90.侯爵令嬢と…
よろしくお願いします。
★登場する医療記述、およびその他はすべて作者の想像であり、実在する物とは異なりますのでご注意ください。
鏡視下手術・マイクロサージャリーは手術の際に、肉眼では確認しずらい細いものをつなぎ合わせる必要がある場合に、手術用の顕微鏡を用いて1-2mm程度の細い血管やリンパ管の吻合、あるいは神経縫合を行う技法ことだ。10倍から20倍の拡大下に手術を行なうので、手術器具や縫合材料も、それに適した通常よりも細くデリケートなものを使用する。例えば、直径約1mmの血管を縫合する場合、1本の血管を吻合するのに、髪の毛よりはるかに細い針糸を用いて8~10針縫ってつながなくてはいけない。細い末梢神経やリンパ管なども同じだ。その為、通常の手術よりもより正確な技術と集中力が求められる。
でも、治癒魔法が使えない私たちのような「普通の医者」にはこの技術は必要だ。
前世では四肢再建外科の分野では接着成功率は90%以上あり、もちろん、ただ繋がっただけではなく、元の状態に近い機能を回復している。さらにマイクロサージャリーが使用できるようになれば、外傷で指が失われたものや生まれつきの手指の欠損に対して足趾を移植したり、労働災害や事故による開放創の皮膚欠損に身体の他の部位から血管柄付き皮弁を移植したりもできるようになるし、足趾の関節を動かなくなった手指の関節に移植することも可能になってくる。マイクロサージャリーは、形成外科だけでなく手術を行う他科の領域でも欠かすことの出来ない手法だからこそ、私の補助者であるワイズとポイズにはできるようになってもらいたい。そして、いずれは国中の医師へ広めていきたい。
…まぁ、まずはその前にこの手術用双眼顕微鏡ゴーグルを量産しなきゃいけないけど…。
…うん、それは私の専門外だから、サーチェス様と、からくり好きのポイズに任せよう。
サーチェス様に作っていただいた手術用双眼顕微鏡ゴーグルは前世で使用していたものとはかなり異なるが、感覚を掴めばこれはこれで扱いがしやすい。何よりもゴーグルなので持ち運べるのが便利だし、ここまで小型にできるなんていまだに信じられない。最初に用途と設計図を見せた時はかなり驚かれたけど…。それでも「面白い。」と快く承諾してくれたサーチェス様には頭が下がる。きっとこれから先もたくさんの無理をお願いすると思うけど。
「お嬢様、腹部の切創は内臓の一部を傷つけていますので、目視で確認後必要に応じて縫合します。」
「わかったわ。任せます。」
「はい。」
ワイズは私のレントゲン代わりに編み出した透視魔法を使役できるようになっていた。もともと魔力が少ない私が使える程度の微量な魔力しか使わないこの透視魔法は、初歩も初歩なのでポイズとエーデルも習得済みだった。ポイズは、今は少しだけ私たちのもとを離れてカインの傷を見ている。太ももの太い血管を切っているだろうから、多分、動脈の吻合手術になるだろう。ポイズは外科医よりも内科医に近いが、私がしっかりと外科的療法や手術技法を叩き込んでいるため、吻合手術ならば問題はないだろう。しかも、エーデルもついているし。…三人の目覚ましい成長は本当にうれしくて、私もまだまだ負けていられないし、もっといろんなことを教えてあげたいと思ってしまう。
ケインの手術をしていると、私たちとカインの周りを警戒していたタケとウメが急にそわそわと動き出した。それに合わせるかのように、屋根にいたタビが「グーー!」と鳴く。敵襲か、もしくは私を引き取りに来た者たちか…?
どちらにせよ、今はカインを動かせる状態ではないのに・・・っ!!
そう思いながらも左手首の断裂した骨を再び接着して固定していると
「クエルト達が到着したようだ。」
と烏の獣人さんが告げた。
クエルト叔父様が!!そう考えていたところで、家の塞がれていたドアが外側からこじ開けられ、クエルト叔父様を先頭に、テオ隊長達が入ってくる。そして、ゲンとタビが壊した屋根のない天井からは騎士たちがゆっくりと入って来た。
「アヤメ!無事…か…?…これは?!」
「!!…!?」
「カイン・フテクト…!?」
「どうなってる?!」
「お、アヤメ嬢元気そうだな!そのゴーグルカッコいいなぁ!!」
クエルト叔父様、テオ隊長、レシ隊長、ストーリア隊長、アンモス隊長が、順番に口を開き、私たちの姿を見て驚きの表情を浮かべた。
それはそうだろう。鎖で繋がれた私は奇抜なゴーグルを身に着けて、誘拐の容疑者になっているであろうケインの手術をしていているのだから。さらには、同じく容疑者のカインはポイズによって手術を受けている状態だ。説明のために口を開こうとした時、私よりも先に静かな声が響いた。
「誘拐の実行犯だと思われる、カイン・フテクト及びケイン・フテクトが負傷したため、アヤメによる治療中だ。そして、こいつが…今回の誘拐の主犯だ。」
烏さんの声と共にクエルト叔父様たちの前に突き出されたヤーコブは、ドシャ!と床に転がった。出血多量により、意識がもうろうとしているようでもはや立っている事すらできない様子だ。貴族の高貴な衣装はあふれ出た血液で赤黒く染まっていた。
「この、傷は?」
「知らん。私が来た時にはこの状態だった。」
クエルト叔父様にそう答えた烏さんの話を聞いて、私は手を止めることなく「私がやりました。」と答えた。
「アヤメが?!だが、この傷は…。」
叔父様が言いたいことは分かっている。ヤーコブの状態が見れば私が与えた傷は致命傷になりかねない…『過剰防衛』になる可能性もあるくらい酷い物だ。
「…申し訳ありません、腋窩動脈を完全に切断しました。それで、何も処置をせずに放置していました。」
私の言葉を聞き終わるのと同時に、クエルト叔父様は何も言わずにヤーコブの治療を始めた。
「何をしている?」
「応急処置だ。このままでは出血多量で死んでしまう。」
「死ねばいい。」
「それはできない。こいつは事件を知る犯人であり、重要な情報源だ。こいつの話が聞ければ、今回の誘拐の目的と他との繋がりも明確にできるかもしれないだろう?」
烏の獣人さんと言い合いながらクエルト叔父様は手早く止血をして、エーデルに輸血を指示した。そして、ストーリア隊長とアンモス隊長にヤーコブを任せて、控えていた騎士たちに騎士団への連絡と応援をよこすように指示を出す。その後、カインの状態を軽く確認してからケインの手術をする私たちの所に来た。
「…!手首が断絶しているのか!?」
「はい。」
ケインの切り離された手首を見てクエルト叔父様は目を見開いたが、私はその目の前で、血管の吻合を終えて神経を専用の鉗子で摘まみ上げた。そのまま手渡されたいつも使用しているよりも数倍は細い針と糸で神経を縫い合わせていく。
「カインとケインは私の誘拐の実行犯ですが、全てはそのヤーコブ男爵による計画でした。カインは私が…、…っ私が、治癒魔法を本当に使えない事を確かめるために重傷を負い、ケインは…私を庇ってヤーコブ男爵に手首を切り落とされました。」
この二人がいなければ、私が今頃…重傷を負っていたと思います。
そう告げながらその時の事を思い出して、胸が抉られれるように痛んだ。その直後、私の説明を聞いていた騎士たちが一様に険しい顔をしてカインとケインを見た後、ヤーコブ男爵を睨みつけた。クエルト叔父さんの治療と輸血、治癒魔法を受けたヤーコブは、さっきまでの青白い顔が嘘のように血色を取り戻している。ケインと、カインはまだこんなにも苦しんでいるというのに…。言いようのない怒りが込み上げるが、それは騎士たちも同じ様で、静かな殺気が部屋を満たしていた。
「今は、切断したケインの手首を結合する手術をしています。カインもケインも私を守ろうとしてくれました…。私の為に重傷を負った二人をこのまま放っておけません。」
「それは…わかったが…。しかし、そんなことできるのか…?!」
「マイクロサージャリーという手法を使用すればできます。骨・血管・神経・関節・全てを接合・吻合・再建します。この方法とこのゴーグルを使えば治癒魔法が使役できない一般の医師でも、治癒魔法と同じように、切断された身体を元の通りに再建できるようになると考えています。」
説明を聞いていた騎士たちは、アヤメの話は奇跡の様だと思った。
今までは、四肢の欠損はその場に、その近くにアールツトの人間がいなければ諦めるしかないものだった。それが騎士であれば、そのケガは騎士生命を絶たれるのと同義だった。そんな重傷が…この方法を使えば医師ならば誰でも切断された足や腕を付けることができるとは…!もしこれが、治療院にいる医師たちにもひろまれば…その計り知れない可能性に思わず拳を握る騎士もいた。
「な、なんと!そこまでとは!?これは…アヤメが考えたのか…?」
「…はい。よろしければ、後ほどレポートをまとめて提出します。ケインの術後の看護計画はエーデルに任せますので、記録が必要な場合は申し付けてください。」
アヤメの言葉に騎士達が息をつめた。
…これが『アールツト侯爵令嬢アヤメ・アールツト』
アールツト一族に産まれながら、治癒魔法ほとんど使えないということを差し置いても、おつりが来るような、革新的で画期的な『誰にでも扱える』医療技術と知識を次々に発信する叡智とどんな命にも手を伸ばす慈愛を兼ね備えた……
…我が国の…新たな未来を創る…至宝…。
ごくり…。と誰かの唾を飲む音が聞こえた。
騎士の誰もが神業にすら思える偉業に呆然としながらも視線だけをアヤメの手元に注いでいた。そんな視線を浴びても、アヤメの手は迷いも狂いもなく、肉眼でははっきり確認できないほどの細い神経を何本も縫い合わせていく。そして、瞬く間に断絶されていた手首がつながった。縫い合わせた糸と皮膚の腫れは痛々しいが、それでもさっきまで分かれていたそれがしっかりとくっついている光景に、もはや誰も瞬きができない。
「ワイズ、見たわね?」
「はい。」
「よく覚えておきなさい。質問があれば後で聞くからまとめておいて。」
「承知しました。」
「ポイズ、カインの容体は?」
「はい。大腿及び肩の切創は縫合を終えました。麻酔の切れる時間を考慮して、必要であれば鎮痛剤を投与します。抗生物質は今から投与を開始します。」
「わかったわ。ケインの麻酔の切れた後にも同様の処置をお願い。感染症や、拒絶反応には十分注意して。エーデルは輸血した血液量の記録を忘れないで。この二人は三人に任せます。」
「「「はい。」」」
ジャラリ…。と鎖を鳴らしながらも、的確な指示を飛ばすアヤメの姿を見ていたクエルトは、その存在に全身に鳥肌が立った。信じられないような技法を披露しただけではない。アヤメは確実に己の技術と知識を継承させている。そして、この幼い医療補助者たちはそれを当然と受け入れて吸収している。それはまさにクエルトが理想とする、「これからのアールツト一族」の姿だった。
…やはり…アヤメは…。
己の中で強くなった確信にクエルトは人知れずこぶしを握った。
ワイズ達に指示を出し、クエルト叔父様や捜索に出てくれた隊長達にお礼を伝えようと、体の向きを変えた瞬間、フラリッと視界が揺れた。同時にサーッと血の気が引いていく感覚を覚える。
ヤバいっ!倒れる!!
気が抜けたのか足に力が入らず、倒れた先の衝撃に身を構えた時、トンッと大きな胸に体を支えられる。それと同時に、ファサッ…と肩に騎士の制服がかかった。
「…大丈夫か?」
降ってきたのは、ここ最近よく聞くようになった低い声で…見上げた先にはテオ隊長の綺麗な顔があった。
「テオ…隊…長…?!」
驚きと羞恥に声がどもる。それにテオ隊長は眉を寄せて力なく笑った。
「…無事でよかった。」
そのまま、ジャラッ…という鎖のこすれる音と共に長い腕が背中に回り、大きな胸に引き寄せられた。突然の事に、思考も何も停止してしまった私の頭のすぐ上で「遅くなってすまない。」というくぐもった声が聞こえて、なんだか、無性に…胸が込み上げて無意識に目の前の温かな胸に顔を押し付ける。低く聞こえるテオ隊長の心音が、温かな体温が、柔らかな香りが、ゆっくりと私の緊張と、不安と恐怖を溶かしていく気がした。
その想いのまま、ゆっくりと彼の背中に腕を回そうとして、クンッ!と鎖が引っ掛かり「ぐぇっ!」と雰囲気も色気も何もない、つぶれたカエルのような声を上げてしまった。
もうっ!なんでよっ!!
テオ隊長に聞かれちゃったし…めちゃくちゃ恥ずかしいぃぃっ!
恥ずかしさで真っ赤に染まった私の顔を少し覗き込んだ彼は、男性らしい整った顔にわずかな怒りを滲ませた後、おもむろに剣を抜いた。
「すまない、まずはその鎖を取る。手を前に、目を閉じていてくれ。」
何をするのか?と思ったが、そのまま言われたと通りに腕を前に出し目を閉じた。すると、「はっ!」という小さな声とわずかな熱を感じた瞬間、バリン!バリン!と鉄の砕ける音が聞こえた。
…え?…まさ…か…?
「よし、目を開けていい。レシ、足のほうを頼む。」
「わかった。」
目を開ければ、首と手首を繋がっていた鎖は粉々になって床に散らばっていて、そのすぐそばでは、レシ隊長が多分テオ隊長がやったことと同じなのだろう、柱と左足をつないでいる鎖を剣で切り裂いていた。
嘘でしょ!?鎖を…剣で切るとか…ありえるの?!なんか、こう、専用の工具とかが必要なんじゃないの?!
人知を超えた彼らの行動に目を丸くしていると、クエルト叔父様がやってきてヤーコブからとったという鍵で枷を外してくれた。
「全く、お前たちは鍵があるのだから…待てばよかっただろう。」
「「…申し訳ありません。」」
クエルト叔父様に揃って頭を下げる二人からは、鎖を剣で切るような姿はまるで想像できないけれど。…騎士団の隊長クラスになれば鎖…鉄を切ることもできるようになるのかしら…?
二人を咎めた叔父様はそのまま、枷が取れた私の首と、手首、そして足首を治療してくれた。
「…これであとは残らんと思うが、左足の傷はどうした?打撲があるが…?」
「…ヤーコブに、鎖ごと床に叩きつけられた時のだと思います。でも、ほとんど痛みはありまませんから。」
大したことはないとアピールして笑顔を作るが、その顔にクエルト叔父様の手がそっと触れた。
「辛かったな…。よく、頑張った。」
「…は、っい…。」
お父様に似た顔が辛そうに歪んで、何度も頭を撫でてくれた。その温かさと、優しさに、テオ隊長の時のように胸が込み上げて、瞼に涙がたまった。
「無事でよかった。兄上も義姉上も、騎士団長も宰相殿も…みんな心配していた。」
「…探していただいてありがとう、ございました。」
「それは、騎士棟に帰ってから皆に言ってやってくれ。皆お前の為に尽力してくれた。」
「はっい…。」
「それだけ、アヤメが皆にとって必要な存在だという事だ…。それを忘れないでほしい。」
「…っ…はいっ…!」
とうとう溢れた涙をクエルト叔父様の武骨で…でも優しい指が拭ってくれる。
「頭のリボンと泣き虫は卒業したんじゃなかったのか?」
そう言ったクエルト叔父様の瞳にも涙の幕が張っていて…余計に胸が熱くなった。心なしか、その声も上擦っているように聞こえる。ていうか、子供のころの話を引き出すんて反則だ。
「っ…今日は…特別ですっ…。」
昔の様に言えば、「そうか。」と叔父様が笑った。それにつられて私も涙にぬれた顔のまま笑えば、叔父様が何かに気が付いたように私の後ろに視線を向けた。
「ヒガサ…この後、共に兄上と義姉上に会ってくれ。」
「…。」
ヒガサと言われた烏の獣人さんは何も言わずに頷いた。
ヒガサ…まさか、この人…。
「…ヒガサおじさん?」
私が呼べば烏の獣人さんはびくりと体を揺らした。
「…俺を知っているのか?」
驚いたように目を丸くした彼に聞かれて頷けば、ポンッと肩にクエルト叔父様の手が乗った。
「その話も、あとでゆっくり話そう。今はアヤメの治療と休息が先だ。」
「…え?でも、私もう傷は…。」
目立つような傷は全部叔父様に治してもらったし、他は打撲くらいだから特に治療の必要もない。そう思い声をかければ「治療が必要なのは体だけじゃないからな。大人しく言うことを聞きなさい。」と咎められた。そして、叔父様はテオ隊長を呼ぶ。
「……__。」
「っ…承知…しました。」
何やらボソボソと叔父様がテオ隊長の耳元で言った後、テオ隊長の頬が若干赤くなった気がしたが詰まりながら返事をして、次の瞬間にはいつもの無表情に戻り、そのまま目の前に来ると「失礼する。」と言ってふわりと私を抱き上げた。
「きゃぁ…ッ!?」
突然の事に叫んでしまった私に「静かにしてくれ。傷に響く。」と告げたテオ隊長は軽々とお姫様抱っこをするとズンズンとドアへと向かって歩き出す。テオ隊長がかけてくれた上着は大きすぎて床に若干引きずっていたし、ぶかぶかだったけれども歩けないほどではないのに…。そう思うが私の思考を読んだかのように、口を開こうとしたタイミングで、藍色の髪越しに黒い瞳に射抜かれて大人しく口をつぐんだ。そのまま、制服の前を両手でつかんで合わせる。詰襟に耳上まで埋まりながらも、顔を見られないことを幸いに、再びテオ隊長の胸に頭を預ける。テオ隊長の体温と大きな腕に身をゆだねて、彼の心音を数えている間に、いつの間にか意識を手放した。
「アールツト侯爵令嬢無事に保護完了!!
容疑者3名確保、いずれも重傷を負うが侯爵令嬢の処置により命に別状なし。
これから帰還します。」
それは朝日とともに各地に届けられた吉報だった。
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