片思い
まーくんが記憶を失くしてから、ひと月ほどになる。
夏休みも終わり、学校は始まったのだが、記憶を失くしたまーくんは授業についていけず、一時休学することになった。その分、バイトの時間を増やして、昼も夜もほとんどの時間働くようになっていた。
夏休み中とは違って一緒に過ごす時間は減ってしまったが、夜、時折バイト帰りに母さんの店に寄って食事をしていったり、休日は部屋を訪れたり、毎日のように会ってはいた。
子どものころから一緒に過ごすことが多かったから、一緒にいるのが当たり前だと思っていたし、きょうだいのように思ってきたのだが、中学から高校にかけて、ぐっと背が伸びて、男らしくなったまーくんを見ると、ちょっとドキドキした。小学生のころのまーくんは、やけどの跡でからかわれることがあったり、なかなか周りとなじめずにいたけれど、成績もよく、運動もできたから、いつの間にかクラスでも人気者になっていった。顔だちも整っていたから、女の子に騒がれていたし、中学に入ると、バレンタインには山のようにチョコをもらってきたりしていた。当のまーくんは、女子から騒がれても意に介さず、もらったチョコを私にくれたりした。
「せっかくもらったのに、自分で食べないなんてひどいなあ」
「こんなにたくさん食べたら虫歯になっちゃうだろ。それに、夏生、チョコ好きだろ?」
そういうとチョコを私の口に入れ、少しいたずらっぽく笑うまーくんを見ていたら、私は何も言い返せなくなった。
「素直に受け取れって。俺からの愛」
まーくんが私を見る目はとても優しく、私は胸が苦しくなった。
「ちょ、人からもらったもので愛を贈られてもねえっ!」
「あれ?そういえば、夏生からのチョコは?俺への愛が足りないんじゃない?」
真っ赤になる私を見て、まーくんは楽しそうに笑っていた。
「う、うるさいな!義理チョコでよければあげるけど、こんなにたくさんもらってたらいらないでしょ!」
「ちぇ。夏生ちゃん冷たい。春からは離れ離れなのに」
お茶らけていうまーくんの言葉で私ははっとした
そう言えば、高校は別のところに行くんだっけ。今までよりまーくんと過ごす時間が減っちゃうのか、と思ったら、急に寂しくなった。
家も近いし、すぐに会うこともできるけれど、これからは私の知らないまーくんがどんどん増えていくのだろう。彼女だってできるかもしれない。
その瞬間、私は、自分がまーくんを好きだということに気づいてしまった。
まーくんがわたしのことをどう思っているのかわからない。ただの幼馴染で、妹のように思っているだけかも。いや、たぶんそうだろう。
もし告白したら?今のような関係は壊れてしまうだろうか。
そう考えたら、私はまーくんに告白する勇気はなくなってしまった。軽口をたたいて、じゃれあって、一緒に出掛けたり、笑ったり、そんな心地よい関係を失うことのほうが怖かった。
だから、私は、まーくんが今のまま私のそばにいてくれるなら、多くは望むのはやめようと思った。まーくんの存在は何よりも大切だったから、片思いでも構わない。まーくんが幸せなら、私の想いはどうでもいいや、そう思った。
高校は別々のところに通うようになって、それまでよりは会う頻度は減っていったが、通話アプリで連絡をしたり、登下校でたまたま会ったり、それまでとの距離感はあまり変わっていなかった。
「夏生って、彼氏とかいないの?」
同じクラスの美央に聞かれて、真っ先にまーくんの姿を思い浮かべたが、自分が一方的に好意を寄せいているだけだし、彼氏なんて呼べる関係じゃないと思った。
「そんな人いないよ」
「じゃあ、好きな人とかは?」
頭の中のまーくんを必死でかき消して、
「いない、いないって!ほら、私、色気より食い気だし」
と慌てて答えると、美央は笑いながら言った。
「あはは、なにそれ。でも、この前、駅で他校の男子と一緒にいるとこ見かけたけど?」
「えっ?いつのこと?」
私がぎょっとして、尋ねると、美央はニヤニヤしながら答える。
「いつだったかな。帰りに駅で電車待ってたら、他校の制服の男子と仲良さげに話してたけど?」
「えっと、それは、あれよ、幼馴染で、家が近い子。全然、そんなんじゃないから」
必死で否定すると、美央は面白そうに言う。
「へえー、じゃあ、今度紹介してよ。ちょっとイケメンだったし、気になる」
美央はかわいいし、もし、まーくんに紹介して2人が付き合うなんてことになったら…そう考えてだけで私は焦った。
「い、いや、その、彼、人見知りだし、そういうの苦手だと思うよ。うん」
「ふっ、冗談だよ。夏生あの人のこと好きなんだね」
「な、な、何言ってるの。す、す、す、好きだなんて」
「真っ赤になっちゃってかわいい。でもさ、彼、ほんとにかっこいいから、好きなら早く告白しないと、誰かのものになっちゃうよ」
美央に言われて、今まで抑えてきた気持ちが一気に膨らむのを感じたが、それでも告白する勇気が持てずにいた。
そんな矢先に、まーくんは記憶を失くしてしまった。
美津江おばさんが亡くなったという知らせを受けて、それがよほどショックだったのだろう。秋月のおじさんから知らせを受けて、母と病院に向かったが、意識がなく、心因性のショックによるものだから、いつ目覚めるかわからない、と言われた。母と交代でお見舞いに行き、様子を見ていたが、3日ほどが過ぎ、やっと目を覚ましたまーくんに、喜んだのもつかの間、まーくんは焦点の定まらない目で私を見て、
「おまえ、誰だ…?」
と言った。
「え?まーくん…なにふざけてるの?私だよ?夏生だよ?」
そう言っても、まーくんはうつろな目で私を見るだけ。
「まーくん!どうしたの?覚えてないの?」
「まーくんて、誰だ?」
最初は、意識がはっきりしてないからわからないのかと思ったが、検査の結果、倒れた日以前の記憶がすっぽり抜け落ちていることが分かった。
世の中の仕組みや概念はわかるのに、今まで自分の人生に関わってきた人やそれに関する記憶は一切覚えていないのだ。
「この間のメロンパフェ、美味しかったよね」
と言うと、
「うん」
と答えはするが、きっと覚えていないのはわかる。
忘れられてしまうことがこんなに悲しいことだとは思わなかった。自分の存在そのものが、その人の人生から消されてしまうのだ。
でも、記憶を失くした本人もつらいに違いない。自分の過去や、名前すら思い出せない。アイデンティティそのものが失われた状態なのだ。初めは、自分が忘れられていることのショックで、悲しくて、泣くことしかできなかったが、一番不安なのは、まーくん自身なのだ、と気づいてから、せめてまーくんの前では、泣くのはやめようと思った。




