87.侯爵令嬢と…
よろしくお願いします。
…俺はやはり、間違えていたのか。
真っ赤に燃えた刃を突き付けるように、自分をにらみつけるヒガサの視線を正面から受け止めながら、クエルトは静かに息を吐いた。
ヒガサが自分のもとに来た時点で、彼の内なる怒りは予想がついていた。昔からアヤメの事を気にかけていたヒガサが、今回の事件を黙って見過ごせるわけがない。逆に言えば、今までおとなしく自分たちについていたことの方が驚きだった。まさか、その原因がアヤメの小さな医療補助者たちだったとは思いもよらなかったが。ワイズ達がそれほどの覚悟をもってイスラ王国で過ごしていたとは知らなかった。薬学の勉強のためにイズミ様の部下に師事していると聞いていたが、まさかその部下がヒガサで、教わっていたのは「戦い方」だったとは。
それを考えれば、自分が何も知らずに過ごしてきたことがひどく恥ずかしく感じられて、ヒガサの言葉が、ただひたすらに心を抉った。ヒガサが、任務で長く国を離れることになったあの時、俺にアヤメを託すと言って、たくさんの感情をこらえて苦い笑みを見せてくれたあいつに、「必ず。」と返した俺と、今の俺は…何が変わってしまったのだろう。
アヤメの才能と可能性を知りながら、心無い刃から守ることもできず、それなのに彼女の知識と才能を搾取してきた…。騎士団隊長という立場があった。アールツト侯爵家から離れた身分であった。自分にできることはアヤメが騎士団にいる間、心置きなく過ごせる環境を作ってやることくらいだ。と、勝手に結論付けて片付けてしまっていた自分が情けない。きっとヒガサなら、周りのすべて、己のすべてを顧みずアヤメの為に、その身を挺して、彼女を傷つける者からの楯となり、蔑むものを薙ぎ払う鉾になっただろう。…そんなこと俺には到底できない。叔父上の事だって、アヤメの一歳の誕生祭の時に既にヒガサはその危険性とアヤメへの影響を危惧していた。何度もそれを訴えていたのに、のらりくらりと躱したのはほかならぬ自分だった。
『アヤメはアールツト一族の新しい希望かもしれない。』
そんな、自分勝手な思いに…願いに、幼い少女を過酷な環境下に置いていることを黙認していた。今までやってきた己のすべてをヒガサの漆黒の瞳が鋭く責め立てていた。そう思えば、自責の念にとらわれて目の前が急に暗くなってくるがグッと腹に力を入れて堪える。
…だめだ。今はそれを考えている時ではない。今はアヤメを無事に取り戻すことを考えなければ。
眉間に寄った皺をなでながら、そっとワイズ達三人を見る。先ほどと変わらず、険しい顔で強く同行を訴えていた。
「…本当に自分の身は自分で守れるのだろうな?」
視線を順番に三人向けて聞けば、間髪容れずに強い返事が上がった。その視線を外さないまま、顔だけを少し後ろに控える騎士たちの方向へ傾ける。
「お前たちの意見を聞かせてくれ。」
俺の言葉にしばらく考えるような間が空いた後、「私は…。」とテオの声が上がった。
「私は、この者たちが過酷なイスラの現場でも物怖じせずに行動し、自分の仕事を全うする場面を何度も見ました。さらに、己を守る術を知っているというならば、連れて行っても問題はないかと思います。それに…」
一度言葉を切ったテオはゆっくりと歩み出てワイズ達の横に立ち、こちらにヒガサと同じ漆黒の瞳をまっすぐに俺に向けた。
「今は、一つでも多く、一人でも多くアヤメを助ける手段が欲しい。彼女を取り戻すためならば…たとえ子供だろうと私はその手を取ります。」
それに無言で返せば、他の騎士たちからもワイズ達の同行に賛成の意見が上がったが、ストーリアだけは一人、渋い顔をして腕を組んだ。
「私は反対です。いくら戦えると言ってもまだ子供です。現場に連れて行くのはやはり危険かと。」
「…ストーリア、お前の言いたいこともわかるがよ、今こうしている間にもアヤメ嬢には危険が迫っているかもしれねーんだよ。今ここで意見の対立なんてしてる暇はねーぞ?」
渋るストーリアにアンモスが声をかける。さらにはその肩に腕をかけて「こいつらは俺が補助するから。な?」と珍しく説得に回っていた。いつもはストーリアに咎められることが多いアンモスだが、その珍しい光景に思わず目を見張り、そして、ゆっくりと息を吐く。
「…お前たちの意見は分かった。ワイズ、ポイズ、エーデル、お前達三人の同行を許可する。ただし、勝手な行動は慎み、常にアンモスのそばを離れず、指示には従ってもうからな。」
あえて厳しい顔でそう告げれば、三人は一気にパァッと子供らしい笑みを見せた。「よろしくお願いします!ありがとうございます!」と次々に口にする三人を手で制して、そのままゆっくりとヒガサの方向を見る。先ほどから何も言わずに、沈黙を貫いていた烏は俺の顔を見るなり、ふんっ!と鼻から息を吐いた。
「…後で話がしたい。」
「話す事などはない。」
「それでも、話がしたい。…とりあえずアヤメが無事に戻るまでその怒りは鎮めてくれ。」
そう告げれば、大きな体をぶるっと震わせ再び、ふんっ!と鼻で息を吐いた。それを了承と取った俺は改めて、騎士と医療補助者たちに向きなおる。
「先ほど騎士団長からの報告で今回の件にネーソス帝国、少なくともハサン外交官はかかわっていないという事がわかった。」
「え?ハサンが首謀者じゃないんですか?」
「レシ、せめて敬称を付けろ。不敬にあたるぞ。」
驚いて声を上げたレシをストーリアが咎める。他の者たちも一番の有力容疑者の突然の除外に驚きを隠せてはいなかった。
「フェアファスング宰相殿に直々にハサン外交官へ確認をしていただいたので、まず間違いはないだろう。」
宰相の名前を出せは驚きが一気に消えて納得の表情になっていった。名前だけでこうまでさせる我が国の宰相のすばらしさに感心しながらも、変わらず厳しい表情と視線で告げる。
「だが、犯行がネーソス帝国が我が国にいる時期に行われたということはやはり引っかかる。単なる偶然ならばそれに越したことはないが…もし、意図的だった場合は、今回の誘拐を我が国とネーソス帝国の対立のきっかけにしようとしている可能性もある。さらに、ハサン外交官がかかわっていないというだけで、ネーソス帝国やほかの国の関与の可能性も消えてはいない。」
さらに、今夜中にアヤメが見つからなければ騎士を増員して公開捜査に踏み切ると陛下がご決断された。と続ければ一気に騎士たちの表情が引き締まった。
「既に、宰相殿のご指示により、国門には検問所を設けている。さらに、騎士団長が夜間警邏の騎士を追加で編成し配置された。」
クエルトの話を聞きながら、少しずつ規模を拡大していく捜索網にワイズ達がゴクリと息を飲む。建国記にも記されている最古の貴族であり、インゼル王国の至宝アールツト侯爵家。今までそんな言葉ばかりを聞いて来たが、この国にとってそうまで言われる貴族の、アールツト一族の重要性を初めて実感していた。それと同時に、そんな高貴な身分でありながらも、
平民で、孤児の自分たちに手を差し伸べて、理想の医療を目指すために、力を貸してほしいと言ってくれたアヤメへの思いが募る。
時間の許す限りたくさんの本を読んでくれた。
わからない事があれば、何度も教えてくれた。
気のゆるみが出れば厳しく叱責されたが、それと同じくらいたくさん褒めてくれた。
新しい医療器具を完成させるたびに、同じものをいつも自分たちの分まで用意してくれた。
アルゲンタビウスたちやダイアウルフに囲まれて、一緒にもみくちゃになって遊んでくれた。
どんな時でも、いつもお嬢様は笑ってくれた。いつだって最初にあった時と変わらずに手を差し伸べてくれた。でも、お嬢様は辛い時でも、悲しい時でも決して自分たちの前では涙すら見せてくれなかった。それが悔しくて、悔しくて、たまらなかった。自分達が褒章を受けた時はあんなに泣いて喜んでくれたのに。
だから、お嬢様が自分たちを本当の意味で頼りにしてもらえるように、心も体も強くなると決めた。その為にたくさん努力してきた。
だから…だから…必ず取り戻す!
今度はお嬢様の背中をついていくのではなく前に立ち、守り、横に並び、支えるために!
自分たちは
『あなた達に私の夢を託してよかった。』
そう言って泣いてくれたあの人の…アヤメ・アールツトのメディカルチームの一員なのだから!!
「だが。私たちとてただ指をくわえて見ているだけではない。」
落とされたクエルトの声に、不敵な笑みを浮かべた隊長達が一斉に頷く。
「さぁ、反撃開始だ。必ずアヤメを取り戻す!」
そうクエルトが宣言すれば、小さな、それでも熱い声が一斉に上がった。
冷たい…寒い…。
下から這い上がる冷気でゆっくりと意識が覚醒する。そして、瞼を上げれば、目の前に広がっていたのは木の床だった。見覚えのないそれは、自宅でも騎士棟でもない。そのままゆっくりと体を起こそうとして、ジャラッという音と共に首と腕に重さを感じた。
なに…?ここ…どこ?
確認するように、視線を自分の体に落とせば首から伸びた鎖が両手の枷についた鎖とつながっていた。混乱しながらもそのまま上体を起こして周囲を確認する。枷は両足にもついていて、左足首の枷から伸びた鎖が柱に南京錠のような鍵で繋がれていた。
まだ、はっきり覚醒していないのか、自分でも驚くほどに冷静に頭が回っている。今日はいつものように騎士棟をでて、アルのところに行って、カインさんと話して…そこで…意識を失った…?そこからの記憶はおぼろげで、断片的ではあるが、何回か人の声を聴いた気がする。
…私……誘拐された…?!
『アールツト家の女に生まれたからにはそういう覚悟も必要だ』
ふいにお父様の言葉を思い出した瞬間、急に首につけられた枷がきつくなった気がした。無意識に首の枷に手を伸ばすが、固い金属でできているのかわずかな隙間に爪をかけて引っ張っても、首と指が痛むだけでびくともしない。両手首につけられた枷も同様で、引っ張ろうが床に叩き付けようがびくともしなかった。
ジャラジャラ…と鎖がこすれる音が誰もいない空間にむなしく響いた。深夜ということもあるだろうが、しんっ…と静まりかえった空間が少しずつ、でも確実に私の中に恐怖と不安を植えつけて行った。落ち着いて。まずはここがどこか確かめないと。
どうやらここは廃墟の民家の様で、古びた家具が乱雑に置かれており、窓はすべて雨戸が閉められていた。天井の朽ちたと思われるわずかな隙間から夜空が見える。明かりは、テーブルの上に置かれたランプ一つだった。ランプは比較的新しいので、犯人が置いていったものだろう。足につながれた鎖の長さが許す限り、部屋の中を歩き回ってみる。攻略の特殊能力によって脱出経路はなんとなくわかるが、この鎖を断ち切らないとどうしようもない。医療バッグはテーブルの上に置かれていたが、鎖の長さで届かず、引き寄せることもかなわなかった。さらに、武器になりそうなものもない。もしかしたらと鎖がつながれている柱を押してみるが、私の渾身の力でもびくともしなかった。こんだけ朽ちているんだから、白アリに食べられたりしてもいいじゃない!?くそっ!と口汚く心の中で悪態をついてずるずると柱に背中を付けたまましゃがみ込む。
…寒い。
着ていたはずの騎士の制服はいつの間にか脱がされていて、今身に着けているのはシンプルなワンピース一枚だった。何の為に脱がせたのか…?思いついた答えに、ハッとして思わず全身に手を這わせるが、そう言った行為の痕跡も感覚も残ってはいなかった。よかった…。と少し安心しながらも、力なく屋根の隙間から夜空を見上げる。月が出ているのか出ていないのか小さな隙間では確認することもできないが、少しでも外の空気を感じられる事にわずかに心が救われる気がした。
…皆心配しているだろうな…。私の帰りを待っているだろう家族や使用人たちと、私が襲われた時に一緒にいたアルの事が気がかりだ。アルは強いし、体も丈夫だから大丈夫だと思うけど、私が襲われたのは騎士団の敷地内だから、アルが騒げば必ず誰かしらの騎士が気が付いたはず。そして、我が国の精鋭が揃う騎士団の騎士なら誘拐くらい簡単に阻止できるはずだ。でも、私がここにいるということは誰にも気づかれなかったということになる。
ということは、アルに何らかの危害が加えられている可能性が高い…。アルが傷つけられたかもしれない恐怖と不安にぎゅっと膝を抱いて両肩を丸めた。
「…アル…無事だよね…?」
思わずこぼれた言葉に、誰もいないはずの空間から静かな声が返って来た。
「自分よりも動物の心配とは、優しいですね。」
!!?
バッと声がしたほうを見れば、暗がりの中から人影がゆっくりとこちらに近づいてくる。とっさに立ち上がり、鎖の許す限り影と距離を取って目を凝らす。そして、ランプの明かりの中にゆっくりと現れたのは赤毛の従者、カインさんだった。