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ネツゾウ  作者: 天野桂花
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エピローグ

 相変わらず記憶は戻ってこない。

 季節が変わっても、何かを思い出すことはなかった。昔のニュースや、夏生から見せられた子供のころの写真を見ても、何ら思い出せるものはなかった。両親がいないのも、火事が原因だと教えられたが、そもそも、その火事がいつ起きたものなのか、自分の体に残る火傷の痕とどんな関係があるのかも、全く思い出せなかった。初めて、自分の火傷の痕を見たときは、正直驚いた。あちこち引き攣れて、背中じゅうに広がり、左の肩から二の腕にかけて残る痕は、その炎の凄さを物語っていた。それでも、火事のことを思い出そうとすると、激しい頭痛がし、厳重に記憶に蓋をされているようだった。

 たまたま着替えている時に、夏生に傷跡を見られたのだが、夏生は別段驚くこともなかった。

「気持ち悪くない?」

 と訊くと、夏生はにっこり笑って、

「ドラゴンみたいでかっこいいよ」

 と言った。

 その言葉を聴いて、前にもこんなことがあったような気がする、と感じたが、それ以上は何も思い出せなかった。


 年末になり、夏生が大みそかから元旦にかけて初詣に行こうと言い、俺たちは香織おばさんの作った年越しそばをすすりながらテレビを眺めていた。

「お母さん、そろそろ支度しなくていいの?」

 洗い物をしている香織おばさんに、夏生が声をかけた。

「ん…?もうそんな時間?」

「いくら何でも、少しはおしゃれしていきなよ。デートなんだから」

 夏生がニヤニヤしながら言う。

「ちょっと!夏生!まーくんの前で何言うのよ!」

 振り返った香織の顔は真っ赤だった。

「ただ一緒に初日の出見に行くだけで、そういうんじゃないから」

「それをデートって言うんじゃないの?」

「大人をからかうんじゃないわよ!」

 夏生がからかうように言うと、香織は耳まで真っ赤になって、逃げるように奥の部屋へ行ってしまった。

「おばさん、デートって?」

 俺の問いかけに、夏生はニヤニヤしたまま、答えた。

「秋月のおじさんとドライブデートらしいよ」

「え?いつの間に?」

 夏生はそばを箸で掬い上げるとそっとすすった。

「いつの間にか?って感じかもね。何年も店に通ってた常連なのは確かだし」

「へえー…おっさんやるな」

 そうこうするうちに、着替えを終えた香織おばさんが出てきた。

「おばさん、きれいだよ」

 俺が何気なく言うと、香織おばさんは真っ赤になって

「ちょっと、あんたまで何言ってるの?」

 と言って、慌てて玄関へと行った。

「よいお年を」

「いってらっしゃい!ごゆっくり」

 俺たちが声をかけると、香織おばさんは逃げるように出かけて行った。


「さて、俺たちもそろそろ支度するか」

 そばを食べ終え、テレビの年末の歌番組もそろそろ終わるころ、俺たちも出かける準備を始めた。この前、初雪は降ったが、今年は暖冬だとかで、外に出ると思ったより寒くなかった。

「今年はいろいろあったね」

 夏生が言う。

「いろいろ、か。俺は、長い夏休みがずっと続いてるようなもんだけど」

 俺がそういうと、夏生はちょっと困ったような顔をした。

「思い出したほうがいいことと、思い出さないほうがいいことと、いったいどっちが多いんだろうな」

「思い出さないほうがいいこと?」

「カウンセラーに言われたんだ。俺の記憶がないのは、思い出したくないことがあるからだって」

 

 記憶を失って以来、俺は精神科を受診し、カウンセリングを受けていた。催眠療法やEDMRと言った治療も受けたが、過去の記憶にちらりとかすることもなかった。カウンセラーは、

「ある日突然、何かのきっかけで思い出すこともあるし、一生思い出さない可能性もあります」

と言った。

「人は思い出したくないから思い出せないし、思い出さない、というのはよくあることで、何も特別なことじゃないですよ。多かれ少なかれ、忘れてしまいたい過去のひとつやふたつあるもんでしょう」

「じゃあ、俺が思い出せないのは、思い出したくないから、ってことですか?」

「…そういう可能性は高いです。でもね、思い出したくないなら、無理に思い出す必要はないんじゃないかな、と私は思うんですよ」

 カウンセラーは少しぽっちゃりとした風貌の初老の男性で、眼鏡の奥の小さな目は細められていた。

「思い出さなくてもいいんですか」

「だって、思い出したくないんでしょう。それに、思い出せなくても生活に大きな支障はないんだったら、それは今の君にとって必要のない記憶、なんじゃないかな」

それに、と言いながら、カウンセラーは俺の方を見て言葉を続けた。

「幸い、君には可愛い彼女とそのお母さんがそばにいるようだし、今を生きることのほうが幸せじゃないかな」

「可愛い彼女?」

「あれ?違ったかな?入院中、君が目を覚ますまでの間、毎日心配そうに通ってきてたけど」

 カウンセラーは俺のほうを見てほほ笑んだ。

「記憶がなくて苦しいのは、本人もだけど、実は周りのほうがつらかったりするんだよ」

 最初の頃、あれこれ思い出を話しては、俺の記憶を取り戻そうと必死だった夏生も、次第に諦めたのか、だいぶ口数も減ってきた。しかし、目覚めてからの夏生はいつもニコニコとくだらないおしゃべりをして、暗い顔一つせず、そばにいてくれた。

「だから、忘れたことを思い出そうとするより、今を生きる、そのほうが建設的なことだと思います」

「今を生きる…」

「それにね、脳は記憶を捏造するんですよ。自分の都合のいいようにね」

 カウンセラーはいたずらっぽく笑って言った。


 いつもはおしゃべりな夏生が黙っている。俺は続けた。

「俺の記憶、いつ戻るのか、それとも一生戻らないのか、わからない。子どものころの記憶も一切ない。楽しかったこともあっただろうに、何も覚えてない」

「うん…」

「今年の夏生の誕生日のことも、覚えてない」

「うん…知ってる」

 夏生は泣きそうな顔で、うつむいた。

「だけど、これから来る誕生日の思い出は作っていけるだろ」

 俺が言うと、夏生は俺を見て目を見開いた。

「だから、来年の誕生日も、その先の誕生日も一緒にお祝いしよう」

 夏生の目から涙が零れ落ちた。

「その前に、バレンタインも、俺の誕生日もあるけどな」

 にっこり笑って言うと、夏生は涙を流しながら満面の笑みを浮かべた。

「わかった」

 俺は夏生の手を取った。

 除夜の鐘が遠くから聞こえてくる。

 新しい年の始まりはもうすぐだった。        


 

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