76.侯爵令嬢と不審船6
よろしくお願いします。
*登場する医療行為、その他すべては作者の想像であり実在する物とは異なりますのでご注意ください。
死後処置を行う度にある言葉を思い出す。
それは前世でまだ研修医だったころ、初めてエンゼルケアを行ったときに一緒になったベテラン看護師の言葉だった。
「心まで持って行かれたらダメよ。」
どういう意味か分からなくて、何も返せなかった私に彼女は、ご遺体を拭きあげながら言葉をつづけた。
「人の死に慣れちゃいけないけれど、その都度心を添えてもダメ。私たちはまだこっちで生きていかないといけないのだから。」
今でもその意味を完全に理解していないせいか、こうして冷たくなった体を触るたびに、あの言葉の意味を問いかける自分がいた。
前世ではアルコールに浸した脱脂綿でご遺体を清める清拭が行われるが、この世界では湯灌が主流だった。この子が、赤ん坊らしい綺麗な姿に整えられてあげることで、少しでも残されたあの母親が死を受け入れ、悲しみから立ち直るための何かに繋げられたら…。
そこまで考えてふと手が止まった。
…そんな考えは図々しいか…。
私はこの子を助けられなかった。
あの母親からしたら、子供を死なせた「人殺し」なのに。
「よし。後は清潔な布にくるんで、母親のいる治療院へ運ばせよう。」
カミーユ副隊長の言葉にミールと共に一つ頷きを返す。
大きな布にくるまれて運ばれていく小さな体に、悲しみも偲ぶ気持ちも添えて手を合わせて送り出す。私に残されるのは、救えなかった命の重さと「人殺し」と言われた遺族の痛みだけでいい。
不審船の乗組員への事情聴取と国籍確認は0番隊以外の騎士数名で組んだ小隊に任せて、ほとんどの騎士隊は騎士団長を先頭に騎士棟へ帰った。ずらりと組まれた隊列の一番後ろをアルに乗って追いかける。
「グゲー…。」
私の事がわかるのか、気遣うように一つ鳴いたアルの頸元をそっと撫でた。
あの母親とやり取りを見ていた騎士たちは皆、私に気遣うような視線をよこして、腫れたままの頬を見るとすぐに視線を逸らしていった。文字通りの腫れもの扱いだったが、今の私にはそれすら気にする余裕はない。これから騎士棟に戻れば、クエルト叔父様と騎士団長による取り調べが待っているのだ。
騎士団長の許可なく勝手に医療行為を行い、結果一つの命を失ってしまった。それは重罪だ。カミーユ副隊長がすべての責任を取ると言っていたが、すべては「帝王切開」を提案した私に責任がある。私にできるのならどんな責任でも取るつもりだし、取り調べも厳しい非難も甘んじて受け入れる所存だった。医療従事者としてそれだけの覚悟は常に持っている。
私が一番恐れているのは「アールツト侯爵家」の名前に泥を塗った事。
世界で唯一治癒魔法を使役できる、この国の最古の貴族。その名門に正面から泥をぶつけてしまったのだ。ほかでもない、そのアールツト侯爵の娘の私が…。
お父様とお母様は優しい方だから私を責める事も罵ることもしないだろう。きっと、私の知らないところでお父様は私を他の貴族たちから庇い、お母様は治癒魔法を使えない娘を産んでしまった事で自分を責めて涙を流すだろう。
…そのことが一番つらく、悲しかった。
騎士棟についたころにはもうすっかり日が落ちて夜になっていた。カインさんにアルを預ければ「お疲れ様です。」と気遣うような笑みで迎えてくれた。それに軽く頭を下げて、騎士団長とカミーユ副隊長に続きミールと団長の執務室へ向かった。
「では、もう一度初めから今回の件について母体の容体を含め説明してもらおうか。」
執務室の大きな机に座ったオッド騎士団長の横にはインブル副団長が立ち、反対隣りにはクエルト叔父がたった。厳しい顔の三人に臆することなくカミーユ副隊長が口を開く。
「私たちが駆け付けた時には、母体はすでに危険な状態でした。腹部に大きな切創があり、さらに子宮からも大量に出血していました。すぐにアヤメの魔法で、胎児を確認したところ常位胎盤早期剥離が確認され、さらに播種性血管内凝固症候群も併発していました。常位胎盤早期剥離の場合は早急な胎児の摘出が必要ですが、経膣分娩は困難の為腹部を子宮ごと切開して胎児を取り出す帝王切開を決行しました。その時点で、すでに胎児の心拍及び胎動はありませんでした。」
「帝王切開とはなんだ?そんな前例は聞いたことがないぞ。」
クエルト叔父様の言葉に一瞬言葉をつめたカミーユ副隊長に代わって私が一歩前に出る。
「帝王切開は私が考案した分娩方法です。胎児や母体に何らかの異常が起こり早急な娩出が必要になった際に有効となる手段だと考えています。今回の件では常位胎盤早期剝離によって子宮内に大量の出血があり危険な状態だった為、帝王切開による娩出が最適と考えました。自宅に帝王切開についてまとめた詳しい資料と、それを用いた分娩と周産期の妊婦についての対応をまとめたものがありますので必要であれば後日提出いたします。」
「…なぜあの現場で、今まで前例のない帝王切開をすることを判断したのだ?最悪の事態になることは考えなかったのか?」
オッド騎士団長の鋭い声が飛んだ。後ろにいたミールの肩がびくりと揺れる。
「…危険性は十分に理解していましたが、あの場で母体と胎児の命を救うためにはこの方法しかないと判断しました。…騎士団長の許可を待たずに処置に踏み切ったのは私です。アヤメもミールも私の指示に従ったまで。全ての責任は私にあり…」
「待ってください。帝王切開を提案したのは私です。カミーユ副隊長は適切な処置によって母体を救いました。帝王切開を提案しながら、胎児を救えなかったのは私の力不足です。責任は私にあります。」
もし、私に治癒魔法が使える魔力があったら…。考えても無駄な事だとはわかっていたのに、その思いはずっと心の中にとどまってる。私だから赤ん坊を…あの子を死なせてしまった…。
「もし、母親やその親族から訴えられることがあれば、私がすべて受けます。」
「…それは、自分がアールツト侯爵令嬢と理解していての意見か?」
オッド騎士団長の言葉がグサリと心に刺さった。
…そう…私には……とてつもなく重いものが乗っている。
私にはこの世界で唯一治癒魔法を使役できる「アールツト」の名がついている。アールツトの名を持つ私が「治癒魔法を使えず胎児を死なせてしまいました。」などと表立って謝罪すれば…アールツト侯爵家を有するインゼル王国の根幹を揺るがす事態になるのは分かっていた。
「…それは…。」
思わず言葉を詰まらせてしまった私をクエルト叔父様とカミーユ副隊長が悲しげに見つめていた。その視線が……私の心を暗くする。
アールツトの名を持ちながら、治癒魔法が使えない私は…そんな視線を向けるほど可哀想なの……?
重い沈黙が部屋に満ちていたその時、バンッ!とドアが勢いよく開いた。続いて大きな声が聞こえてくる。
「お待ちください!」
「勝手に入られては困ります!!」
入室を拒むように立ち塞がるテオ隊長とストーリア隊長を押しのけるようにして、黒髪の大柄な老人が乗り込んできた。その場にいた全員がその姿に驚愕の表情を浮かべる中、老人は私の前に立つとバチンっ!と大きく頬を張った。
「ッッツ!!?」
その勢いのまま体が飛んでダンッ!と執務室の壁に全身を強打する。衝撃で視界に星が飛び、耳がキーンと高鳴った。くしくもあの母親と同じところを叩かれて、再び口の中に血の味が広がる。
「この恥曝しめがっっ!!」
直後に大きな怒号が飛んだ。
ビリビリと空気を震わせた怒号と共にさらに、杖を振り上げて私を殴りつけようとした老人に咄嗟に腕で体を守ろうとした時、大きな背中が目の前に現れた。
っ!!、、なんでっ…!?
「なんだお前は!?どけっ!!」
「王国騎士団一番隊隊長テオ・ノヴェリストと申します。失礼ながら、これ以上の我が団の騎士に対する暴力は、たとえアールツト辺境伯殿と言えど見過ごすわけにはいきません。」
激昂する老人とは対照的に落ち着いた低い声と共に言い放ったテオ隊長は、私に向かって杖を振り上げる老人を鋭くをにらみつけていた。
その大きな背中を見ながら、ジワリと涙が溜まる。
…なんで……どうしていつも…こうして…私を助けてくれるの……?
「叔父上…どうぞ怒りをお沈めください。これ以上は兄上も私も黙っているわけにはいきません。」
その背中を見つめているとテオ隊長の横にクエルト叔父様が立った。その声はテオ隊長のように低く…冷え冷えと部屋に響いた。
クエルト叔父様に叔父上と呼ばれた老人は、先代アールツト侯爵家の当主…お祖父様の弟、フォンダ大叔父様だった。大叔父様はアールツト侯爵家を出た後は辺境伯として、国の医療機器や薬草の管理を任されているだけでなく、高齢だが、治癒魔法の腕も知識も一流で、未だに強い力と権力を誇っている。いつもは王都から離れた場所で暮らしているはずなのに、どうして今日はここにいるのだろうか…。叩かれた衝撃なのか頭がうまく回らない…。
「お爺さま、アヤメは何も悪くないのです。すべては私の失態です。アヤメを責めるのなら、まずは私を殴ってください。」
クエルト叔父様の逆隣りにカミーユ副隊長が立った。カミーユ副隊長はフォンダ大叔父様の孫に当たる。昔から治癒魔法使いとして優秀なカミーユ副隊長は彼のお気に入りだ。可愛がっている孫娘の登場とあってか、大叔父様はゆっくりと私を殴りつけようとしていた杖をおろした。
それを呆然と見ていると、「大丈夫か?」とインブル副団長がそばに来てそっと立たせ体を支えてくれた。インブル副団長は私の怪我を確認してオッド騎士団に視線を送る。それに、頷いたオッド騎士団長達はゆっくりと立ち上がった。
「…お前達、少し落ち着け。」
一触即発の様ににらみ合うテオ隊長と老人とクエルト叔父様にオッド騎士団長の声が落ちた。
「アールツト辺境伯殿も、お静まりください。ここは騎士棟です。申し訳ありませんが、法律によりこの敷地内では騎士団長である私の指示に従っていただきます。」
「…ふんっ。偉そうに言いおって。平民のたかが騎士団長風情が。」
「お爺様っ!」
吐き捨てた大叔父様はそのまま執務室のソファにドカッと腰を下ろした。その姿にクエルト叔父様とカミーユ副隊長が小さく息を吐く。テオ隊長は私の方を振り返ると、痛々し気に眉をよせた。
「テオ、医務室に連れて行ってくれ。派手に体をぶつけていたようだから、0番隊の誰かに見てもらった方がいい。」
「承知しました。」
インブル副団長からの指示にそっと私の背に手を置いたテオ隊長に促されて、一歩足を踏み出したところで大叔父様の声が再び聞こえた。
「魔力が無いと分かった時点で、捨ててしまえばよかったのだ。」
その言葉に思わず足が止まる。お父様と同じ紫の瞳が鋭く私をにらみつけていた。そこには憎悪すら感じられ、幼い頃に植え付けられた悲しみと怒りがジワジワと込み上げる。
…私も同じ瞳を持っていることすらも気に入らないと幼い頃に言われた記憶があった。私にはこの瞳がお父様と、アールツト一族との繋がりの一つのように思うほど大切なのに…。
「兄上もヒルルクもフェルもいったい何を考えているのか。シリュルジャンやカミーユだけおればアールツトは安泰だというのに。」
「いい加減にしてくださいっ叔父上!」
フォンダ大叔父様の言葉にクエルト叔父様が声を荒げる。しかし、大叔父様はそれすら気に入らないようで鋭く叔父様を睨みつけた。
「黙れっ!大体お前たちがこいつを甘やかすから、今回のようなことが起きたのだろうが!とっととアールツトの名を取り上げて、あの黒豹と共にイスラにでもくれてやればよかったのだ。こんな、ゴミくずっ。」
どうやら、フォンダ大叔父様は今日起きたことを知っていたようだ。どうして知っていたのかは分からないが、『ごみクズ』と言われた事がジクジクとした痛みを加速させた。
「…まだ、そんなことを…。」
「いつまででも、言い続けるぞ。このゴミくずがアールツトの名前を付けているうちはな。」
「父上も、兄上も、アヤメの事はアールツト侯爵家の令嬢として育てると決めております。叔父上もご存じのはずです。これ以上、アヤメにつらく当たるのはやめていただきたい。」
「兄上は耄碌しておったのだろう。ヒルルクは娘が可愛いだけだ。まったく、名門アールツト侯爵家の名を散々汚しておいて、何が侯爵令嬢だ。恥さらしが!だいだい、治癒魔法が使えないなど、今まで一人も一門から生まれたことがなかったんだ。そもそも、本当にこのゴミくずはアールツトの血を引いているのか?フェルにもう一度確認でも」
「やめてくださいっ!」
気が付けば、大叔父様の話を遮るように叫んでいた。
「私の事は好きなように言っていただいて結構ですが、お母様をひどく言うのはおやめください。もし、お母様の不貞をお疑いになるのであれば、私はお望みの様にアールツトの名を返上いたします。」
「アヤメッ!?」
私の言葉にクエルト叔父様が瞼を無くすほど目を見開く。しかし、私は言葉を止めなかった。
ごみクズにも許せない事はある。
「アールツトの血を引きながら、治癒魔法が使えないのは事実です。今回の件も私がカミーユ副隊長の様に治癒魔法を使えればこのような結果にはならなかったかもしれません。大叔父様のおっしゃる通り、私はゴミくずです。このままアールツトの名を持つことで、アールツト侯爵家を、お母様を汚すのであれば、私は喜んでアールツトの名を返上し、すべての責任を取ったうえで、イスラにでも行きますし、奴隷にでもなります。」
「言質はとったぞ?…生意気な奴め。昔からお前の事は、気に入らなかった!…お前なんぞ、生まれてこなければよかったのだっ!」
その言葉に、今までの出来事と様々な感情とあふれ出して体中の神経が一瞬にして沸き立った。
「…でしたら、どうぞ殺してください。」
それは…自分でも驚くほど感情のない静かな声だった。
怒りなのか哀しみなのか、もはや区別がつかない感情が身体中を駆け巡る。
ああ、だめだ。これ以上は言ってはいけない。
わかっているのに、一度開いた口からは止めることができない言葉が溢れる。
「私だって…治癒魔法が使えないのにアールツト家に生まれたくなかった…。」
「やめろっ!!」
私の言葉を否定するように直後にオッド騎士団長の怒声が飛んだ。
それにハッとして視線を上げれば、ひどく悲しげな顔をしたクエルト叔父様と涙を浮かべたカミーユ副隊長が目に入る。
…やってしまった。
私の言葉のせいで…大切な人たちを傷つけてしまった。その事実に心が締め付けられるように気がしたが、もう…どうでもいい…。
何も考えたくない……考えられない…。
ゆっくりと2人から視線を外して床に落とす。それに合わせるように力なく肩が落ちた。
そして、再びオッド騎士団の声が聞こえた。
「テオ、アヤメを医務室へ至急連れていけ。カミーユとミールはもう下がれ。この件はまた明日に話すことによう。インブル、アールツト侯爵殿に連絡を。どうやら、辺境伯殿とはアールツト侯爵殿を交えて少し話をする必要がありそうだ。」
「承知した。」
インブル副団長が執務室のドアを開けて私たちに退出を促す。ミールとカミーユ副隊長、クエルト叔父様に続いてテオ隊長に付き添われながら私も足を引き摺るようにノロノロとドアを潜った。
ほとんどの親族が魔力が少ない私を受け入れて、温かく見守ってくれたが、物心付いた時からフォンダ大叔父様は私に冷たかった。視界に入れば、酷く罵られ手を上げられることもあった。そのたびにお父様が庇ってくれて、その時はまだご存命だったおじい様が、大叔父様をなだめてくれた。そのうち、大叔父様が屋敷に来るときは使用人たちが私を連れて外出するようになって、ほとんど会うことも話す事も無くなっていった。
でも、お母様は…私が大叔父様に手ひどく扱われるたびに自分を責め続けた。そんなお母様の姿を知っているからこそ、不貞を疑われることに我慢ができなかった。私の事はなんと言われようとも、殴られようともかまわないが、心優しいお母様を…私が生まれたことでずっと自分を責め続けるあの人を蔑む言葉が許せなかった。
「産まれてきてごめんなさい。」
麻酔薬を完成させるまでにどれほど心の中でお母様に詫びただろうか。狂犬病を食い止めて、自国のみならず他国の国王陛下にまで褒章と勲章をいただき、少しはアールツト侯爵家の人間として認められたかもしれない。お母様の気持ちも少しは晴れるかもしれない。そんなふうに思い上がっていた自分が酷く惨めで馬鹿らしかった。
結局、治癒魔法が使えない時点でアールツト一族とは認められないし、今日の様に救えない命があるのだ。初めてメスを握った日に置いてきたはずの思いが再びグズリと呼び起こされる。
考えたくないのに……こんな風に…自分の闇を見たくはないのに…
前だけ向いて走ってきたはずの足が急に重くなって、そのままズブズブトと底の見えない沼にはまっていくようだった。
「アヤメ…?」
低い声で呼ばれてハッと思考を戻す。気が付けばいつの間にか医務室の椅子に座っていて、目の前にはセブンさんが座っていた。
「大丈夫か?」
横に立ったテオ隊長が心配そうに覗き込んでくる。
「あ、はい。すいません、ぼうっとしていたみたいです。」
「…そうか。無理はするな。」
「はい。」
そのまま、横に控えてくれたテオ隊長に少し緊張しながら、セブンさんの診察を受ける。壁にぶつけた頭と左半身。激昂した母親に殴られてから大叔父様に殴られた頬。そして、先ほどからジクジクと痛む耳。セブンさんは顔がほとんど髪の毛で隠れているのにもかかわらず、迷うことなく適切な処置と診察を行っていた。普段の解剖マニアの姿からは想像できないほどにその姿は、立派な医療従事者だった。
「壁にぶつかったと聞いたけど、側頭部に皮下出血があるよ。それと首から下は数か所に打撲。お前、今日はもう帰って休んだ方がいい。殴られた頬は冷やしておけば腫れは収まるけど、口の中の傷と口角の傷はひどくなる可能性があるね。耳は外傷性鼓膜穿孔かな。鼓膜の破れた部分からの出血も確認できるし、孔がふさがるまでこっちの耳は難聴と痛みがあるとおもうから10日くらいは安静にしていた方がいいよ。まぁ、アールツト侯爵様に治してもらうのもありだけどね。」
セブンさんはそう言って治療記録にさらさらと記入していく。
「クエルト隊長と騎士団長には診断書を添えて報告をしておくから、もう帰った方がいい。…酷い顔してるよ。」
「…はい。ありがとうございました。」
「エイトール。騎士団長はしばらく来客の対応中だろうから、診断書と診察結果はクエルト隊長に提出しておけばいい。」
「承知しました。…テオ隊長のその掌、診ましょうか?」
「いや、私はいい。大したケガではない。」
「え?テオ隊長もケガを?」
全然気が付かなった。セブンさんが指摘した掌をのぞこうとすれば、テオ隊長はサッとマントで隠してしまった。
「気にするな。大したケガではない。それよりも、アヤメはアルに乗って帰れそうか?もうだいぶ夜も遅い。鳥目のアルゲンタビウスでは夜間飛行は危険だろう?」
「アヤメの体のことを考えれば、アールツト侯爵家に遣いを出して、寝台馬車を手配して持った方がいいですね。」
「え?いや、そんな大げさですよ。アルを引いて歩いて帰ることもできますし。」
テオ隊長とセブンさんの会話に慌てて口を挟めば、二人は信じられないというような顔で私を見た。…え?何か変なこと言った?
「君は…何を言っているんだ?こんな夜に女性一人で歩かせるなど、できるはずがないだろう。しかも怪我をしているんだぞ。」
「それは…。」
「エイトール、すぐさまアールツト家に連絡をして、寝台馬車で迎えに来るように伝えてくれ。アルは今日は騎士棟で預かろう。」
「はっ。」
私の言葉を無視したテオ隊長の指示に、セブンさんは診断書をもって速やかに部屋を出て行った。
「馬車が来るまで少し横になるか?気分は?」
テオ隊長は、セブンさんが出て行ったあと細やかに気を配ってくれた。常に無表情で感情の起伏が少ないと言われているテオ隊長だが、こうして2人でいる時はいつも沢山の表情を見せてくれる。
「テオ隊長。」
「なんだ?」
「先ほどは、庇っていただいてありがとうございました。」
大叔父様の前に出てくれた時の礼を伝えれば、テオ隊長はグッと息をつめたように一瞬だけ動きを止めた。先程だけではない。不審船でも、その前の馬車の中でも、さらにその前も。その全てに感謝して再び「ありがとうございました。」と伝えればテオ隊長は、ゆっくりと椅子に座る私の前に膝をついた。
ふわりと目の前に藍色の髪が揺れた。そのまま射貫くように向けられた漆黒の瞳と目が合い、緊張と羞恥で思わず背中が仰け反る。
急に激しくなった鼓動が、鼓膜の破れた耳に痛い…。
「…すまない。」
「え…?」
突然の謝罪に思わず聞き返せばテオ隊長の眉がぎゅっと寄った。
「次も守ると約束したのに…また守れなかった。」
「…それはっ…!」
「私は昔から、体ばかり大きくていつも肝心なところではうまく立ち回れない。」
「…そんなこと…。」
「…すまない。」
ゆっくりと大きな手が私の腫れた頬に伸びて、触れる直前で止まった。触れられなくても微かに感じるテオ隊長の体温に、ぶるりと体が震える。まるで魔法がかけられたように体が動かなかった。
私に向けられた漆黒の瞳から目が離せない…。
「アヤメが受けた痛みも傷も全て癒し、治してやりたいと思うが、私は治癒魔法は使えないし、侯爵家や辺境伯と対等に渡り合う力も爵位もない。」
「…テオ隊長…っ。」
テオ隊長の言葉が私の中にゆっくりと落ちてくる。
それは、とても温かくて…とても優しい…。
「それでも…君を守り、支えていきたいと…強く思うのだ。」
沢山の事があって…抉られて、しぼんで、粉々に砕けた心にそっとテオ隊長の温かな手が触れた気がした。
こんなことを言われるのも、こんなふうに感じるのも初めてだった。…その思いに応えるように涙が溢れ出る……。
「…どんな困難にも立ち向かい、何度傷ついても立ち上がり、小さな命にも手を伸ばすその強さと優しさを…私にも守らせてほしい。」
そっと長い指が頬を伝う涙をぬぐった。その指先が微かに震えていてる。その直後、「いや……守るだけでは足りないな。」そう呟いて穏やかに笑ったテオ隊長の姿にギュっと胸が締め付けられた。
「できる事なら…君を支えたい。」
あぁ、もう、涙で視界がぼやけてテオ隊長の顔がよく見えない。
それでも、低い声は静かに続く。
「…私には、医学や薬学の知識はないし、君の医療補助者の様に役に立つことはできないが、強い風が向いた時には風よけに、冷たい雨が降った時は雨除けになる。こうして涙をぬぐうこともできるから、アヤメのそばに居させてほしい。」
そして、涙を拭っていた手がゆっくりとわたしの手に重なった。
「自分の存在がちっぽけで、消えたいと思うような時は……どうしようも無いくらいの不安と恐怖と…寂しさに襲われた時は、どうか私を頼ってはくれないか?」
重ねられた手のぬくもりと包み込んでくれる大きな存在が守られているような安心をくれる。
なんで……?
どうして彼からの言葉はこんなにも心にしみて、温めてくれるの……?
「アヤメがこの世に生を受けて、生きていてくれることがこんなにも嬉しいと思う人間がここにいることを忘れないでくれ。」
そう言って、笑ったテオ隊長の顔は今まで見た何よりも…優しくて…穏やかで……強かった……。
気がつけば、テオ隊長の肩にそっと頭を預けていた。
いつも助けてくれる、守ってくれる、強くて、大きくて…真っ直ぐなテオ隊長からの言葉が…
想いが…
温もりが…
優しさが…
空っぽになった心を満たして…溢れるほどに注がれる…。
彼の制服が濡れてしまうのも気にする余裕がないほどに、幾筋もの涙が頬を伝い肩を濡らしていく。
上官であり、異性である彼にこんな事をするのは、騎士として淑女として恥ずべきことかもしれない。
許されないことかもしれない。
でも…
でも、今は……
押しつぶされそうな心を癒し、温もりと優しさを与えてくれる存在に寄りかかりたかった。
…生まれてきてよかったんだと、家族以外で初めて肯定してくれたこの人にすがりたかった…。
誤字脱字報告ありがとうございます。お手数おかけします。
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