胎動
正義が三歳になる頃のことだった。享司は子煩悩で正義をとてもかわいがり、共働きの美津江のことも労り、絵に描いたような円満な家庭を築いていた。
その日、美津江は久しぶりに友達と出かけたいと、正義を享司に預け出かけて行った。美津江が友達と出かけるなど、珍しいとも思ったが、たまには息抜きも必要だと快く留守番を引き受けた。
「パパたちもどこかに出かけようか」
「じゃあ、ながーい滑り台のところに行こう!
「よーし、わかった、じゃあバスに乗って出かけよう」
正義を誘い、享司は隣町にあるアスレチック公園に行くことにした。
市内でも有名なその公園は無料で遊べる広い公園で、ロープを使った遊具やロング滑り台など、体を動かして遊べるため、小さい子供のいる家庭には人気のスポットだった。
バスに乗り、窓から外を眺めご機嫌な正義を見ていると、享司は幸せな気持ちになった。
信号待ちでコンビニの前にバスが止まった。
「パパ、コンビニだよ」
「そうだな、お昼はどうしようか。近くのコンビニでおにぎりでも買って公園で食べようか」
「僕ねえ、ツナのおにぎりがいいな」
「わかった。じゃあ、公園前で降りたらコンビニでおにぎり買っていこう」
そんな会話を交わしながら、ふと、窓の外に目を向けると、享司は信じられないものを見た。
美津江にそっくりな女性が、コンビニから出てきた。そのあとから知らない男が出てきて、女性の肩に手をまわした。
え?美津江?
よく見ようとした瞬間、信号が変わりバスが動き出した。
友達って、男?いや、まさか、そんな。
公園に着いても、享司は上の空で、はしゃぐ正義を尻目に、先ほど見た女性が美津江だったかどうかを考えていた。確かに出かけるときにあんな服装をしていたような気もする。でも、友達と出かけるのは駅前のデパートではなかったか。最近できたレストランでランチをするのだと言っていた。ならば、このバス通り沿いにいるのはおかしい。見間違いかもしれないじゃないか。よく似た人はいる。
だが、そう考えれば考えるほど、さっきのは美津江だったという確信が芽生えてきて、享司は落ち着かなかった。
夕方、疲れ切った正義は帰りのバスで眠ってしまった。抱き上げてバスを降りると、美津江が歩いてきた。
「あ、ちょうど一緒になったね。正義、寝ちゃったのね」
美津江の様子はいつもと変わらないように見えた。だが、いつもより、表情が硬いようにも見えた。
そんなことより、さっきの女性の服装は…。
「今日さ、隣町の公園に行ってきたんだ」
「…隣町…」
美津江が一瞬目を見開いたのを享司は見逃さなかった。
「そうなんだ、それで正義たくさん遊んで疲れちゃったのね」
玄関のカギを開けながら美津江が言う。
「途中にさ、コンビニがあって」
美津江は正義の靴を脱がせ、部屋に小走りで入ると急いで布団を敷く。享司は正義をそっと布団に寝かせながら、次の言葉をつなげた。
「あの時、一緒にいたのは誰だ?」
美津江は背中を向けたまま答えない。
「駅前に出掛けたんじゃなかったのか。友達って男なのか」
畳みかけるように問いかける享司だったが、美津江は答えない。
「答えられないってことは、そういうことなんだな」
享司は頭に血が上って、何も考えられなかった。
「違う…違うの…!」
振り返った美津江は目に涙をいっぱいに溜めていた。
「何がどう違うんだよ!嘘ついて男と二人きりで出かけるってことはそういうことだろ?いつからなんだ?どういうやつなんだ?」
美津江はがっくりとうなだれると、その場に崩れ落ちた。
「あの人に脅されていて…あの人が何もかもばらすって言うから…私、あなたを失いたくなかったの…」
そこから語られた美津江の告白は耳をふさぎたくなるようなものだった。
3年前、享司が解雇され、家も処分し、美津江がパートを始めたばかりのころだった。そのころの享司は荒れていて、ふさぎ込んでいることが多かった。美津江に当たることはなかったが、終始不機嫌で、家に帰っても息が詰まりそうだった。美津江は慣れないパート勤めと家事の両立で疲れ切っていた。そんな時、よく来る常連客のひとりが声をかけてきた。ちょっとした好青年で、従業員の中でもいつものイケメン、と噂されるほどだった。
「いつもありがとうございます」
最初は、そんな他愛のないあいさつ程度だったが、ある時から、帰り道で偶然よく会うようになったり、連絡先のメモを渡されたり、しまいには退勤時間を見計らって待ち伏せされるようになった。よく来るお客さんだし、正直怖かったが、店長に相談しても、
「日頃の接客態度で好かれてるんだし、人気があるんだからいいじゃない」
と取り合ってくれない。職場は美津江よりも年上の女性ばかりで、何かと美津江のことを妬む同僚など、
「色目使ってるんじゃないの?旦那さん、かまってくれなくて欲求不満なんじゃない?」
と陰口までたたかれていた。
ある日、意を決していつものように待ち伏せしていた男に、
「いい加減にしてください。迷惑なんです」
と言った。
男は、一瞬きょとんとしたが、慌てて謝ってきた。
「すみません、いつもよくしてもらうから、その、笑顔がとても素敵で、一度でいいから話してみたかっただけなんです。そんなに迷惑だったなんて考えてもみませんでした」
平身低頭謝る男を見て、逆に自分が悪いことをしているような気持ちになってくる。
「わかってくださればいいんです。ただ、これからはこういったことはやめていただけると…」
美津江がおどおどしながら言うと、男は顔を上げ、じっと見つめた。
「許してくれるんですね?じゃあ、僕、今まで通り買い物しに来ていいんですね?」
「え…?ええ…それはもちろん、お客様ですから、普通に買い物をしていただくのは構いません。ただ、私には家庭もありますし、こんな風に待ち伏せされたりするのはちょっと…」
「そっか、そうですよね、こんなに素敵な方なんだから旦那さんいるのは当たり前ですよね」
男は一瞬顔を曇らせたが、そこで何か吹っ切れたのか、
「わかりました!じゃあ、これからもよろしくお願いします!」
というと満面の笑みを浮かべ去って行った。
そんなことがあって、しばらくは男の姿を見かけることはなくなっていた。久しぶりに買い物に来ても会釈程度で、特に話しかけてくることもなくなった。美津江は内心ほっとしていた。やっぱり思い切って話してよかった。わかってくれたんだ。
そんなある日、美津江の休みの日、享司は面接があると出かけていた。家事を終え、テレビをつけ一息ついたところで、ドアがノックされた。
「はい?どなたですか?」
玄関に向かい、ドアののぞき穴から外を見ると、宅配業者らしき作業着が見えた。
「お届け物です。印鑑お願いします」
どこかで聞き覚えのあるような、と思ったが、何の疑いもなく、認め印を手に取り、ドアチェーンを外した。その瞬間、ドアの隙間から足をねじ込まれ、男が部屋に侵入してきた。あっ、と思う間もなく、美津江は口をふさがれ、ドアに鍵をかける音がした。
「会いたかった…」
それはあの男だった。
声を上げようとしたが、口をふさがれて、後ろ手に抑えられ、身動きも取れない。
「あの日、迷惑だって言われたから、我慢しようと思ったんだ。だけど、やっぱりどうしても忘れられなくて」
男は荒い息を吐きながら、美津江の耳元で囁く。
「本当は、あんただって、悪い気はしてなかったんだろ?じゃなきゃ、あんな風に笑顔でサービスしてくれたりしないだろ?」
そんなの勝手な妄想だ。美津江はこれから自分の身に何が起こるのか、恐怖で震えていた。
「静かにして…ね?いいだろ?俺、あんたのことが本当に大好きなんだ」
男はそういうと、美津江を押し倒し、隠し持っていたガムテープで口をふさぎ、両手を上にあげ、ぐるぐる巻きにした。
「ああ…大好きだ…」
美津江は身動きできないまま、男に乱暴された。最初は抵抗していたのだが、刃物を突き付けられ、恐怖のほうが勝ってしまい、抵抗する気力も奪われてしまった。
これは、悪夢だ。悪夢に違いない。恍惚とする男の顔を見ながら、美津江は今自分に起きていることは夢に違いない、と思い込もうとした。
しばらくして、男は自分の欲求を満たすと、身支度をし、脱力し横たわる美津江を満足げに見下ろし、にやにやしながら言った。
「今日のことは誰にも言わないことだな。二人だけの秘密だ」
美津江の口をふさいでいたガムテープと、手首に巻いたガムテープを乱暴にはがすと、男は美津江の耳元で言った。
「とっても良かったよ。今度はデートしようね」
体の自由を取り戻した美津江は、裸のままトイレに駆け込み激しく戻した。
男はいつの間にかいなくなっており、時計を見るともう夕方近くになっていた。
美津江はシャワーを浴び、全身くまなく洗った。男の体液の臭いが残っているようで、何度も何度も洗った。そしてまた、胃が悲鳴を上げる。胃の中が空っぽになって、胃液が出てくる。
あれは夢だ。夢だったんだ。美津江の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになり、嗚咽は止まることがなかった。
そんなことがあってから、美津江はそのスーパーの仕事をやめしばらく専業主婦として過ごすことにした。表向きは芳子の身の回りの世話をするため、という理由で、辞めることにしたのだった。
ところが、そのあとも、何度かあの男—祐介といったーは、美津江を付け狙い、享司の目を盗んでは体の関係を強要されていた。享司には何としても知られたくなかった。そして、それに付け込むように祐介は執拗に美津江に付きまとい続けた。
そうして、芳子が亡くなり、享司とともに失意の中にいた美津江だったが、ふと気づくと、生理が来ていなかった。まさか、と思い、妊娠検査薬で調べると、陽性反応が出た。 産婦人科にも行き、検査をしてもらうと、
「おめでとうございます。5か月ですね」
享司ともそういう行為は何回かはしていたが、それほど頻度はなかったし、美津江は祐介の子ではないか、と不安になった。 祐介との行為は避妊に気を付けていたが、それでも万が一ということがある。このまま堕ろしてしまおうか…そんな考えが脳裏をよぎる。
中絶するにはもう時間がなかった。どうしよう。この子がもし、夫の子どもではなかったら…。
背中を冷や汗が伝う。
その時、お腹の内側からこつん、とたたかれたような感触があった。びっくりした美津江がそっとお腹に手を当てると、また小さく、しかし今度ははっきりと、何かが蹴るのを感じた。
「ごめんね…せっかく生まれようとしてるのに。ごめん」
そうして美津江は、享司に妊娠を告げた。もちろん、享司の子として、産み育てる決心をしたのだ。