73.侯爵令嬢と不審船4
★この物語はフィクションです。登場する、医療行為、病名その他全ては作者の想像であり、実在するものとは異なりますのでご注意下さい。
「その処置は緊急を要するものか?」
「はい!」
ドア越しに聞こえた騎士団長の声にカミーユ副隊長が間髪容れずに答えた。
それを聞きながらミールと共に帝王切開の用意をする。医療バックから必要な医療器具を取り出し、部屋にあったローテーブルの上に妊婦を移動した。既に、妊婦は意識は朦朧としており、心音は確認できるが一刻の猶予すらなかった。再び胎児を魔法で確認するが、心臓の動きをはっきりと確認することはできなかった。
…時間がない…!
ドアに向かっているカミーユ副隊長に視線だけでそれを伝えれば、その瞳が微かに震えた。
「この船の国籍は不明。乗組員たちは敵国のものかもしれん。それでも、その…」
「それでもやります!」
騎士団長の声にカミーユ副隊長の大声が重なった。
「例え敵国の人間であろうと奴隷であろうと、この世に救わなくていい命などないと思っています。もはや、一刻の猶予もありません。…罰はのちほど私が受けますので帝王切開を始めます!!」
言い切ったカミーユ副隊長は処置用のエプロンを付けて私たちに向き直る。…ドアの向こうからは何も声が返ってこなかった。
「カミーユ副隊長…。」
ミールが声をかけるが、カミーユ副隊長は静かに首を横に振った。
「今は、目の前の命を救うことを考えよう。…アヤメ、指示を頼む!」
有無を言わさぬ、覇気を纏ったカミーユ副隊長に私たちは何も言えなかった。……今は目の前の二つの命を救わないといけない。ほかのことは今考えることじゃない。そう言い聞かせるように思考を切り替えて、麻酔薬の瓶を手に持ちミールに指示を出す。
「麻酔薬を気化して、母体に全身麻酔をかけます。ミールの炎魔法をお願い。本来は脊椎麻酔による局所麻酔ですが、血栓ができやすくなっている今、脊椎麻酔によってできた血栓が神経を傷付けてしまう危険性あるので、万が一のことを考えて全身麻酔に切り替えました。麻酔の量は胎児に影響の出ないように最小に抑えるので15分程度で切れるように調整しています。」
私の話を聞きながらミールが気化した麻酔薬を、マスクとホースを使って妊婦に吸わせていく。ミールはポイズと違い麻酔の扱いに慣れていない為、麻酔の深さと効きを慎重に確認しなければならない。
「ミール、麻酔が効いている間は呼吸と血圧と心拍数に注意して。それから、輸血をお願い。」
「わかった!」
私の指示通りに動き出したミールを見て今度はドアのに向かって声を張る。
「1番隊の騎士の方にお願いします!焼き石を作って大きめの桶に入れ、その上に清潔な布を厚く重ねたものを用意してください!今から15分以内に胎児を娩出します!」
騎士団長の許可を得ないまま開始してしまった帝王切開だったので、他の騎士が協力してくれるかは不明だった。一抹の不安がよぎった時、「承知した!」と私の声にテオ隊長の大きな声が返ってきて…その声に少しだけ安心した。テオ隊長の大声には驚いたが、いつも私を助けてくれる彼の存在が頼もく、嬉しかった。
「焼き石などなににつかうんだ?」
「娩出した胎児は低体温になっている可能性があります。新生児のうちは体温調節機能がうまく働きません。そのため、できるだけ温かい環境を用意したいと考えました。」
本来ならば保育器が必要だ。でも、この世界にはそれが無い。付け焼き刃のその場凌ぎになるかもしれないが、胎児を救える可能性があるものはすべて用意しておきたかった。
「麻酔完了しました。血小板及び血液の輸血を開始します。」
ミールの声を合図に妊婦を挟むようにカミーユ副隊長と向き合った。既に腹部の衣類は取り除かれ、開腹部分は十分に消毒されている。
「では、臍のした10センチ付近を横開腹します。胎児摘出後、私は胎児の方につきっきりになりますので、カミーユ副隊長には胎盤や臍の緒の処置と母体への治癒魔法及び閉腹をお願いします。母体が安定し次第胎児へも治癒魔法をお願いします。」
「わかった。任せろ!」
治癒魔法は普通の魔力よりも多くの魔力を消費する。魔力が術者の命と繋がっている以上、魔力の使いすぎには十分な注意が必要だ。そのことを考えると母体に治癒魔法を施してから胎児にも魔法を使うことに抵抗を覚えたが今はカミーユ副隊長を信じるしかない。
カミーユ副隊長の力強い声にうなずいて、メスを握る手に力を入れた。
前世で帝王切開に執刀したのは一度きり。産婦人科は日本の病院にいる間は殆ど無縁の場所だった。たまに緊急の分娩での手伝いもしたが、それも殆ど助手のようなことしかしてこなかった。はるか昔の記憶を辿るように、これからの手順を頭の中で繰り返す。
今は自分の腕を信じるしか無い。
「始めます!!」
私のメスは迷いなく腹部を横一文字に切り開いた。
……
……………
カチャッ…カチャッ…
明かりとりの窓がある静かな空間に金属音だけが響いていた。開腹してから順調に手術は進んでいた。
「子宮切開しました。胎児を取り出します!」
切りひらいた腹部へ手を入れれば柔らかく丸いものが指先に当たった。それを慎重にゆっくり引っ張り出す。吸引器が無い現状では自分の手の感覚と力加減が全てだ。
「母体の心拍、体温低下!輸血を増やします!」
金属音だけが響いていた部屋にミールの声が響く。まだ、胎児の頭しか取り出せていないのに!
「これ以上は母体が持たないぞ!アヤメまだかっ!!」
「臍の緒が胎児に絡んでいます!まだです!!」
拍車をかけるようにカミーユ副隊長の声が上がるが、胎児の肩と脇に臍の緒が絡まり、無理やり引っ張ることができない。もし、引っ張った瞬間に胎盤が剥がれ、その時に大きな血管でも傷つけていたらそれこそ母体への致命傷になりかねない。
ブワリと額に汗が湧いた。精神をガリガリと削られるような焦りの中、それでも慎重に臍の緒を外していく。
「血圧低下!輸血もっと持ってきて!」
再びミールの声が上がり、ドアの隙間から輸血液などが入ったカゴが差し出された。
「アヤメ!これ以上は無理だっ!!」
「もう少しです!」
カミーユ副隊長の怒声が飛ぶが私も負けじと大声で怒鳴り返した。
その間にも母体からの出血は止まることなく、サラサラと流れ落ちていく。
落ち着け。大丈夫。何度も頭の中で繰り返して、手を動かす。
広がる血の海を見ながら、焦りに支配されそうになるがなんとか堪えていた。
ここで、焦れば必ずミスが起きる。
大丈夫…間に合う!
自分に言い聞かせるように念じながら、やっと胎児の体全てを取り出した。
「胎児摘出完了しました!」
詰めていた息を吐き出すよういえば、私の声が終わらないうちに、カミーユ副隊長が切り開いた腹部に手を伸ばした。そのまま流れるような手つきと速さで、あっという間に胎児につながる胎盤と臍の緒を処置を完了してしまった。
…早い…!!これほどまで素早く、そして丁寧に処置をする外科医は前世でも数人しか会ったことがない…。
「胎盤及び臍の緒の処置完了!これより治癒魔法を開始する!」
器具を置いたカミーユ副隊長はすぐに手をかざし治癒魔法を開始した。直後にカミーユ副隊長の手から淡い光が発せられて、傷が見る見る治りはじめていく…。
すごい…これが…治癒魔法…。
それを横目に見ながら、急いで先ほど用意してもらった焼き石で作った保育器もどきに赤ちゃんを乗せようとした時…
ある違和感に気がついた…。
あれ……?
赤ちゃんが……
……泣いていない……!?