酷暑
「……くん、まーくん、大丈夫?」
目を開けると、夏生が心配そうに顔を覗き込んでいた。
酷く喉が渇いていた。
「なんでこの暑いのにエアコンもつけないで寝てるのよ。まるでサウナだよ、この部屋」
夏生は手で仰ぎながらエアコンをつけた。
「うなされてたよ。すごく苦しそうだったけど、怖い夢でも見たの?」
正義は起き上がると、台所へ行き、コップに水を入れると一気に飲み干した。ひどい汗だ。身体中がベタつき、シャツがまとわりつく。不快だった。
流しに頭を突っ込み、頭から水を浴びた。
「シャワー浴びてくればいいじゃない。そんなところで水浴びてないで。あー、ほら、床がびしょ濡れになっちゃうよ」
夏生は呆れた顔をしながら、洗面所から持ってきたタオルを、正義に渡そうとした。
「てか、なんでお前がここにいるんだよ」
差し出されたタオルを奪い取るように受け取りながら、正義は言った。
「母さんが、昨夜の残り物持ってけって言うから。どうせろくなもん食べてないだろうからって」
そう言うと、夏生はレジ袋に入れられたタッパーを差し出した。
「母さんの肉じゃが、好きでしょ?」
「そうじゃなくて」
「あれ?違った?」
「どうして勝手に人の部屋に入ってるんだよ」
正義が軽く咎めるように言ったが、夏生はまるで意に介さず、といった具合に答えた。
「あら、だって、何度も呼んだけど、返事もなかったし。玄関だって開いてたし。ちゃんと戸締りしないと。物騒なんだから」
どの口が、と言いかけてやめた。夏生に口で勝てるわけがなかった。
「冷蔵庫入れとくね。こう暑いとダメになっちゃうから」
夏生は冷蔵庫を開けると、タッパーをしまった。
「やだー、冷蔵庫、中身空っぽじゃない。ちゃんと食べてるの?」
「うるせえな。このおせっかいが」
正義と夏生は幼なじみだった。正義の父、亮司と、夏生の母、香織が、やはり幼なじみで、きょうだいのように育ってきた。
香織は小さな小料理屋を営んでおり、亮司は常連客のひとりだった。夏生が生まれる前に離婚して、居抜きで手に入れた居酒屋だったが、カウンター席三つ、テーブル席が二つと、こじんまりしたものだった。狭い店内は、いつも常連客が訪れ、親子二人で暮らすのに困らないくらいには繁盛していた。
香織は、一人暮らしをしている正義を、自分の息子のように心配し、時折こうして店の残り物などを夏生に持たせるのだった。
「それはそうと、今日はなんの日でしょう」
夏生がおどけた調子で言った。
「7月22日、夏真っ盛り」
濡れた髪を拭きながら、正義が答えると、夏生は膨れて言った。
「もう!薄情だなあ。誕生日に決まってるでしょ!」
「は?誰の?」
正義がとぼけると、夏生はムキになった。
「え?本気で言ってる?私のに決まってるでしょ?」
ムキになる夏生の様子を見ながら、笑いをこらえると、正義はからかうように言った。
「わかってるよ、夏に生まれた夏生ちゃんだもんな」
すると、夏生は気取った口調で言った。
「お祝いしてくれてもよくってよ」
正義は苦笑いすると、夏生の頭に手をやり、ショートカットの髪をくしゃくしゃにすると言った。
「仕方ないな、おごってやるよ」
「やった!ヨシノのメロンパフェね!」
夏生はすっかりご機嫌になって、満面の笑みを浮かべた。
「暑いな……」
外に出るなり、正義は顔をしかめた。
「夏真っ盛りだからね」
夏生は涼しい顔で言った。白いレースのノースリーブのワンピースは、見るからに涼しげだった。それに対して、正義は、色は白だが、長袖のシャツを着ていた。
「そんな格好してるんだもの、暑いに決まってるよ」
夏生は正義の袖をつまんだ。
「気にすることないのに」
正義は立ち止まると、少しうつむいて苦笑いしながら言った。
「お前が気にしなくても、周りは気にするだろ」
「そんなこと……」
「あるの。それに、あんまり日焼けすると年取ってからシミだらけになっちゃいますよ」
そう言うと正義は舌を出し、おどけて見せた。
「もう!ちゃんと日焼け止め塗ってるもん」
夏生がすねたように言うと、正義は笑って、
「ほれ、メロンパフェが待ってるぞ」
そう言うと夏生の手を引き、歩き出した。
「うん……」
夏生の頬は暑さのせいなのか、心なしか上気して赤みがさしていた。
ヨシノは少し高級なフルーツパーラーで、高校生が入るには、ちょっと敷居が高い店だった。客層はいかにもマダム、といった風貌の婦人たちばかりで、妙に居心地が悪かった。
「なんか、俺たち場違いな気もするけど」
「気にしない、気にしない」
夏生はご機嫌でメニューをながめている。
「いろいろあるけど、やっぱりメロンパフェだよねえ」
メニューをのぞきこんだ正義は目を丸くした。
「メロンパフェって、こんなにすんの?」
「そりゃそうよ。マスクメロンですもの」
メニューをめくりながら、声を潜めると、正義は、
「かわいらしく、チョコバナナパフェとかにしない?」
と言ったが、夏生は真顔で答えた。
「しない。なんでもおごってくれるって言ったもん」
「仕方ないな。痛い出費だけど」
結局、夏生は遠慮することなくメロンパフェを、正義はチョコバナナパフェを頼んだ。
「いただきまーす!」
パフェがテーブルに来ると、夏生は、目をキラキラさせながら、スプーンを手にした。
「うまそうだな。ちょっとちょうだい」
「え、だめだよ。これはまーくんからの誕生日プレゼントでしょ?それに欲しいなら自分もこれにすればよかったじゃない」
「あのなー…これ二人分で俺のバイト代一日分なんだよ」
「けち臭いこと言わないの。一年に一度のお祝いの日なんだから、快く祝ってよ」
メロンを口に頬張りながら、満足気な様子の夏生を見ると、正義は微笑んだ。
「まーくんさ、進路、どうするの?」
唐突に夏生が言った。正義は夏生の質問には答えず、食べ終えたパフェの器を傍らに押しやると、水の入ったグラスを取り上げた。氷がグラスにぶつかるカラカラという音に耳を傾けながら、グラスに口をつける。周りに着いた水滴がグラスの底から滴ると、デニムを濡らす。するとみるみるシミが広がって、そこだけ濃いインディゴになる。まるで心の中のわだかまりみたいだった。
「どうすっかな」
「そんな他人事みたいに」
「うーん…やりたいこととかわからないんだよ。進学するって言ったって」
「そんなの大学に行ってから考えればいいじゃない」
夏生が言うと、正義は険しい顔になった。
「お遊びで通うほど、裕福じゃないんだよ!」
思ったより強い口調で言ってしまって、ハッとした。周囲からの視線が痛かった。
「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ……ただ、このままフリーターになるのかなって思って……」
夏生はうなだれながら言った。
「……おばさん、連絡ないの?」
「ない」
「そうか……」
それきり二人は口を噤んだまま、会計を済ますと、店内をあとにした。