79.侯爵令嬢と不審船8
よろしくお願いします。
一日休んで騎士棟に来た私を、迎えてくれたミールとカミーユ副隊長は、何も言わずに抱きしめてくれた。あの日の夜は何も話すことなく別れてしまっていたが、言葉はなくても二人からの気持ちが伝わってくることが嬉しかった。
それからいつものように座学が行われたが、もうすぐ昼休憩というところで騎士団長から呼び出しがかかった。呼び出されたのはカミーユ副隊長とミールと私の三人で、クエルト叔父様を先頭に騎士団長室へ向かう途中に会話をする余裕はない。この先に待っているのは不審船についての事だというのは分かっていたが、何を言われるのかわからないことがいたずらに不安を掻き立てていた。
「失礼します。」
クエルト叔父様を先頭に短く挨拶をして入室をすれば、騎士団長、副団長、そして前世で見たことがあるエジプトの民族衣装ガラベーヤと複雑な模様で織り込まれたシュマッグに身を包んだ褐色の肌の見慣れない男性が応接セットの椅子に座っていた。不躾になってしまうとはわかっていたが、見慣れない褐色の肌と黒地に金の刺繍が施されたガラベーヤにどうしても視線を奪われてしまう。
「紹介しよう。ネーソス帝国の外交官、ハサン・エブン・ムリー殿だ。」
騎士団長が私たちの視線に気が付いたのか、騎士団長が咳払いと共に男性の紹介をする。それを聞いて優雅な所作で立ち上がった、ハサン様が片方の肩から垂らされたシュマッグを抑えるように胸に手を当てて軽く頭を下げる。
「初めまして。どうぞ、ハサンとお呼びください。」
うわぁ…イケボ…。
思わず耳を抑えたくなるような、美しくも低く腰に響く声であいさつをしたハサン様はヘーゼル色の大きな瞳でゆったりとほほ笑んだ。どちらかというと前世でいうところのヨーロッパ人を思わせる顔の作りの民族が多いインゼル王国に対して、褐色の肌を持ち、顔の彫りが深く、目鼻立ちがはっきりしているのはネーソス帝国の民族の特徴だが、これは紛れもなく前世で見たアラブの王子を彷彿とさせる美形だ。
「インゼル王国騎士団0番隊隊長を務めます、クエルト・アールツトです。これが今回の救出の際に女性の処置を行った私の部下たちになります。紹介させていただいてもよろしいでしょうか?」
ハサン様の思いがけないイケボと美貌に惚けていたミールがクエルト叔父様の声にびくりと肩を揺らし、ミールに近い状態にあった私もそれに倣うように私も姿勢を正す。
「もちろんです。」
「ありがとうございます。」
ハサン様の領主を得て、クエルト叔父様が視線で促せばカミーユ副隊長が騎士の礼を取った。
「0番隊副長を務めます、カミーユ・アールツトと申します。」
「0番隊所属のミール・システーマと申します。」
「同じく、0番隊所属のアヤメ・アールツトと申します。」
自己紹介と共に騎士の礼をとれば、ハサン様が笑顔を崩さないままゆっくりとうなずいた。
「あなた方のご活躍は我が国にも届いております。あなた方の適切な診断と迅速な措置によって多くの乗組員たちが救われました。我が王に代わりまして心より御礼申し上げます。」
そのまま深く腰を折ったハサン様の頭に巻いていたシュマッグの滑り止めとしてついている金のイガールについた装飾品がシャラッと静かになった。ゆっくりと姿勢を戻したハサン様がカミーユ副隊長と私を順に見て視線を止める。
「さすがはインゼル王国が至宝アールツト侯爵家ゆかりの方々だ。」
そのままニコリとしたハサン様の笑みに、なぜか背筋に悪寒が走った。理由も正体もわからないこの悪寒が、私に危険信号を伝えている。思わず後ずさりそうになったのを必死でこらえていると、同じようなものを感じたのか隣にいたカミーユ副隊長の手がそっと背中に添えられた。ハサン様の手前カミーユ副隊長に視線を向けることはできないが、添えられた手のひらから感じる温かさが、静かに私を励ましてくれているようで私はグッとお腹に力を入れて姿勢を正した。
それから、応接テーブルをはさむようにハサン様と向かい合って騎士団長、副団長が椅子に座り、クエルト叔父様とカミーユ副隊長を含めた私たちは団長たちの後ろに並び立った。どうやら、不審船はネーソス帝国のものだったようで、知らせを受けたハサン様を含むネーソス帝国の人間が数名こちらにやって来たとのことだった。すでに我が国の王や上層部との会談は終えているらしく、直接私たちに挨拶がしたいというハサン様のご希望でこの場が設けられたとのことだった。
優雅な手振りで話をするハサン様は多くの装飾品を身に着けていて、光に反射して煌びやかにハサン様の美貌を際立たせている。
金の湧き出る泉という異名を持つネーソス帝国では大したことないのかもしれないが、私としては先ほどからシャラシャラと鳴る装飾品のこすれる音が物凄く気になる…。
「…赤子は残念でした。」
ふと落とされたハサン様の言葉に一瞬だけ室内の空気が張り詰める。あの胎児の件はお父様に諭され、一日の休養中にしっかりと飲み込んで消化してきたが、失った命の重さは背負い続けている。
「ですが、皇女様が無事だったことだけでも救いです。」
皇女!!?
ハサン様の言葉に思わず隣にいたミールと顔を見合わせる。あの女性は皇女様だったの!?っていう事は…あの赤ちゃんは…王家の血を引く…。
事の重大さにサーッと血の気がひいていくような感覚に襲われて、必死に足に力を入れる。今ここで卒倒するわけにはいかない。
ハサン様の話では、あの女性は側室の1人との間に生まれた皇女様だった。多くの側室を抱えるネーソス帝国の皇帝陛下は18番目に生まれた皇女様の名前すら知らなかったという。そして、その皇女様が旅の吟遊詩人と恋に落ち子供を宿していたことを知った時にはすでに後宮に皇女様の姿はなく、捜索中に我が国から不審船の連絡を受けたそうだ。ちなみに吟遊詩人は兎の獣人だったそうで、イスラ王国で子供と三人で暮らす予定だったという。
ハサン様の話では、マリアム様は自国の貴族との婚姻が決まっていたとのことで、彼女にとっては一世一代の愛の逃避行だったのだろう。第二皇子の紋が入った装飾品は、兄の様に慕っていた皇子の忘れ形見として持ち出したものだったそうだ。そして、彼女は自国に連れ戻されることが決まっていた。
「皇女様とは知らず、数々のご無礼をしてしましました。申し訳ありません。」
騎士団長が頭を下げるのに倣いその場にいたハサン様以外の騎士が頭を下げれば、彼はそれを手を上げて制した。
「いえ、お気になさらないでください。先ほどフェアファスング宰相様にもお伝えしましたが、マリアム様が我が国の皇女だと知られることは私たちとしては何としても避けたいのです。ですから、今回の件で騎士団の方々の対応に皇帝陛下を含め、私たちからの不満はありません。マリアム様を助けていただいた方々には、感謝と謝罪も込めて私の口から直接お話させていただきました。どうか、このことは他言無用でお願いします。」
ハサン様の言葉に短い返事をすれば、安心したかのように彼は紅茶を飲み干して席を立った。
「それでは、私はこれで失礼いたします。マリアム様と共に先に帰国しますが、乗組員たちの回復を待って後日、我が国より迎えをよこしますので、それまでどうぞよろしくお願いいたします。」
「承知しました。我が騎士団が責任を持って乗組員たちの警護に当たります。」
「ありがとうございます。」
騎士団長と握手を交わして退室するハサン様を見送れば、ピタッと私の前でハサン様が足を止めた。
「壊血病からマリアム様の容体、赤子の処置まで…すべて、貴女が先導していたと伺いました。」
インゼル王国には珍しい、明るいヘーゼルの瞳がまっすぐに私の瞳を覗き込み、先ほどの悪寒が再び走る。なんでこの人を見るとこんなにも…嫌な感じがするの?
「い、いえ。そのようなことは…。すべてはカミーユ副隊長やミール、他の騎士たちがいてくれたおかげです。」
何とか言葉を返せば、ふわりとハサン様がほほ笑んだ。
その途端にスパイシーでほのかに甘い香りが鼻腔を突き抜けた。香水をつける習慣のある人間は珍しくもないが、こんな香りの物は初めてで、無意識に鼻がヒクつけばそれを見たハサン様が笑みを深くする。
「…アールツトの名を持つ方々は、幼い時から優秀なのですね。」
「…。」
なんて返せばいいのかわからず口を閉じたまま視線を泳がせれば、眉を寄せたクエルト叔父様と剣呑な顔をした騎士団長の姿が目に入る。副団長に至っては帯剣している剣の柄頭に手をかけていた。
…え?なんで?そんなに臨戦態勢なの?
不思議に思ったが尋ねることもできずに視線を落とそうとすれば、伸びてきた褐色の手にツイッと顔の横に垂れた髪を掬われた。
「我が国にも貴女のような逸材が欲しいものです。」
そうハサン様が告げた瞬間、騎士団長が私の前に立ちクエルト叔父様とカミーユ副隊長が私を隠すように背中に庇った。突然の事にされるがまま呆然と立ち尽くす私の前で騎士団長が鋭い視線をはハサン様に向けている。
「ハサン殿、お戯れに彼女に触れるのはおやめいただきたい。騎士団に身を置いてはいますが彼女は我が国の至宝、アールツト侯爵家のご令嬢。これ以上は、国王陛下に報告し不敬として対応せざるをえなくなります。…どうぞお控えください。」
騎士団長が低い声で告げれば、ハサン様の後ろで副団長が見せつけるように剣のグリップを握る。そして、少しの沈黙の後ハサン様は大きなため息とともに両手を上げた。
「⨋…∷⊀≳⊤⊰⊿⊶⋋…。」
聞きなれない言語と共に何かをつぶやいたハサン様は、鋭くにらむ騎士団長に不自然なほど穏やかな顔で口を開く。
「失礼。あまりにもアメジストの瞳が美しく、見とれてしまいまいました。」
悪びれもなくそう言った彼は「行きましょうか。」と廊下に控えていたネーソス帝国の護衛に声をかけると、私のほうに一瞬だけ視線をよこしたが、すぐに背を向けて歩いて行った。クエルト叔父様とカミーユ副隊長に庇われたまま、二人の肩越しに遠くなる背中を見ていれば、誰かの大きなため息が落ちる。
「全く油断も隙もない。」
「今回の事はフェアファスング宰相に報告しておこう。ハサン外交官は『危険分子』だと。」
「アヤメ、念のため今日は一人にはなるな。ネーソス帝国の一行が国を出るまで、必ず誰かと行動を共にしろ。」
「え…?」
騎士団長、副団長に続いたクエルト叔父様の言葉に疑問を浮かべれば、カミーユ副隊長がポンッと肩を叩いた。
「心配するな。私たちが守ってやるからな。」
「守るって…どういうことですか?なんで私を?」
「カミーユ、お前も守られる立場だということを忘れるなよ?」
得意げに言ったカミーユ副隊長にクエルト叔父様の声がかかれば「私は自分の身は自分で守れます。」と心外だといわんばかりにカミーユ副隊長が噛みついた。
いや、まずは私の質問に答えてよ…。綺麗に質問を無視されてしまった事でなんとなく面白くない気分になったまま、ふと窓の外を見れば大きなラグビーボールのようなものがゆっくりと空に浮かんでいくところだった。
「飛行船!?」
前世でもめったに見る機会はなく珍しいものだったが、まさか科学技術が遅れていると思った今世で見られると思わなった。水素に近い気体が大量に詰まっていると思われる気嚢は丸々と膨れていて、白地のそれには大きくネーソス帝国の紋章が描かれている。その珍しさに上がったテンションのまま、ミールとそろって窓に張り付いてみていれば、副団長がくすくすと笑いながら私たちの横に並んだ。
「最近完成した、ネーソス帝国の技術の結晶だそうだ。馬では半日かかる距離もアレを使用すれば半分の時間で済むというから驚きだな。」
「今はまだ試験段階だそうだが、緊急事態という事で乗船してきたらしいが…半分は我が国への技術誇示だろう。アレを戦争で使う考えもありそうだ。」
騎士団長が渋い顔で言えば、それを聞いたクエルト叔父様は顎に手を添えて考えるように口を開いた。
「…その際は風魔法で墜落させますか?」
インゼル王国には魔法があるがネーソス帝国には魔法はない。不思議なことにインゼル王国で生まれたものだけが魔力を持つのだ。
もちろん私の様に魔力が少ない者もいるが…。
「あの白い中には可燃性の高いガスが使われていると思いますから火魔法を使えば勝手に爆発しますよ?」
うろ覚えだが、飛行船は周囲の大気よりも軽い浮揚ガスを使用しているはず。この世界に水素やヘリウムが存在するかは定かではないが、それに近い気体ならば可燃性は高いはずだ。まぁ、前世で幼い頃に見た広告宣伝用にのぼりを付けたものの様に…不燃性のヘリウムガスの場合もあるだろうけど。
私の発言に騎士団長を始めとしたみんなの視線が集まる。
あれ…?何か変なこと言ったかしら?
「アヤメは…ネーソス帝国の何十年という研究と努力の結晶で生み出したアレの構造がわかるのか…?」
「あれの製造技術や構造に関してはネーソス帝国の国家機密だぞ?」
あぁぁぁっ!!!やってしまった!!
…やってしまったよっっ!!
今世では科学の進歩が遅いから、前世では当たり前の事でも未知の知識になるんだった!!この世界で、恐らく初めてネーソス帝国が作り出したであろう「飛行船」という新技術を他国の人間が知っているのは明らかにおかしい…。
皆からの追及の目にどうしようかと考えて、『見た目は子供頭脳は大人』の名探偵バリに声を上げた。
「あっれれ…?確か屋敷の本で空気よりも軽い気体について読んだときに書いてあったと思ったのですが…実験では様々な気体や液体も使用しますし。」
苦しい…。
我ながら、とても苦しい言い訳になってしまったが今はこれで乗り切るしかない。我が屋敷の膨大な量の書物のすべてを暗記している人物はスチュワート以外にいないと思うし、もし、聞かれても本の題名までは覚えてません。でごまかしきれるはず…だと思いたい!
「そうか…?まぁ、あの屋敷にはさまざまな本があるからな。」
「試しに、一度燃やしてみましょうか?」
「カミーユ、物騒な話をするな。私たちは戦争をしたいわけではない。」
「だが、先ほどのハサン殿の件と言い…可能性はないわけではないだろう?今から、脅威になりそうな芽は潰しておくか?」
「やめろ、インブルまで何を言うんだ。ほら、お前たちももう下がれ。午後の演習に遅れるぞ。」
騎士団長の鶴の一声で私はそそくさとその場から離れた。その後ミールに飛行船の事を色々聞かれたが、私の迫真の演技力でだましとおすことに成功した…と思っている。
誤字脱字報告ありがとうございます。
お手数おかけしています。