93.宰相と外交官と…
王都を見下ろす高台の丘は朝日に照らされて緑が色濃く輝いていた。
その輝きから身を隠すように茂みの物陰に身を潜めていた人物が、目的の建物が騎士たちに囲まれているのを確認し、人知れず奥歯を噛みしめる。そして、その人物とは対照的に日差しの中で軽やかなステップを踏んだローブを纏った人物が笑った。
「あーららー!ダメだったみたいですねぇ~?」
鳥の声が響く丘に場違いなほど明るい声が響く。
「やっぱり、あの汚い豚じゃ無理だったんですよぉ~。最初っからボクに任せてくれればよかったのにぃーなぁ~。」
ね?
と振り返った人物に、茂みの中から小さな舌打ちが聞こえる。それでも「ボク嫌われてますぅー?」と気にする様子はなく、軽やかなステップを踏み続けるその人物は自然あふれる中であまりにも異色だった。
「……、………。」
「ちぇっ…。はーいはい、わかりましたよぉ~。」
「……?…………____。」
「だからぁ、わかってますって。…うるさいなぁ、もうぅ~。」
そうつぶやいた瞬間、ガサッという音と共に茂みの中から気配が消えた。
「あーあぁ~行っちゃった…。」
茂みの中の人物が忽然と姿を消したことに驚くことなく愉快にローブの人物が告げる。そして、大きく腕を伸ばして空を仰いだ。グッと伸びをして新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだその体から纏っていたローブが落ちる。現れたのは日差しに光り輝く眩しいほどの金髪だった。
「んじゃ~、ボクも………___戻るか…。」
そうつぶやいた瞬間、先ほどまでの笑顔が消えて、その瞳の色が変わる。まるで別人のように、纏う雰囲気まで変えたその人物は軽く身だしなみを整えローブを拾い上げると、静かにその場所を後にした……。
インゼル王国王都から少し離れた治療院の前には数台の荷馬車が並んでいた。その荷台には治療を終えて回復した不審船の船員たちが乗り込んでいる。そして、荷馬車の列の先頭に停まっているのはひと際豪奢な馬車だった。ドアには大きく金でネーソス帝国の紋が刻まれていた。
「長きにわたる療養ありがとうございました。」
多くの騎士に囲まれたその一団から一歩前に出て優雅に挨拶をしたのは外交官のハサンだった。それに応えるように、ユスティーツが礼を取る。
「いえ、助け合ってこその……和議ですから。」
「…そうですね。これからもどうぞ、よろしくお願いします。」
「ええ。もちろんです。こちらこそ、よろしくお願いいたします。…ああ、これを。」
ユスティーツが合図をすればすぐ後ろに控えていた小姓が、銀のトレーに乗せられた書状を仰々しく差し出した。
「わが陛下より、ネーソス帝国皇帝陛下への書状です。」
それを聞いたハサンが片膝をついて書状を受け取り、控えていた召使に受け渡す。
「確かに…お預かりいたします。」
「よろしくお願いいたします。それと……。」
そう言って少し身をかがめたユスティーツに合わせるようにハサンが身を乗り出した。そして、低く顰めた声でハサンの耳元に告げる。
「今朝は、ご迷惑をお掛けいたしました。おかげさまで万事恙無く解決いたしましたので、ご協力をいただいたお礼にご報告いたします。…どうぞ、この件はご内密に…。」
一度言葉を切ったユスティーツは、あえて声を強める。
「…互いに知られたらまずい事も多い身ですし…。」
意味はわかりますでしょう?と視線でだけで問いかけてきたユスティーツにハサンはわずかに瞼を見開いたままゆっくりと頷いた。いつも笑みを絶やさず、穏やかな口調で話すこの男には得体のしれない何かがうごめいている。
…決して見える事のない、絶望にも似た恐怖を感じる何か…。
その感覚は蛇がゆっくりと獲物を締め付けて殺すように……そして気が付いた時には、蛇の腹の中にいるように術中にはまり身動きが取れないのだ。外交官として数々の主要人物と腹の探りあいをしてきたハサンですら、ユスティーツの真意を見るのは困難だった。
ハサンの反応に満足したユスティーツがゆっくりと姿勢を戻せば一拍遅れてハサンも姿勢を戻した。しかし、その顔は先ほどよりも幾分青く感じられる。それをみてユスティーツは誰にも気づかれずにそっと笑みを作る。
……私が何も知らないと思うなよ……?
ヘーゼルの瞳を正面から見据えて心で告げれば、ハサンの顔がさらに青くなった。
「では、道中お気をつけて…。」
「はい。…本当に、ありがとうござい…」
「遅れて申し訳ない。」
その時、ハサンの声を遮る様に太い声が二人にかかった。
次の瞬間、ネーソス帝国の護衛の兵士が一斉に膝をつく。そして、ハサンはその姿を見ると、息をつめてすぐさま他の兵士と同じように最敬礼を取った。それに手を上げて答えた男はハサンと同じように民族衣装ガラベーヤと複雑な模様で織り込まれたシュマッグに身を包んでいたが、明らかにハサンとは違い気品と威厳に満ち溢れていた。褐色の肌は日差しに輝くように美しく金色の瞳が彫の深い顔立ちを際立たせている。ユスティーツよりも頭一つ分小さな、男はハサンと並べばまるで親子の様に見えた。
男の突然の登場に一瞬、気を取られたユスティーツだったが、男が頭に巻いていたシュマックにネーソス帝国の皇族の紋を見つけて、ゆっくりと首を垂れた。二人を囲んでいたインゼル王国の騎士たちもその姿に一様に騎士の礼を取る。それを視線で受けながら、突然の登場によって騒然とした場を和ませるように、男は片方の肩から垂らされたシュマッグを抑え胸に手を当てて優雅に微笑んだ。
「突然の訪問申し訳ない。初めてお目にかかる、私はネーソス帝国第二皇子ヒュポクリテースだ。貴殿は…インゼル王国の宰相殿とお見受けするが?」
「はい、お初にお目もじ仕ります。インゼル王国宰相のユスティーツ・フェアファスングと申します。お会いできて光栄です…ヒュポクリテース第二皇子殿下。」
突然の第二皇子の登場に騎士たちにざわめきが広がる。
ネーソス帝国第二皇子がなぜここに?
穏やかな表情を作りながら、ユスティーツの頭の中は物凄い勢いで思考を巡らせていた。
今回の乗組員の受け渡しに第二皇子が同席することは事前の予定では知らされていない。ハサンの態度を見る限り、彼も知らなかった様子だ。だとすれば第二皇子は独断で我が国へやって来たということか?なぜ?…何の目的があって我が国に来たのだ?わざわざ、第二皇子が…自ら…。
「やはり!英傑と名高いインゼル王国の宰相殿にお会いできるとは。わざわざ足を延ばしたかいがあったようだ。」
「ありがたきお言葉です。秀才と他国にまでその名を馳せる第二皇子殿下にそのように言っていただけるとは恐悦至極に存じます。」
「貴殿とはゆっくり、酒でも飲みながら語り合いたいものだが、今日は忍びの訪問故これで失礼する。乗組員への処置、並びに我が妹への対応、わが父に代わって礼を申し上げる。どうか、エーベルシュタイン国王陛下にもよろしく伝えてくれ。」
「承知いたしました。我が国をご訪問いただきましたのにおもてなしも出来ない事お詫び申し上げます。」
「よい。もともと忍び故、大事にはしたくなのだ気にするな。」
「ありがたきお言葉、心より感謝いたします。」
恭しく首を垂れたユスティーツに一度頷いたヒュポクリテースはスッとならび立つ騎士たちに視線を走らせた。
「…ところで、今日はアールツト侯爵家の令嬢は参列していないのか?」
その言葉にピクリとユスティーツの肩が揺れる。そして、ヒュポクリテースの後ろでクッとハサンの背筋が伸びた。
…やはり、目的はアヤメ嬢か……__?
頭の中で様々な仮説と思考を組み立てながらも表情を一切崩すことなくユスティーツは口を開いた。
「はい。アールツト侯爵家令嬢の所属する騎士隊はこういった護衛などの任務からは除外されておりますので。…ご期待に沿えず申し訳ありません。」
「…そうか…。いや、いい。我が妹が世話になったので直接礼をと思ったのだが…。まぁ、いずれ機会が巡れば会う事もできよう。」
『機会が巡れば』
ヒュポクリテースの言葉に明らかな意図を感じたユスティーツは再度謝罪を述べながら、一瞬、視線を並んだ騎士の一人へと向ける。それを受けた騎士は微動だにすることなくその視線に込められた意図をしっかりと理解し、目だけで頷いた。
視線を受けたのは並び立つ騎士の中で唯一の女性騎士…カミーユ・アールツト副隊長だった。
彼女もまた不審船にて皇女を救助したアールツトの血を引く治癒魔法使いだが、ユスティーツはその存在を目の前の第二皇子に知らせらせるつもりは無い。
この第二皇子が聞いたのは「アールツト侯爵令嬢」についてなのだから……。
アールツト一族の血を引く女であるカミーユも狙われることは多かった。しかし、アンリエッタ・アールツトに引けを取らない実力から自分を攫いに来た賊たちを悉く返り討ちにしただけではなく、わざと誘拐された挙句に首謀者ごと一味を叩き伏せるほどの豪傑で、最近はすっかり襲撃犯や誘拐犯から嫌厭されている。しかし、彼女もまた我が国の至宝の一族であり、守るべき存在なのだ。その存在をここで簡単に他国の人間に晒すつもりは無い。たとえそれが、皇族だとしても…。
そう考えたユスティーツはそのままヒュポクリテースと会話を進め、悟られない様に細心の注意を払いながら、しかしそんなことは全く感じさせないそぶりで、ネーソス帝国の一団を手厚く見送った。
「…やっと、行きましたか…。」
遠くなる荷馬車を見つめながらユスティーツが重苦しいため息とともにこぼす。その力なく下がった肩に後ろから声がかかる。
「フェアファスング宰相殿。」
「…カミーユですか…。先ほどは助かりました。」
騎士の礼を取ったカミーユはユスティーツの言葉に首を振る。
「いえ、とんでもありません。私の方こそお気遣いをいただきましてありがとうございました。また、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。」
「迷惑などではありませんよ。貴女は我が国の民です。ならばその民を守るのが宰相としての私の役目ですからね。」
そう言って穏やかに微笑んだ顔に先ほどのような裏は一切ない。ただ、自国を愛し民を守る宰相の顔だった。その顔を見て、ゆっくりと頷いたカミーユだったがその眉間にはしわが刻まれていた。
「ありがとうございます。…しかしながら…やはり、アヤメはネーソス帝国の皇族にも知られてしまったのですね。」
その言葉に、ユスティーツがゆっくりと視線を落とす。
アヤメ嬢は今までのアールツト一族とは明らかに違う…治癒魔法が使えない代わりに新しい知識と技術を持っている異質の存在。今までは治癒魔法が使えないという隠れ蓑を身に纏ってきたが、それも終わりつつある…。彼女の才能と知識は最早隠し切れないほど多くの命を救ってきた。それはとても素晴らしいことだが、その代償が、14歳の少女に背負わせるには余りにも過酷すぎた。
一度視線を落として瞼を閉じた、ユスティーツは大きく息を吸いこんで再び瞼を開けそのまま天を仰いだ。見上げた空は雲一つないほどに晴れ上がり、穏やかな風が吹き抜けて頬を撫でていく。
「…たとえ皇族だろうと貴族だろうと私のやることは変わりませんよ。」
「…え?」
小さく落とされたユスティーツの言葉に思わずカミーユが聞き返せば、ユスティーツは澄み渡る空を背に目元を緩めた。
「私は、我が国の民を守り、王族を守り、国を守るために宰相になりました。アヤメ嬢も我が国の民…。ならば、それを守るために全力を尽くすのみです。」
そう。
たとえ相手が誰であろうと我が国の民を……我が国の至宝であり、唯一の親友の愛娘を守ってみせる。我が国の……目に映る全てを守るためにこの「宰相」という責務を手に入れたのだから。
晴れやかな顔でそう告げたユスティーツを見たカミーユはその眩しさに思わず目をしかめそうになってグッと堪えた。騎士の様に屈強な肉体を持っていない、男性としては華奢と言ってもいいくらい細い肩に、この国の全てを背負い歩き続ける……これが我が国の宰相…。
「…私も微力ながら尽力いたします。」
気が付けば体が自然に片膝をつき首を下げていた。カミーユはどうしてそんなことをしたのかはわからなかった。ただ、心が、体が、「この人に付いていきたい」とそう訴えているような気がした。
「よろしくお願いします。カミーユ・アールツト副隊長殿。」
カミーユに柔らかく微笑みながらユスティーツは荷馬車が消えた国門のほうへと視線を向けた。
考える事は山ほどある。
しかし、今はただ荷馬車が去ったことで元の様に街道に戻って来た民たちの姿を、その笑顔を見ていたかった。