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ネツゾウ  作者: 天野桂花
22/23

捏造

「自分の帰宅が遅くなるのをあらかじめ男に伝えておく。家には火気厳禁のアルコールを用意しておく。自分の留守中に男が忍び込むかもしれない。酔いつぶれた夫が火の不始末を起こすかもしれない」

「それって…」

「だから、美津江さんは直接手は下していないけれど、結果、享司さんを殺したのは自分だと、本当にそう思ったのかもしれない」

「そんな…」

 秋月の話を聴いて、香織は青ざめた。


「降ってきたな。みぞれか」

 車のワイパーのスイッチを入れ、秋月がつぶやいた。

「で、正義くんの話に戻るんだが」

 フロントガラスに当たるみぞれがワイパーにはじかれるのを見ながら、香織は秋月の言葉に耳を傾けた。

「彼は当時、父親に対してよい感情は持っていなかったと思うんだ。両親が不仲だったからな」

 それは、生前の享司からも美津江からも聞いていた。精神的に追い詰められた享司が、酒におぼれ、美津江に暴力をふるっていたのは、周知の事実だった。享司からは、

「息子が俺のことをにらむんだよ。まるで汚いものでも見るような目で」

 と聞かされていた。

 そう言う享司はとても寂しそうな顔をしていた。

「幼いころの正義くんは、あの日の事情聴取の際に、こんなことも言っていたんだ。『父さんは僕が殺した』って」

 香織は驚いて秋月を見た。

「もちろん、そんな事実はない。状況から見ても、幼い子どもが火をつけるのは不可能だし、助け出された状況からも、それはあり得ない」

「じゃあ、なんで、あの子はそんなことを」

「それもまた、あの子の中にある罪悪感から来た、記憶の改ざん、なのかもしれん」

 秋月の車は、いつの間にか香織の家の前に着いていた。車を端に寄せて停めると、ハザードランプをつけ、サイドブレーキをかける。前を向いたまま、話を続けた。

「幼い子どもが、母親に暴力をふるう父親を憎んでも不思議じゃあない。心の中で憎しみが育ち、父親の死を望んでも、おかしなことはない」

「でも…実際に殺そうとしたわけじゃないでしょ?」

「そうだろうな。でも、目の前で焼け死んでいく父親を見て、あの子の中に芽生えていた殺意が、現実として形になった、と感じたとしたら?」

 香織は言葉を失っていた。

「この事件の真相は、美津江さんの遺書でうやむやにされてしまったんだ。正義くんが失くした記憶が戻ってきたとしても、それが事実なのかどうか確かめるすべももうない」

 香織は下唇を噛んだ。幼かった正義が、火傷を負って、笑顔も失くし、心を閉ざしているさまを思い出すと、今でも胸が痛む。夏生との交流で少しずつ、笑顔を取り戻していったが、享司の話はしたがらなかった。それは父親を亡くしたショックからかと思っていたが、享司に似ている、と告げたときの憎しみのこもった目を思い出すとぞっとした。

「こうも考えられるんだ。美津江さんは、日ごろから、仲の悪かった享司さんの悪口を正義くんに意図的に吹き込むことで、憎しみを抱かせるように仕向けてたのじゃないか、ってね」

 規則正しく、ハザードランプが点滅する音と、ワイパーが左右に振れる音が夜の中に溶けていく。

「せっかく美津江さんの遺書があっても、死人に口なし、証拠不十分だから、書類送検すらできない。運がいいのか悪かったのか、愛した女に滅多刺しにされて死ぬことになった男も哀れだが」

 香織の目からは涙が零れ落ちた。

「私があの時、証言していたら、結末は変わっていたのかしら」

 秋月は前を向いたまま、ため息をひとつつくと言った。

「何不自由なく順風満帆な人生を歩んでいたのに、突然足元をすくわれて、転がるように転落していったのがきっかけだとしたら、 誰も責められないんじゃないか。少なくとも、あんたと再会してから焼死するまでの数か月間は、享司さんにとっては、幸せだったんじゃないか?」


  香織は美津江の話を聴き、この夫婦の間に生じていた齟齬に心を痛めた。

 お互いにお互いを愛するあまり、疑い、傷つけあっていたふたりの生んだ悲劇だったのだろう。

 もちろん、享司がしていたことは許されることではなかったが、それとても、美津江を愛するが故の結果だったのだから。

 本当に許されざるべきは、美津江に付きまとった祐介なのだ。 そんな男の存在を知っていながら、なぜ私は口をつぐんでしまったのだろう。そう、まさか、あの男がいまだに美津江に執着しているとは夢にも思っていなかったし、過去に美津江の身に起きた忌まわしい事件を、美津江とは赤の他人である自分が簡単に口にすることはできない、と思ったからだ。

 それに、警察なら、それくらいすぐに調べられるだろうと、簡単に考えていたのだ。ところが、どういうわけか、祐介は身を隠し、明るみに出てくることはなかった。なぜか美津江の口からも、その存在は語られることはなかったのだ。

 そんな大人の事情に巻き込まれた正義こそ、一番の被害者なのに違いない。

 享司が生きている間に、享司たちの関係を修復するべく、積極的に関わらなかった自分も悪い。

「私これからどうしたら…」

 さめざめと泣きながら言う香織をどうすることもできず、秋月はまた、深いため息をついた。

 いつの間にか、車の外は、みぞれから雪に変わっていた。

 ラジオをつけると、ホワイトクリスマスが流れてきた。

「そうか、今日はクリスマスだったか」

 誰に言うでもなく、つぶやく秋月は、涙でぐしゃぐしゃになった香織の頬をそっと撫でた。泣きはらした目で香織に見つめられ、秋月は思わず、香織を抱き寄せた。

「一緒に考えよう。俺がそばにいてやる」

そういうと、秋月はそっと、香織の髪をなでた。香織もそのまま身を任せ、秋月の胸に顔をうずめた。


 

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