亀裂
ひと通り自分の身の上を話すと、すっかり酔いも醒めていた。
「この店って、ひとりでやってるの?」
享司が尋ねると、香織はふっと寂しそうな顔をした。しかし、それも一瞬のことで、香織は笑いながら言った。
「もともとは父がやっていたのよ。そこへ出戻りのあたしがきたもんだから、手伝うようになってね。脳梗塞で倒れて、半身がマヒしちゃって、今は施設に入ってるの。だから、そのままあたしが継いだってわけ」
「そうだったんだ。出戻りってことは離婚したの?」
「交通事故で死んじゃったのよ」
「え?」
「もう5年前のことだけど、生まれたばかりの娘を残して死んじゃった」
香織は表情を曇らせた。
「ごめん…なんか、俺…」
その時、奥の部屋から泣き声が聞こえた。
「ちょっと、ごめんね」
香織はそういうと部屋に入っていった。
「どうしたの?怖い夢でも見たの?」
優しく語り掛ける声がして、子供の泣き声がやんだ。しばらくすると、香織は子供を抱きかかえてきた。
「この子が娘。夏生っていうの。夏に生まれたから夏生」
香織に抱かれた夏生は眠そうな顔で、頬には涙の跡があった。
「幼稚園に迎えに行って、店を開いて、その時々でこの子の様子に合わせてやってるの」
夏生はじっと享司を見つめると、小さな声で「お客さん?」と香織に尋ねた。
「そうだよ、まだお客さんいるから、もうちょっと待っててくれる?」
優しいまなざしで見つめながら、娘の乱れた髪をなでる香織を見ていると、享司は何とも居心地が悪くなった。
「ごめんよ、夏生ちゃん、おじさん、そろそろ帰るからね」
香織にしがみついている夏生を見ると、どこかしら幼いころの香織の面影があるようだった。
「そろそろ帰るよ。いろいろ悪かったね」
「別に気にしないでいいよ。うちは小料理屋だし、いつでも話に来て」
香織は優しく微笑みながら言った。
「ありがとう。また来るよ」
享司はそういうと、夏生に微笑みかけた。夏生は小さな手を振り、「ばいばい」といった。かわいらしい仕草を見て、享司は久しぶりに正義に会いたいと思った。
その日を境に、享司は香織の店に通うようになった。以前よりは深酒をすることもなく、仕事帰りに軽く一杯ひっかける程度で、ひとしきり愚痴をこぼすと、すっきりとして家路についた。
それでも、美津江との関係は依然ぎくしゃくとしたままで、最低限の会話を交わすのみだった。
香織は昔と変わらず、さばさばとした性格だったから、享司は気兼ねなくいろいろな話をすることができた。反対に、美津江のどこかこちらの顔色を窺うような表情は、享司を苛立たせた。
美津江との関係はなかなか修復できずにいた享司だったが、正義のことはやはりかわいいと思っていた。血の繋がりがあろうとなかろうと、これまで親子として過ごしてきた日々はかけがえのないものだった。だが、美津江と言い争う姿を見てきた正義は、いつの間にか享司を避けるようになっていた。絶対に近寄ってこない。
怯えたように享司とは目も合わせない美津江と、享司のことを敵でも見るような目つきでにらみつける正義の姿は、享司にとってはいたたまれなものになっていった。仕事帰りに立ち寄る香織の店は、まるで第二の我が家のように、温かく心が癒された。夏生も享司に懐いて、だんだんと享司の来店を待ちかねているようだった。
「おじさん!いらっしゃい!」
「夏生ちゃん、こんばんは」
「はい、おしぼりどうぞ!とりあえずビールね!」
「いやあ、夏生ちゃんは気が利くなあ」
かいがいしく世話を焼く夏生に享司は顔をほころばせた。
「まったく、大みそかだっていうのに、こんなところに寄ってていいの?奥さんと息子さん、待ってるんじゃない?」
香織が半ば呆れ気味に言いながらグラスにビールを注いだ。享司は苦笑いしながらビールを飲みほすと言った。
「誰も俺の帰りなんて待ってないよ。俺は嫌われてるんだ」
「何言ってるんだか。まあ、とりあえず、ビールとお通し、軽く食べたら今日はお帰りなさいな」
「香織ちゃん、つれないなあ。俺にとっちゃ、ここのほうが…」
享司が言いかけたとき、香織が真顔になって、カウンターから手を伸ばすと、人差し指を立て、享司の口をふさいだ。
「それ以上は、言いっこなし。亮ちゃんには帰る家があるんだから、ね?」
享司がひるんでいると、香織はにっこりと笑って、
「亮ちゃんには幸せになってもらいたいからね。かわいい奥さんと息子さんをこれ以上悲しませちゃだめだよ」
そういうと、洗い物を始めた。
享司は、なんとなく気まずくなり、出されたお通しを平らげると、立ち上がった。
「おじさん、もう帰るの?」
夏生が不満げに言った。
「ごめんね、夏生ちゃん。また、お正月開けたらお年玉持って来るからね。それまでお母さんの言うこと聞いていい子にしてるんだよ」
夏生の頭をなでながら、享司は言った。
「よいお年を」
夏生の後ろに立ち、微笑みながら香織は享司を見送った。
「おじさん、よいお年を!」
無邪気な夏生の声を背に、享司は振り向きもせずに右手を振った。
それが、香織が見た享司の最後の姿だった。