忘却
「まーくん、おはよう!」
今日も彼女がやってくる。
「朝ごはん、食べた?まだなら何か作ろうか?」
毎朝やってきては、かいがいしく世話を焼こうとする。
「あと1週間で夏休みも終わりかあ。夏休みって、なんでこんなに早く終わっちゃうんだろうね。始まる前は長いと思うのに」
部屋を片付けながら、ひとりでずっと喋っている。最初は雑音にしか感じなかったが、今では心地よい環境音に変わっていた。
俺が返事をしなくても、ずっとしゃべり続ける彼女は、沈黙を恐れているようだった。
「今日は、バイト?」
「ああ、うん」
「そっか、じゃあ、帰りにうちに寄って。ご飯食べていきなよ」
「わかった」
俺は記憶を失くしていた。生活に関することは何ら不自由なくできるのだが、自分の名前はおろか、人間関係や過去の記憶が全く思い出せなくなっていた。思い出そうとすると、激しい頭痛がし、嘔吐してしまう。医者の話では、無理に思い出そうとしなくても、いずれ思い出す日が来るだろうとのことだった。もちろん、心因性のものだから、思い出さない可能性もあると。
今、俺が知っているのは、自分の名前と、両親を亡くし、ひとり暮らしの高校2年生だということ、いくつかアルバイトで生計を立てていること、そして彼女の名前が夏生ということだけだった。
夏生はいつも明るく、にぎやかだったが、時折とても悲しそうな目で俺を見る。幼馴染だという彼女とは、たくさんの思い出があるはずなのだが、俺は何ひとつ覚えていない。
「この前のメロンパフェ、おいしかったよね。また食べたいなあ」
「うん」
返事はしたものの、実は何も覚えていない。つい最近、夏生の誕生日に食べに行ったらしいのだが、その話を聴いても、ピンとこなかった。
「何なら、今度は私がごちそうするよ。あ、でも、もうメロンの季節は終わりかなあ。今はなんだろ、ブドウかな」
スマホを取り出しメニューを確認している夏生を、ぼんやりと眺めていると、不思議と気持ちが穏やかになる。
「すまない」
自然と口にした。
「え?なに?パフェごちそうするってこと?いいよ、いいよ、来年また誕生日にごちそうしてもらうから」
「いや、そうじゃなく…いろいろ迷惑かけてるんじゃないかって」
夏生はちょっと困ったような顔をしたが、すぐに笑顔になって言った。
「私がやりたくてやってるんだからいいんだよ。気にすることないよ」
過去のことを思い出せないのを、この時ほどもどかしいと思ったことはなかった。きっと、夏生とはたくさんの思い出があったはずなのに、そのかけらも思い出せない。
「こんなにうちに来て、大丈夫なのか?」
「なにが?お母さんも行って来いっていうし、私は家の手伝いだけでバイトはしてないから何にも問題ないよ。あ、勉強とかってこと?」
「いや、彼氏とかいたら悪いなと思って」
俺が言うと、夏生は驚いたように目を見開いて、真っ赤になると言った。
「そ、そんなのいるわけないでしょ!」
「そうなのか」
「何言ってるのよ!だいたいどうしてそういう発想になるわけ?」
「いや、夏生って気が利くし、可愛いから彼氏くらいいるんじゃないかと思って」
俺は感じたことそのままを口にしたが、夏生は首まで赤くなってまくし立てた。
「まーくん、何言ってるの?いつからそんなお世辞言えるようになったの?やだ、信じられない、可愛いとか気が利くとか、そんなこと今まで言ったことないのに」
「そっか…今まで言ったことなかったのか。昔の俺は、気づいてなかったのかな。それとも…」
「もー!やめてよ、恥ずかしいじゃん」
照れて顔をそむけた夏生がたまらなく愛しくなった俺は、夏生に近づくと、そっと抱き寄せた。
「ま、まーくん…ちょっと…」
腕の中で固まる夏生の耳元で、俺は一言
「ありがとう」
と言った。




