83.侯爵令嬢と…
インゼル王国の場内の一室。上等な家具と壁一面を埋め尽くす本に囲まれた執務室で、インゼル王国宰相ユスティーツ・フェアファスングは人知れず頭を抱えていた。
アールツト侯爵令嬢が誘拐された。
その知らせを聞いた時、一気に血の気が引いて足元の地面が崩れるような感覚に襲われた。長年の責務で身に着けた技で何とか周りの者に気が付かれることはなかったが、誰の目もはばかることのない自分の執務室についたとたん、崩れるように椅子に座り込んでいた。…最悪の事態が起きてしまった。アールツト侯爵家の暗い歴史が再び繰り返されようとしているの…。こうならないために、万全を期して対策していたというのに…。
グシャリ…と手元にあった書類を握りつぶす。それは先ほど騎士団内で結成された捜索隊の報告書だった。
我が国の人間の犯行の可能性もあるが…今のところ有力容疑者はネーソス帝国の外交官、ハサン・イブン・アリー。不審船の時から、何やらきな臭い気配を感じていたが…まさか初めからこれが目的だったのか?そう考えれば考えほど、自分の詰めの甘さを感じて苛立ちが募った。
『ネーソス帝国のハサン外交官に危険分子の可能性があります。』
「危険分子」それはアールツト侯爵家の人間に対し、何らかの危険性や異常性を感じさせるときに使われる一部の上層部と騎士団の中で使用される隠語だった。…報告は受けていた。我が国へ不法入国した不審船に乗船していた、皇女様を迎えにネーソスから使者が来た時…騎士団長がわざわざ登城してまで私に直接報告していたというのに。
『アヤメ嬢の周囲を念のため警戒して、なるべく一人にしないようにしてください。』
そう伝えるだけに留めてしまった。彼女は今騎士団内にいるし、移動はアルゲンタビウスを使用しているから誘拐の可能性は低いだろう。と高を括っていたわけではないが、どこかで思い込んでいた。その結果、守るべき少女が姿を消してしまった。
事件なのか、事故なのかもわからない今、わかることは、娘が行方不明になって嘆き悲しむ親友の事だった。あの時と再び同じ思いをさせてしまった自分が許せない。何のために宰相になったのか。血を吐くような努力と裏切りを繰り返し。心からの友はたった一人を除いてもう誰もいなくなったとうのに。
…その残ってくれた、たった1人すらも救えないとは…。
しかも、彼女は息子の命の恩人であり、我が国への狂犬病感染を隣国で押しとどめた大恩人だというのに…。
ビリっ…とついに力に耐えきれなった報告書が悲鳴を上げたところで、ハッと手を緩めた。今は自分を責める時ではない。今だからこそやるべきことがある。夜明けまで数時間。ハサンが乗組員と帰国するまで、長くはないがそれなりに時間がある。もし、犯人があの者だとして、国境を越えられたらアヤメ嬢を取り戻すのは難しくなる。和議は結んでいるがネーソス帝国はイスラ王国の様に我が国の同盟国ではないのだ。なんとしても我が国にいる間に手を打ち、アヤメ嬢を取り戻さなければいけない。
「…決して逃がさん…。」
地を這うような低い声が誰もいない執務室に響いた。
ユスティーツのもとへ報告書を上げてから一時間以上たった後、それぞれの役割を終えた騎士たちが会議室へ戻ってきていた。
「住民への事情聴取では、確かに騎士棟から彼女が出た時間以降に空を飛ぶアルゲンタビウスが目撃されています。飛んでいった方角もアールツト侯爵家の方角で間違いないそうです。」
二番隊の騎士が告げればすぐにストーリアの質問が飛ぶ。
「…飛んでいたアルゲンタビウスの上に人間が乗っていた姿を確認した者はいたか?」
「はい。この時間帯という事で全員の聴取はとれませんでしたが、ほとんどの者が長い黒髪と騎士の制服を見たと。」
「顔は?」
「いえ、それは遠くて判断できなかったそうです。」
肩を落として答えた騎士の背中を励ますようにアンモスが叩いた。
「まぁ、顔を見なくてもアルゲンタビウスに乗っているなんて言うのはアヤメ嬢以外いねーだろうな。」
叩かれた背中の痛みに何とか耐えていれば、黙って地図を見ていたクエルトが考えるように口を開く。
「…ちょっと待て。もし、その住民たちの供述が本当ならば…アヤメは確実に屋敷に帰っていたことになるぞ…。」
…!?
予想外の言葉に騎士たちの言葉が止まる。
「確かに。今の供述をした住民たちは皆この直線上にある家の者たちだとしたら、この時間の最後の目撃情報がある時点で、アヤメ嬢はすでにアールツト侯爵家の敷地に到着しています。」
クエルトの言葉を肯定するように、テオが長い指で他の者にわかるように地図を辿る。地図には、住民が目撃した時間が判る場合はそれを書き込んだメモが付けられていた。
「最初にアルを見たというのがこの時間でこの場所。騎士棟のすぐ近くだ。そして、その次はこの時間でここ。その次が、ここ。この時点ですでに5分は過ぎている。さらにこの方角から、この時間でここ。その位置だと、もうアールツト侯爵家の敷地目前で、最後が…騎士棟を出てから10分ちょっとでこの場所。この情報者の目撃した位置を考えれば…。」
地図上のテオの指はすでにアールツト侯爵家の塀の中にあった。
「あっ!」
「そうか!!」
レシとアンモスの声が響いた。ストーリアは何も言わなかったが、眼鏡の奥の瞳をわずかに大きく見開き、一度瞬きをするとゆっくりと口を開いた。
「そうなれば…目撃者に嘘の証言をした者がいるか…。」
それに対抗するようにテオが指でコンコンと地図を叩き「もしくは、アルに乗っていた人物が偽物か…ですね。」とつぶやいた。途端に、深夜に近い時間にもかかわらず、聴取に付き合ってくれた住民たちへの感謝の気持ちの中に疑心が生まれていく。
「虚偽は重罪だぞ。」
アンモスが眉を寄せて言えば、大げさに肩を落として見せたレシがため息交じりに言葉をつづけた。
「そんなこと気にする奴だったら、アヤメ嬢を攫ったりしませんよ。それに嘘ついて話聞いているのはこっちも同じですからね。」
「…こうなると、アルに乗っていたのはアヤメじゃない可能性も生まれてくるな。…アールツトの屋敷は広大で、治療院や研究所がある為、人の出入りも多いから、一般人に紛れて敷地内から出ることは可能だ。一応、通行証などの身分証明を行っているが…偽造できないものではないしな。」
「もし、アヤメ嬢の偽物がいたとして、守衛は気が付かないのでしょうか?」
腕を組みなおして重苦しく告げたクエルトにストーリアが問えば、クエルトは首を横に振った。
「アルゲンタビウスに乗っている時点で守衛や護衛の者は疑わないだろうな。他の二羽と違いアルは頑なにアヤメしか乗せたがらないことを屋敷の者は皆知っているし、目撃情報から、アヤメに似せた格好をしていたことも合わせれば…まず疑われることはないだろう。」
「いや、そもそも、アヤメ嬢は屋敷に帰ってきていないという事ですよね?ということは守衛とかには見られてないっていう事ですよ。」
「…となれば、守衛の死角となる場所を知っていたのか…。」
クエルトに続いた、レシとストーリアの言葉にアンモスが思いついたように太ももを叩いた。
「もしかしたら、アールツト侯爵家の敷地内にアルゲンタビウスが隠れているかもしれねーぞ!」
「その可能性はあるな。すぐに兄上に連絡しよう。アールツト侯爵家の守衛の死角や、アヤメの勤務上がりの時間からアルゲンタビウスの事…これは相当念入りに計画された犯行の可能性が高い。これらすべてをネーソスの人間が、しかもこの間の今日で実行できるとは思えなくなってきたな。」
クエルトは言いながら昔と同じ恐怖と焦りを感じていた。まだ部下の前だから、まだ兄上の前だから、と自分がしっかりしなくてはという強い気持ちでしっかりと立っていることができるが、もしこれが己一人だったら…頭の中は亡き妹の事でいっぱいになり、あの残酷な姿をアヤメに重ねて、耐え切れずに発狂していたかもしれない。…今度こそ救ってやらなければ。たとえ、それが他国の王族だろうと貴族だろうと、愚かな賊だろうと、我が一族の呪いを解いてくれる唯一の希望を渡しはしない。
「ネーソス帝国以外にも、我が国の人間の犯行の可能性も考えたほうがよさそうだ。今一度、アヤメの行動と、それに関わった人物を洗いだせ。念のため、騎士団の制服も支給品から予備までそろっているか各隊に確認しろ。」
騎士たちが短い返事をして、次はアヤメと最後に会ったとされるアルの世話係、カインの話へと移っていった。一番隊の騎士が、手元のメモを読み上げていく。
「アルの世話係の従者はカイン・フテクト18歳です。一年前に従者になり、数か月前より現職についています。今日はいつものように、アルと過ごし、彼女を見送ったという事です。」
「その際不審な人物を見たという証言は?」
「ありません。ただ、アルがいつもより元気がないように感じられたと…。」
テオの質問に答えた騎士がカインの書類をテーブルに置いた。他の騎士たちも確認するが特に不審な点は見当たらない。
「…アルゲンタビウスに薬でも盛ったか?」
「いや、アルゲンタビウスは警戒心が高い。よほど慣れ親しんだもの以外からは手から餌など食べないだろう。」
「じゃあさ、水に混ぜるとか?」
「まぁ、無きにしも非ずといったところか。」
アンモスとクエルトの話にレシが加わる。
「アルゲンタビウスを操るなんて可能なんですかね?」
「…不可能ではないな。」
突如響いた声にその場にいた全員が剣を抜いた。
先ほどまで感じなかった気配をたどれば、閉められていたはずの窓が大きくあけ放たれ、その傍に長袍を着込んだ真っ黒な烏が立っている。
「久しいな、クエルト。」
「!?…ヒガサ!!?」
真っ黒な二足歩行の烏はクエルトと知り合いだったようで、まるで夜の闇から抜け出すかのようにゆっくりと明かりの下へ歩み出た。クエルトの知り合いだと分かっていたが、騎士たちは抜いた剣の構えを解くことができない。それほどまでにヒガサと言われた烏の獣人から放たれる覇気はすさまじかった。
「驚かせて悪いな。」
「本当だ。騎士棟へ窓からの侵入など本来ならば即切り捨てられているぞ。」
「すまんすまん、つい癖でな。」
「…お前は変わらんな。」
「ククク、そうか?お前はずいぶん固くなったようだな。」
漆黒のくちばしを揺らして静かに笑ったヒガサは、スッと覇気を解く。その瞬間、隊長格以外の騎士たちがフラッと剣を揺らした。気を抜けば意識を飛ばしてしまいそうなほどの覇気に何とか耐えていたが、それを解かれたことで無意識に肩の力が抜けてしまった騎士たちに、クエルトが眉を寄せる。
「…皆剣下ろせ。こいつは危険な人物ではない。」
クエルトの言葉に構えを解いたテオ達が引き抜いた剣を鞘に納めればヒガサは翼腕を器用に体の後ろに組んだ。
「どうも皆さん、驚かせて申し訳ない。イスラ王国にてイズミ様に仕える者だ。ヒガサと呼んでくれ。」
軽い口調で挨拶したヒガサに、先ほどの覇気もあり、なんだか拍子抜けしたように感じながらも各々自己紹介をする。そして、最後の一人が終わったのを見計らってクエルトがヒガサに尋ねた。
「なぜ、ここに?」
「用事があってインゼルに来たついでにフェルの顔を見に寄ったんだが、そこでアヤメが行方不明だと聞いてな。なにか力になれればと思ってお前を尋ねた。」
「…イズミ殿や騎士団長は知っているのか?」
「主には伝えていない。アヤメの行方不明なんて伝えてみろ?あのお方の事だ影も私兵も引き連れて乗り込んでくるぞ?オッドにはお前から話しておいてくれよ。あいつ俺を見ると嫌な顔するだろ?あ、オッドがだめならインブルでもいいぞ?」
「勝手なことを言うな。騎士団長がそうなったのはお前のせいだろうが?」
「うるせーな。そんなことよりも、今はアヤメの捜索だろ?ああ、アヤメのアルゲンタビウスなら既に侯爵家の敷地内で保護したぞ。」
「なっ!!??」
さらりと言ったヒガサの衝撃的な発言に、その場にいた騎士たちが目を見開いた。
「アヤメが行方不明になった事で、アールツト侯爵家が混乱した隙を犯人に突かれる可能性も考慮して、敷地内を軽く見回りしたんだよ。その時に見つけた。」
「見回りって、あの広大な敷地をこの夜に一人でか?鳥目のお前が?」
「俺に鳥目が関係ないのを忘れたか?それに広さは飛ぶことのできる俺にとっては無意味だ。犯人の目的は、恐らくアヤメの知識とアールツト一族の血だろうが、万が一のこともある。幸いにシリュルはアンリと共に保護されていると聞いたかが、ヒルルク殿もいるしな。念には念を入れたところだ。」
さして難しいことでもないだろう?
と言ってのけたヒガサに、騎士たちは開いた口がふさがらなった。あの覇気からしてただならぬ力をもった獣人だと思っていたが、まさかそれほどまでとは。
人間の数倍の力と身体能力を持ち、種族ごとに卓越した能力を誇る獣人。元は狩猟民族であるがゆえに、単純武力で言えば軍事国家のネーソスをも凌ぐ、古の国。その片鱗を今、目の前に突き付けられた気がしていた。
「それでアルの容体は?」
「一命はとりとめた。…だが、ひどく傷つけられていたし、相当な量の薬を盛られている状態だった。」
「薬?毒か?」
「フェルの話では特殊に調合された薬物だそうだ。アルゲンタビウスは自我が強く、本来ならば自分が認めた相手にしかなつかない。基本スリーマンセルで行動し、一番力のあるやつをリーダーとする縦社会だ。そんなアルゲンタビウスを思いのままに操るのは、アヤメの様に確固たる親愛関係がなければまず無理だろう。さらに、先ほどのそこの騎士の話でないが、アルゲンタビウスは特殊な生態故に薬なども効きにくいから、催眠剤などは無意味だ。だから、毎日少しずつ、少しずつアルゲンタビウス用に特別に調合した薬を与え体内の蓄積量を増やしていったのだろう。」
「では、アルがいつもよりも元気がないように感じられてという証言は…。」
「恐らく体内の薬の量が一定量を超えて、正常な判断ができないような状態だったのだろうな。生き物を薬を盛って意のままに操ろうなど…愚の骨頂だ。」
そこまで話して口を閉じたヒガサを見ていた騎士たちの視線がゆっくりとテーブルの上に落とされる。
『そうなれば…目撃者に嘘の証言をした者がいるか…。』
『もしくは、アルに乗っていた人物が偽物か…ですね。』
『毎日少しずつ、少しずつアルゲンタビウスに薬を与え体内の蓄積量を増やしていったのだろう。』
『いや、アルゲンタビウスは警戒心が高い。よほど慣れ親しんだもの以外からは手から餌など食べないだろう。』
『じゃあさ、水に混ぜるとか?』
今までの情報がパズルのピースの様に一つ一つはまっていく。
そして、ヒガサがゆっくりと嘴を震わせた。
「…間違いなく、犯人は…この騎士団内にいるだろうな。そして…怪しいのは…。」
その言葉に促されるように、騎士たちの視線が、地図の上に並べられた書類の一つに落ちる。その書類に書かれていた名前にテオはグッと奥歯をかみしめた。その漆黒の瞳に映るのは
“カイン・フテクト”
の文字だった。