転落
そうしてスタートした享司と美津江の結婚生活は、美津江が望んだ以上に幸せなものになった。
享司はすでに父親はなく、母の芳子は隣の市で一人暮らしをしていた。結婚の報告をすると、芳子はたいそう喜んで、美津江を実の娘のようにかわいがってくれた。結婚を機に同居を申し出たのだが、芳子は気楽がいいからと、今まで通り一人暮らしを続けた。専業主婦となった美津江だったが、芳子からは特別な干渉もなく、時折一緒に買い物に出かけたり、実の母からは得られなかった愛情を義母から与えられ、美津江は幸せをかみしめていた。
享司も順調に仕事をこなし、会社からも評価され、念願のマイホームも手に入れた。まさに順風満帆だった。
いつもと同じような朝。出勤の支度をしながらテレビをつけた。
ニュースの画面には見覚えのあるビルが映し出されていた。
享司が勤めていた建設会社が、贈収賄の罪に問われたという。当時の上司が、公共事業の受注に絡み、県会議員に賄賂を渡していたのだ。その議員とは、上司に連れられ、打ち合わせと称して何度か一緒に食事をしたり、顔を合わせてはいたが、それだけだった。個人的に付き合いをしていた訳ではなかった。それだから、ニュースを見て、享司は驚いた。その時、上司からの電話が来た。
「部長、今テレビで……」
享司が言うよりも早く、上司はまくし立てた。
「いいか、全部お前がやった事にするんだ。いいな?悪いようにはしないから、な、頼む!」
「どういうことですか?部長!部長!」
享司の問いに答えることなく、電話は切れた。
「あなた、いったいなにが」
美津江が不安そうに見つめる。
その時、刑事の来訪を告げるインターホンが鳴った。
テレビは能天気な明るさで今日の占いを流している。
「今日の1位はてんびん座です!ラッキーカラーは…」
俺は、てんびん座だけどな…享司は膝から崩れ落ちた。
『会社ぐるみの犯行』
新聞の見出しはそうあったが、享司は上司の罪をかぶせられ、主犯に仕立てあげられた。任意で取り調べを受け、一旦は否認しようとしたが、上司からの最後の電話を思い出し、罪を認めるしかなかったのだ。
不幸中の幸いとでも言おうか、まだ若く、罪を犯していることを知らなかった、という解釈をされ情状酌量、五十万の罰金刑だけで済んだのだが、会社は解雇された。部長の最後の約束は守られなかった。
当然、再就職はなかなかできなかった。
「たとえどんなに優秀でも、モラルのない人間はうちでは雇えないんですよ」
あからさまに侮蔑する面接官もいた。
何とか見つけた小さな町工場での仕事も、なかなか周囲となじめず、挙句、
「賄賂なんてやるようなエリートさんにはこんな町工場なんて、やってられないっしょ」
と、高校中退で働いている青年に鼻で笑われる始末だった。カッとして喧嘩になり、社長になだめられてなんとかその場は収めたが、ますます職場に居づらくなった。
それでもなんとか仕事は続けていたものの、給料は営業のころに比べると格段に下がり、ローンも払えなくなり、とうとう家を手放した。美津江は近所のスーパーでレジのパートを始めた。
悪いことは続くもので、芳子は癌が見つかり、入退院を繰り返し、ついには命を落とした。
享司も美津江も心の支えを失ったようになり、しばらく悲しみに暮れる日々を過ごした。なにもかもうまくいかず、鬱々とする毎日だった。
そんなある日、美津江が子供を身ごもった。こんな時にごめん、と言う美津江だったが、享司はとても喜んだ。
それからは、周囲の揶揄にも惑わされることなく、黙々と仕事に打ち込み、日に日に膨らんでいく美津江の腹を愛でながら、ささやかながら幸せな暮らしを送っていた。あの日までは。