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ネツゾウ  作者: 天野桂花
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喪失

 祐介に享司と香織のことを聴き、ある日の夜、まだ享司が帰る前に、そっと香織の店の前に様子を窺いに行くと、店の中からほろ酔いの享司が現れた。あとから出てきたのは、化粧っけはないが目鼻がぱっちりとした、男好きのするような女で、最近の享司が自分には見せたことのないような優しいまなざしを向けていた。


 美津江のいるところからは何を話しているのかまでは聞こえなかったが、親しげな様子は伝わってきた。すると、店の中から、小さな女の子が出てきて、満面の笑みで享司に抱きつく。それはまるで仲睦まじい親子のようだった。

 美津江は頭の中が真っ白になり、逃げるようにその場を離れた。

 祐介の言ったことは本当だったのだ。享司は私に愛想をつかして、ほかに家族を作ろうとしている。この数年間、昔のような家族に戻りたいと、どんな理不尽な暴力にも耐えてきたのに。

 美津江のなかに、今まで感じたことのない憎しみが沸き上がってきた。

「だから言っただろ?あっちはあっちでうまいことやってるんだ。こっちも幸せになろうよ」

 祐介のささやきが脳内によみがえる。


 そんな矢先だった。

 大みそかで、仕事も休みだった享司は朝から家でごろごろしていた。家中にある酒という酒を飲み、したたかに酔っぱらってこたつで居眠りを始めた。美津江はコンビニのバイトで、その日は帰りが遅くなるから、と、正義に静かに留守番をするように言い聞かせた。美津江がいなければ、享司は正義に手を上げることはなかった。

 夜も更け、仕事を終えると、美津江は急いで帰宅した。部屋に入ると、享司はこたつでだらしなく眠りこけていた。散乱した酒瓶や、缶チューハイ、部屋中に漂うアルコールの臭いで胸がむかついた。

「なあ、やっちまおうぜ」

 唐突に耳元で男の声がした。祐介だった。

「あんた、いつの間に」

「しっ!」

 祐介は美津江の口をふさぎ、にやりと笑った。

「今から起きるのは、ちょっとした事故だ。こんなに酔いつぶれて、火の不始末を起こしちゃ、火事になってもおかしくないだろ?」

 祐介は薄気味の悪い笑顔を浮かべながら、手にしていたスピリタスをグラスに注いだ。享司の手元にグラスを置き、瓶を傾けると、中の液体がみるみるこたつ布団に滲みていく。

 美津江の脳内に、幼い日の光景がまざまざと浮かび上がった。

「よく燃えそうだな」

 そういうと、祐介は美津江を引っ張りながら享司から離れ、煙草に火をつけると享司めがけて投げつけた。

 ボッ!と音がしたかと思うと、瞬く間に辺り一面が炎に包まれた。

「早く逃げようぜ!ふたりでやり直そう」

 祐介は美津江の手を引き、玄関のドアを開けた。その瞬間、流れ込んだ外気に、炎が一気に燃え上がった。

「離して!正義が!正義がいるんだから!」

 美津江は祐介を突き飛ばし、燃え盛る炎の中に戻っていった。

「ちっ!焼け死んじまうぞ!」

 祐介が止めようとしていたが、美津江の耳には入らなかった。

 部屋の中では、炎に包まれた享司が、ものすごい形相で、こちらを見ながら、這うように蠢いていた。

「お母さん、どうしたの?」

 奥の部屋から、寝ぼけ眼の正義が出てきたが、炎と煙に包まれた部屋を見ると呆然と立ちすくんだ。

「正義…!」

 正義の目に入ったのは、部屋の真ん中で、蠢いている人の形をした炎の塊だった。それが父、享司であることを理解するのにそう時間はかからなかった。正義は火だるまになって必死の形相でこちらに近づいてくる“それ”から逃れようとして、畳の上に転がる空き缶に足を取られ、尻もちをついてしまった。

「おま……はや……ろ……」

 ヒューヒューと搾りだされる声はもはや意味をなさず、そのことがさらに恐怖心をあおった。

「来るな!お前なんか、死んじゃえばいいんだ!」

 とっさのことに口から出た言葉はそれだった。

 ほんの一瞬のことだったが、享司の目は正義をじっと見つめ、その目からは涙がにじんでいるように見えた。

 逃げようと床を這う正義の背中に、火に包まれた天井が落ちてくる。

「キャー!」

 美津江の悲鳴と、天井が崩れ落ちる音、炎の燃え盛る音、人々の叫ぶ声、遠くから聞こえる消防車のサイレンの音。それら全てが遠くなっていった。


 


「…くん…まーくん…」

 目の前に心配そうな顔をした少女がいた。

「こ…こは…」

 真っ白で清潔なシーツ、カーテンで区切られた空間、独特な清潔な匂い。

「よかった!目を覚ましたのね!看護師さん呼ばなきゃ」

 少女は泣きそうな笑顔で、自分を見ながら言うと、ナースコールを押した。

「おまえ、誰だ…?」

「え?」

「俺は…誰なんだ?」

 少女の目におびえた色が浮かび、みるみる表情が曇っていく。

「まーくん、何言ってるの?私がわからないの?」

「はい、どうされました?」

 看護師ののんきな声が聞こえる。

 少女は泣き崩れ、その場に座り込む。


 俺は、記憶を失っていた。

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