春風そよぐ日常にて
アスパラガスには釣鐘型の花が咲く。
一度だけ、見たことがあるが、白く、ほんのりと黄緑色で、どこかあどけなく微笑む少女のように密やかに、静かに咲いていた。
何も変わらない、だとか無変化だとかの花言葉があるのだ、と一緒にいた彼女が教えてくれた。
私たちのようだね、とそっと優しく花に触れてにこやかに話した春の香りがする彼女が、先日僕達の部屋から消え去った。
彼女が出て行った日はいつも通りの何も変わらない昼間だった。
予感はしていた。好きなものも違った。一緒に暮らすと価値観も違っていた。
それでも僕はやっていけると思っていた。長く暮らせば、全て許せる日は来るものだと、信じていた。
その日は。僕がうたた寝をしてしまうくらいに穏やかな日差しが窓辺から注いでいた。
木のまな板で包丁で小刻みに野菜を切る音と、パスタを茹でる為にコトコトとお湯を沸かしている大鍋の音が、規則正しくなっている。
いつも通りの日常に目を細めて、ゆるりと流れる日差しに甘えていた。
トマトの煮詰めた香りが濃くなっていく前に目をゆっくりと閉じた。
出来上がったら、優しく揺り起こされるだろうと油断していた。
春の日差しの香りは遠ざかっていたことに気付いて、目を開くと、そこに彼女の面影が消えていた。
出て行く前に作ったのだろう。テーブルの上に、トマトのパスタが置かれていた。
皿の上に置かれていたスパゲッティの隣に、広告の裏に書かれた言葉の筆跡が非常に丸っこくて、新しい紙を決して使わない彼女らしい一面を見出し、彼女が書いたものだということに現実味が増す。
彼女が書いた言葉だった。
「ごめん」
と書かれたその三文字は、僕が涙を流すきっかけになるには十分だった。
信じたくなかったのだ。どこか彼女が一人遠くに行ってしまうだなんて考えたくなかった。
椅子に座り、彼女の最後に作った昼食を見つめる。
トマトソースのパスタの上にはアスパラも添えられていた。
季節の野菜は、その季節が一番美味しいんだから絶対食べなきゃいけないんだよ、と口を酸っぱくして言っていた彼女を思い出して、また泣けてきた。
「どこが『何も変わらない』だ……」
花咲く前の茎を罵っても、それこそ何も変わらないのに。
日常から切り取られた大切な人を埋められる存在なんてどこにも無いのに。
僕は続いていた日常に終止符を打つ為に、フォークを手に取りアスパラにゆっくりと差し込む。
かみ砕くと、春野菜特有の苦みだけがじわりと舌に残った。