炎の記憶
美津江との交際が進み、結婚を意識するようになった享司だったが、ひとつ気になっていたことがあった。それは美津江の口から子供時代の話や、家族についての話がほとんど出ないことだった。両親は子供のころに火事で亡くなり、施設で育ったと聞いていたが、それも含め美津江から子供時代のエピソードが語られることは皆無だった。
もしかしたら、両親が亡くなったことと何か関係があるのかもしれない、と思い、享司は美津江が話したくないのなら無理強いすることもないと考えた。
付き合い始めて2年目のクリスマス、享司はプロポーズをした。美津江がすぐに快諾すると思っていた享司だったが、「少し考えさせて」と返事が保留された。予想外の展開に、動揺した享司だったが、慎重な美津江のことだから、結婚についても慎重に考えたいのだろうと、返事を待つことにした。
だが、せっかくのクリスマス、ホテルの予約もしていたのに、食事だけを済ませ、そそくさと逃げるように帰る美津江を見て、享司は一抹の不安を覚えた。
美津江の幼少時は、怒声と暴力の思い出しかなかった。物心がついたころには、両親の罵りあう姿と、それに巻き込まれ、暴力におびえる日々を過ごしていた。原因は知らない。浴びるように酒を飲んでは酔った父と、その父を罵倒する母の姿が幼いころの両親の記憶だ。父はちょっとしたことで腹を立て、気に入らないことがあれば美津江にも手を挙げた。
最初は美津江をかばっていた母も、だんだんと父がいないときに美津江に八つ当たりをするようになっていった。
「あんたさえいなければ!」
何度も暴言を浴びせられ、殴られ、泣いても許してもらえない。次第に感覚は麻痺していき、いつしか泣くこともやめ、嵐が過ぎ去るのを待つように、体を丸めてやり過ごしていた。
酔った父が母に暴力をふるい、母は美津江に暴力をふるう。まさに負の連鎖だった。
その日の夜も、両親の罵りあう声で目覚めた。大みそかだというのに、年越しの準備すらできていない。
「いい加減にして!ちょっとはまじめに働いたらどうなのよ!」
「誰に向かってそんな口を利いてると思ってるんだ!このくそアマが!!」
アルコールのにおいと煙草のにおいが充満した部屋で、つかみ合いの喧嘩をする両親の姿。美津江はふすまの隙間からその光景を眺めていた。いつもの喧嘩だ。目覚めていることは気づかれてはいけない。自分も巻き込まれてしまう。
ふたりがもみ合ううちに、吸いかけの煙草が畳に転がる。床に転がる酒びんからこぼれた液体に引火すると、チリチリと燃え始めた。夢中になって取っ組み合いをしている両親は全く気付いていない。このままだと、火が燃え広がるのは時間の問題だろう。瞬間、美津江は考えるよりも先に体が動いていた。
美津江はそっとふすまの隙間から身を滑らすと、両親に気づかれないように部屋を抜け出した。
外に出ると、玄関に鍵をかけ、息をひそめ、中の様子をうかがった。
「きゃあーっ!火が…火が……!!」
台所の窓ガラスが炎で照らされていた。
「おい!早く逃げろ!」
「熱ッ…!」
炎の勢いはとどまるところを知らず、熱せられたドアノブは触れることもできなかった。
「ぎゃああああああああ!」
部屋の中からは断末魔のような叫びが聞こえてくる。騒ぎを聞きつけたアパートの住人が次々と顔を出す。
「美津江ちゃん、どうしたの?なにがあったの?」
階下の住人が美津江を問いただす。
「…わからない…私、お母さんに外に出されて…」
日ごろから美津江が虐待されているのは近所では有名だった。今までも外に出されて締め出されていることも何回かあった。
炎の勢いでガラスが割れる。
「危ない!早く逃げるんだ!」
ほかの住人が叫ぶ。
「誰か、消防署、電話して!」
「とにかく逃げるんだ!」
美津江は大人たちに連れられて、その場から逃げた。遠くから消防車のサイレンが近づいてくる。
振り向くと、美津江たちの部屋から炎が広がり、アパート全体が燃え始めていた。最後まで美津江を気遣う声は聞こえなかった。
アパートは全焼し、両親を火事で亡くした美津江は頼る親戚もなく、施設で育つことになった。それからの美津江は泣くこともなく、ただ生きているだけだった。
「虐待されていたんでしょ?喧嘩してる最中に火を出して死んだらしいじゃない。自業自得だよ」
「しっ、どんな親だって子供にとったら親には違いないんだ。そんなこと言うもんじゃない」
施設の職員が話すのが聞こえたが、美津江は何も感じない。
朝が来て、清潔な部屋で食事をし、夜が来て、怒鳴り声におびえることもなく、ぐっすりと眠れることのありがたさを感じていた。
もう、二度とあんな思いはしない。大人になったら、日曜日の夕方のアニメみたいな、平凡で平和な家庭を作るんだ。美津江はそう誓ったのだった。
大みそかの除夜の鐘が聞こえてくる。
「もしもし?享司さん?こんな私でよければ、プロポーズ、お受けします」