンレーが見たのは、それが初めてだった。あまりに意外なことに、フィンレーは思わず呆然とエンリェードの顔を凝視する。
その様子を不思議に思い、エンリェードは小さく首をかしげた。
「何か?」
「いや……そうだ、次は君の服も直さないといけないんじゃないか? 俺が縫ってやることはできないが。何しろ俺は剣しか握ってこなかったんでね、針を持っても君を刺す自信しかない」
「これは魔法衣だから心配いらない」
無作法をごまかすため、適当なことを言ったフィンレーにエンリェードは平然と返し、破れた服の袖に触れると魔力を流し込む。するとちぎれた繊維が分かたれたもう片方へと手を伸ばし、音もなく絡まるとそのまま溶けて一本の糸となり、すべてが元通りにつながった。
「そんな便利なものを魔術師が独占しているのかと思うと許せないな」
あまりのあっけなさに思わず表情を変え、不満さえ感じられる声音でフィンレーは言ったが、エンリェードは相変わらず動じることなく冷静に反論した。
「魔法衣は君たち騎士で言えば鎧のようなものだ。鎧のように高価だし、魔力抵抗値の低い者が着たら魔力アレルギーを起こしかねない。それに魔力というのは基本的に暗い色にしか定着しないと言われている。よって、魔法繊維で作られる生地に明るい色のものは存在しない。一般に広く普及させようと思っても、彩のない素材など服飾業を営む者には不満だろう」
「魔術師が黒い服ばかり着ている理由がたった今わかったよ」
フィンレーはそう言ってため息をつく。
そんな彼の顔を見やり、エンリェードがおもむろに言った。
「私がわざと手を抜いて負けたわけではないと、納得してもらえただろうか?」
その言葉にフィンレーが表情を硬くする。
針や糸を裁縫箱にしまいながら、エンリェードはさらに言葉を継いだ。
「君が訊きたかったのは、そういうことだろう?」
「まあ、そうだが……君の返答に納得したわけじゃない。生死に関わる屍術を使うのはルール違反だったにしても、君は召喚術も使わなかったし」
「私個人の力量をはかる勝負だったのだから、召喚術で応援を呼ぶのも反則だろう。あれは間違いなく、私一人が出せる実力のすべてだ」
エンリェードはそう応えたが、フィンレーはまだ腑に落ちない様子だった。
「君の本当の実力を知るには、実戦しかなさそうだな」
「君と実戦で刃を交えるつもりはないよ」
「それは俺だってそうだが……」
エンリェードの穏やかな返答にフィンレーは言葉尻をにごし、視線を泳がせた。何となく、いいようにごまかされてしまった気がする、と心の中で呟く。
そんな彼にエンリェードはぽつりと、そして唐突に言った。
「君には感謝している」
「うん? 感謝されるようなことはしていないぞ」
不意に礼を言われ、フィンレーは不思議そうな表情を浮かべる。
エンリェードは裁縫箱をテーブルの上に置き、未だベッドの上にいるフィンレーのところへ戻ってくると、そばに置かれた椅子に座り直して言葉を継いだ。
「父の功績からして、その息子である私はおそらく多少なりとも期待されているだろうと思っていたし、私のあの姿は見かけだけは大仰だから――実際は父のように優れた戦士ではないことを皆にどう伝えようか、正直少し困っていたんだ。だから、ちょうどいい機会をもらえて良かった」
「君は別に弱くはないだろう。あれはいい勝負だった。それにあの姿――三対の翼と角だって、確かに少し驚いたが、二対以上の翼を持つ者も、角を持つ者もいないわけじゃない。ルクァイヤッドも確か角持ちだが、戦闘はからきしだしな。角持ちや多翼だから特別強いということもないさ」
フィンレーは励ますように力強くそう言ったが、エンリェードは彼にもう一度微笑んでみせた。
「君も私に少しがっかりしたはずだ」
「それは……」
エンリェードの言葉にフィンレーは気まずそうに言葉をつまらせる。
黒狼公の息子ならいい勝負どころか、自分を圧倒するものだとばかり彼が思っていたのは確かだ。魔術などなくても、身体能力、戦闘技術だけで人間の自分を上回ると――それが当然だとフィンレーは心のどこかで思っていた。
そしておそらく、そう考えていたのは彼だけではなかっただろう。エンリェードの言う通り、他の月夜の民にも同じように考えていた者はいたはずだ。
そのことに思い至らぬほどエンリェードは愚かではなかった。
だが、それを承知の上で彼は穏やかに、そしてどこか決意の感じられる声音で言う。
「そんなに気遣ってくれなくていい。私は自分を卑下するつもりはないし、己の力量もわきまえているつもりだ。その上で、できることはあると思ったからここへ来た。父のようにはいかないだろうが、私は私のできることに力を尽くすだけだ」
エンリェードのそんな言葉に、フィンレーは少しほっとした様子で「そうだな」と応えて笑った。
その時、扉の方からノックの音が軽く響く。
「フィンレー卿」
いくらか緊張感の混じる、せわしげなラトの声が扉越しに聞こえた。
エンリェードとフィンレーは顔を見合わせ、うなずく。
素早く椅子から立ち上がったエンリェードは扉の方へと向かい、フィンレーはベッドから足を下ろすと、自分の剣とエンリェードの杖に手を伸ばした。
「良かった、エンリェード卿もここにいたのか。二人とも一緒に来てよ。みんなを食堂に集めてるんだ」
部屋の扉を開けたエンリェードを見上げ、ラトが神妙な面持ちで言う。
「慌ててどうした、怪我人が目を覚ましたのか?」
傷を負って帰ってきた王の捜索隊のことを尋ねながら、フィンレーは足早に彼らの方へ歩み寄り、エンリェードに杖を手渡した。
そんな彼の問いにラトは少しきまり悪そうな表情を浮かべて答える。
「いや……死んだって」