72.侯爵令嬢と不審船3
★この物語はフィクションです。登場する医療技術、病名、及びその他全ては作者の想像であり、現実するものとは異なりますのでご注意下さい。
★妊婦、分娩等に関する表記、及び臓器、生殖器の表記があります。苦手な方はご注意下さい。
妊婦は私たちの顔を見て安心したのか、そのままふらりと床に崩れ落ちた。体をぶつける寸前でカミーユ副隊長が抱き止める。
「男共は皆外へ出ろ!!ありったけの清潔な布と大量の湯をもってこい!!」
カミーユ副隊長の大声がドアの前に立っていた騎士達に飛ぶ。それと同時に怯えたような返事が返りドアが静かにしまった。
「母体の診察をします。」
「胎児の状態を確認します。」
ミールが妊婦の体の診察を始めるのと同時に、私は大きなお腹に手を添えた。妊婦の診察の時は胎児の状態を確認するため、超音波を使用することが多い。しかし、それがないこの世界では私の魔法がエコーの代わりだ。お腹に添えた私の手から淡い光が放たれ、次第にレントゲン写真のようにお腹の中が透視できるようになる。
子宮の中の胎児は十分な大きさまで成長しているようで、頭部や四肢もしっかりと形作られている。小さな心臓の鼓動は弱いようで、母体の状態と出血量を考えればあまり時間の猶予はなさそうだ。
「…胎児は正常位です。腹部の外傷は浅かったようで胎盤内までに到達は…。」
カミーユ副隊長に報告しながら手を動かし、細部を確認していく。その時、目に飛び込んだ光景に思わず言葉を失った。
「どうした?」
母体を支えながら、私とミールの報告を聞いていたカミーユ副隊長から声がかかる。
……が、すぐに答えることができなかった…。
そこは、胎児を守るように包む胎盤とピッタリと隙間なく接着している子宮の一部が無惨にも剥がれ……大量の血液が溜まっていた。
……まずい……!
「…常位胎盤早期剥離です!…胎盤が剥がれ子宮との間に血栓ができているのを確認しました!」
『常位胎盤早期剥離』は子宮に癒着している胎盤が胎児の娩出以前に子宮壁より剥離する症状のことだ。母体から大量の出血があることからショック状態や止血異常に陥り危険な状態になる可能性が高い。また、この場合胎児への影響は深刻であり、母体から胎児への酸素供給が遮断されてしまうため胎児の状態が急激に悪化し、最悪の場合は重度の脳性麻痺や死亡の可能性もある。
症状が中軽度の場合は適切な処置と安静によって回復することもあるが…床に広がった血の量、そして、透視で見た胎児の心拍の弱さから判断してこの妊婦は明らかに重度だった。
また、常位胎盤早期剥離の場合はできる限り速やかに帝王切開にて娩出を行う必要があったが…この世界には帝王切開という知識が存在していない。
絶望という名の恐怖の足音が遠くから聞こえてくる気がした。
「カミーユ副隊長。今は一刻も早い胎児の娩出が必要です。」
「わかっているが、この状態の母体では経腟分娩は難しいだろう。」
「確かに、普通の分娩は不可能ですが、帝王切開という技術を使えば胎児を娩出することができます。」
「帝王切開?!なんだそれは?」
「開腹による胎児の摘出です。」
「なっ!?」
この世界の出産は自然分娩によるものがほとんどだった。
産婆が出産には立ち合うことが一般的で医師が立ち合ったりその後の処置をするような習慣はない。そのため前世のように、分娩時に異常が起きてもすぐに対応できるわけもなく、今も出産は女性にとっては命懸けで新生児や胎児の死亡率も少なくはなかった。
でもここに、前世の産婦人科のように妊婦健診から分娩前の健康指導や分娩時に立ち会う医師がいれば話は大きく変わってくる。
きっと、母子ともに死亡率は下がるはずだ。それに、帝王切開が広まれば例え経腟分娩は無理と診断されても、諦める事なく自分の子供を産むことができる。
いつかお父様とお母様に提案しようとレポートをまとめておいたが、こんなことをならもっと早く帝王切開を知らせておくべきだった……!
悔しさに思わず唇を噛む。
しかし、今はそんなことを気にしていられない。
刻一刻と目の前の2人の命のリミットは近づいてきているのだからっ!!
「腹部の切創を避け、下腹部を胎盤ごと横開腹して胎児を取り出します。その後は胎盤を取り出して閉腹します。」
「そんなことが本当にできるのか?」
「できるかできないのかでなく、やらなければいけないんです。今目の前にある2つの命が消えかけています!このまま何もしないで見ているなんてできません!」
しばらく、考え込んでいたカミーユ副隊長は腕の中の妊婦を見た。そして、射るような鋭い視線で私に問う。
「…もし、仮にその帝王切開をして胎児を取り出したとして母子ともに助かる可能性は…?」
あまりに強い視線に一瞬でもたじろぎながらも、カミーユ副隊長に応えようとした時
「出血が止まりません!」
ミールが声を上げた。
ミールの方を見れば、止血しても止血してもサラサラと母体から血液が流れ出てきている。
…これはっ…!!
「?!…くそっ、播種性血管内凝固症候群かもしれない。急ぎ、輸血と血小板の用意をしろ。ドアの前の0番隊の騎士に命令する!至急近くの治療院かアールツト侯爵家へ救援と輸血液の応援要請を出せ!」
「はっ!」
ドアの向こうでドタバタと遠くなる足を音聞きながら、うるさくなる鼓動を感じた。…まずい…状況はかなり深刻だ…。
『播種性血管内凝固症候群』は血管内に血栓ができやすくなる病気だ。大量に血栓が作られてしまうため血液中の血小板が減少してしまい、皮膚、脳、肺などから簡単に出血してしまう。また、出血した血液はサラサラのため止血はできない。もう母体は軽いショック状態にあるのかもしれない。このまま放っておけば出血性ショックによる多臓器不全で命を失ってしまう。
常位胎盤早期剥離に加えての播種性血管内凝固症候群…。広がっていく血の海を見ながら一瞬思考が闇にのまれる。
先ほどは足音だけだった絶望という恐怖が首筋を撫でた気がした。
……
…でも…
私は…医者だ…。
救える可能性があるのに手を伸ばさないなんて…
できない…!!
「血液だっ!」
騎士の声と共にドアの少し空いた隙間から、先ほど私が騎士に伝えて用意してもらったアルに積んでいた輸血用血液等が部屋に押し込まれた。
「カミーユ!状況を説明しろ!!」
それとほぼ同時にドアの向こうから騎士団長の声が飛ぶ。その声に応えようとしたカミーユ副隊長を遮るように私は、声を潜め先ほどの問いに答えた。
この状態の妊婦と心音が弱っている胎児。2人の助かる確率は……決して高くない。それでも、2人とも助けたいと…助けてみせると心が強く訴えてくる。
「…母子共に助かる可能性は多く見積もって40パーセント前後です。」
ここで一度言葉を切って、カミーユ副隊長と妊婦を交互に見る。カミーユ副隊長は大きく目を見開いて、私の言葉を待っていた。
「ですが…治癒魔法を併用すれば70パーセント以上になるでしょう。」
私では40パーセント前後でも、治癒魔法が使えれば可能性は跳ね上がる。前世では力不足で諦めたことも、治癒魔法があるこの世界では可能になる。
…例え…
私が治癒魔法を使えなくても…
この場には…
世界で唯一治癒魔法を使役できる一族…
私と同じアールツトの名を持つ治癒魔法使いがいるのだから…!
「…っ!!!」
私の答えに、カミーユ・アールツト副隊長が息を詰めた。そしてクシャリと悲しげに顔を歪めた後、すぐに騎士団長の声がしたドアに向かって叫ぶ。
「妊婦は常位胎盤早期剥離を起こしており母子ともに危険な状態です。また母体は播種性血管内凝固症候群を併発しており、多量出血のため軽いショック状態にあります。只今より、輸血を行いながらこの場で緊急帝王切開…開腹手術によって胎児を取り出したく思いますので許可を願います!また、この妊婦の配偶者か家族の乗船確認も願います!」
カミーユ副隊長は私の方へ顔を向けると、力強い笑みを見せた。
「その可能性に賭けよう。」
そして、血に濡れた手をぐっと私の前で握って見せた。
「私たちは負けん!」
その瞬間、強い風が吹き抜けた気がした。その風は、先ほどまでの不安や恐怖を全て吹き飛ばして新たな力と希望を運んでくる。
その力強い拳と自信に満ちた姿に私とミールは大きくうなずいた。
そして、同じように拳を作る。
もう
絶望も恐怖も感じることはなかった。