3話 イリアの努力
初めて身体から精神体が抜け出た日、気がつくとイリアは身体の中に戻っていたようだ。
翌日意識が浮上すると、身体は眠ったままでまた精神体だけの状態だった。
(よかった、まだ眠ったままでいられるのね)
本当は全然良くないのだが、現実逃避していたいイリアには好都合だった。透けた両手を見つめてほっとしてしまう。
時計を見ると時刻は午前8時を少し過ぎていた。普段であればとっくに支度を済ませ王城に向かっている頃だろう。まあ、カルロから婚約破棄をされたのだから妃教育だってもう受けなくていいのかもしれないが。
イリアは朝陽の入ってくる窓を見つめてベッドからゆっくりと降りた。すやすやと穏やかな寝息を立てる顔色の悪い自分を後にして、部屋からゆっくりと顔を出してみる。扉を開けなくてもすり抜けることが出来たのに少し驚いて、まるで幽霊みたいだと思ってしまった。
まだ早朝のためか数少ない使用人がちらほら見える以外は静かなものだ。
本当は気にする必要はないのかもしれないがなんとなく足音を潜めるようにして階段を降りると、ちょうどエルネストが登城するところだった。
(お父様……)
「いってらっしゃいませ」
「イリアの様子に変わりはないのか」
「は……。まだお休みでございます」
「……そうか」
執事長からの見送りを受けたエルネストはため息をついて出て行った。
失望したような声音にイリアの胸が痛む。そして言い様のない悲しみが広がった。父親であるエルネストとはほとんど私的な会話をしてこなかったが、それでも心のどこかで父親として慕っていたのに。娘の異常事態を心配することもしてくれないのはやはり悲しかった。
(お父様にとって私はただの道具だったのかしら)
ふと暗い考えに支配されそうになったイリアはそれを振り切るように頭を振って、エルネストが出て行った玄関とは別の方向へ向かった。
廊下の南側は陽光がたくさん入るように大きな窓が続いている。
(せっかくゆっくりと休めるチャンスなのにいつまでも暗い気持ちになっていては台無しだわ!)
今度は窓をすり抜けてセルラオ家自慢の庭に出た。
王城の庭園ほどとはいかないが、緑豊かで綺麗に整えられた庭は生前母が好きだったものらしい。イリアも自然は好きだが妃教育が忙しすぎてゆっくりと庭で過ごすこともほとんどなかった。
穏やかな日差しの中、草花を眺めながら朝の空気を吸うと(精神体なので実際吸えているかはわからないが)心の中まで清々しくなってくる気がした。
(ああ、なんて気持ちがいいのかしら)
きらきらと輝く朝露に濡れた葉を眺め、色とりどりの花を観察し、優しい木漏れ日の中を歩いたイリアは庭の片隅にある東屋で休憩をした。
なんて健やかな気持ちだろう。
鬱々としていたのが嘘のようだ。
目には見えないがときおり自然の中に妖精の気配も感じた。きっとこの庭を豊かにしてくれているのだろう。
これが本来の人間らしい生活ではないかと考えてしまう。ここでゆっくり紅茶でも飲みながらしばらく読書でもしてみたい。
そのとき背後からぬっと影が現れた。
「おい、こんなところで何をしているんだ?」
(え!?)
まさか話しかけられるとは思わず驚いて振り返ると、呆れた顔をした医者のリディオがそこにいた。東屋に入って来た彼はイリアの正面に腰かける。
不思議だがリディオだけはイリアの姿が見える。診察に来たのに部屋には身体だけしかいなかったので捜しにきたのだろう。
(ええっと、リディオ先生……。おはようございます)
「おはよう。朝からずいぶん元気だな」
(早くに目が覚めてしまったのでお庭を散歩しておりました)
「そうかい。まあ、緑と触れあうのはストレス軽減にもなるからな。ゆっくりできたか?」
(はい、とても)
今まではずっと朝から晩まで妃教育の毎日だった。こんなに時間の余裕ができたのは初めてかもしれない。
(自宅の庭ですが、こんなにゆっくりと散策したのは初めてかもしれません。今まではずっと忙しかったので)
「妃教育ってのはずいぶん大変なものなんだな。……それが君には負担になっていたのかもしれない。これからゆっくりとそのストレスを解消していけば、すぐに身体に戻れるさ」
(そうですね……)
できればそれはもう少し先がいい。
リディオは励ますつもりで言ってくれたのかもしれないが、イリアは身体に戻りたいと思えなかった。戻ったところで現実は冷たくて辛いことばかりだ。
でもさすがにそれは医者であるリディオの前ではあまり言えないのだった。
その日からリディオはイリアの診察のため毎日セルラオ邸へと訪れるようになった。
とはいえイリアを目覚めさせるのに必要なことは溜まったストレスを解消し癒すことだ。なのでやることは眠ったままのイリアの身体が栄養失調にならないように栄養剤を点滴したり、脈を測ったり顔色を見たりとそんなことだけなのだが。
「そんなことばかりって……一応大事なことなんだぞ。君の身体なんだからな。あと周囲の妖精の気配を探ったりしてる」
(妖精の? そういえば私、精神体になったけど幽霊も妖精も見えないのですよね)
「へー、そうなのか」
(結構退屈です)
「だったらもう起きたらどうだ?」
(いえ、まだもう少し眠っていたいです。心行くまで)
イリアが眠り病にかかってから一週間。
話し相手は唯一イリアが見えるリディオだけだ。
リディオは医者だというが若くイリアより5歳年上の22歳らしい。優秀で評判の高い医者らしいが、貴族に対しても必要以上にへりくだることはしなかった。そのおかげなのか、なんとなくイリアは彼とは話しやすかった。
(わかったことといえば、どうやら私はこの家からは出られないようです)
挑戦してみたのだが、どうやらイリアの精神体が動けるのはこの屋敷の中だけのようだった。門の前まで行くと足が動かなくなってしまうのだ。
(私はどうやら自分の身体がら一定の距離しか離れられないみたいです)
「見えない糸で精神と身体は繋がっているんだろうな」
リディオが滞在するのは大体一時間程だ。
その間は侍女たちも治療のため部屋から下がらせている。
イリアは精神体で長く身体を抜け出ることは難しく、それ以外の時間は眠って過ごすことが多い。
「セルラオ卿は何も言っていなかったが、こうなった原因に君は見当がついてるんじゃないか?」
(眠り病になった原因ですよね……)
イリアはベッドの上にちょこんと座り、ベッド脇の椅子に座ったリディオと向かい合う。そうやって会話をするのがここ数日の日課になっていた。
ふむ、とイリアの細い手首を取って脈を見ながらリディオはメモを取り鞄から栄養剤の点滴を用意する。イリアの腕は点滴の針の跡だらけ……にはなっていない。リディオが目を閉じて触れると点滴の後は何もなかったかのように綺麗に治ってしまうのだ。これが妖精の力だという。
(お医者様はすごいですね。何度見ても不思議だわ)
「俺がすごいんじゃなくて妖精がすごいんだよ」
しみじみと自分の腕に新しい点滴の針が刺さるのを見ながらイリアは呟いた。
(いいえ、そうやって妖精の力が借りられるということはそれだけ妖精に愛されているということです。それはすごいことです)
「君だって聞くところによれば、幼い頃から厳しいお妃教育を受けていたんだろう? 顔色だって初めて見た時はもっと悪かった。それだけ努力できるのはすごいことじゃないのか」
(……でも、すべて無駄になってしまったのですけどね)
「無駄?」
リディオの訝し気な視線にイリアは苦笑する。
恥ずかしい話だがいずれわかってしまうことだ。話してもいいだろうと思った。
(カルロ殿下には婚約を破棄されました。他の女性を好きになられたんです)
「それで君は身を引いたのか?」
(引くも何も私に決定権はありませんから。まあ、元々親の決めた婚約者ですからお互い気持ちはなかったのかもしれません。それでもこの17年の努力が無に帰してしまったのは正直堪えましたけど……)
「なるほど……」
(朝から晩まで彼に相応しい人間になるよう教えられてきました。どこに出しても恥ずかしくないように……でも全部意味がなくなってしまいました)
ただそれが虚しかった。
別にカルロに愛されたいとかそういうことはどうでもいいのだ。もちろん仲良くやれればそれに越したことはなかったのだろうけど。華やかで見目麗しく周囲からちやほやされていた彼とは難しかっただろうことはわかっていたが。
それでもこの国の王妃として……。
「無駄ではないだろう」
(え?)
「君の今までの努力はその身にしっかり身についているんだろう。だったらそれはこの先の人生でもきっと役に立つ」
黙って話を聞いていたリディオが椅子の背もたれに寄り掛かってそう言った。
ぱちりとひとつ瞬いてイリアは首を傾げた。イリアの今までの努力は無駄ではないのだろうか。
「別に婚約破棄されたからって何だっていうんだ。そんな浮気性な王子なんて別れて正解だ。君のしてきた努力は君のものだ。だったらそれは無駄ではないだろう」
(リディオ先生……)
そんなこと考えてもみなかった。
だってイリアの人生は王子にこの国に生まれた時から捧げられていたものだから。それがなくなったらもう何も無いと思い込んでしまっていたのだ。
けれどリディオの言葉にイリアはなぜか心の底から笑いがこみあげてきた。
(ふ、ふふ……そんなこと考えたことありませんでした。ふふ、でもそうかもしれない!)
「そうだよ、小難しく考えすぎなんだ。王子がダメなら次に行けばいい」
(ふふ……あはは。そうですね)
リディオの言葉はイリアの心を軽くしてくれた。
こんな風にお腹の底から笑ったのは人生で初めてかもしれない。イリアの笑い声を聞きながらリディオは呆れたように頭をかいていた。
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