71.侯爵令嬢と不審船2
★この物語場フィクションです。登場する、医療行為、病名、その他全ては作者の想像であり実在する物とは一切の関係はありませんので、ご注意ください。
「『死神の祝福』?」
「俺の爺ちゃんが漁師で、昔聞いた事があるんだ。…海に出る屈強な男たちが唯一恐れる、海の死神からの祝福。そいつは、ある日突然やってきて1人、また1人と祝福を与えていく。祝福をもらった船乗りは身体中の力を奪われ、死神につかまれた血の跡が身体中に浮かび上がり、そのうち口や皮膚から勝手に血が溢れ出て死んじまうんだ。これは、海に住む死神の仕業なんだよ。」
「馬鹿野郎!海に住む死神なんているわけねーだろ!?」
「じゃぁ、お前はこの状況をどう説明するんだよ?じいちゃんは昔から遠くの海に漁に出るときはいつも海神様に祈ってた。だから、無事だったんだ。ここにいたら、俺たちにも死神が来るかもしれない!」
最後には怯えたように震え出した騎士に、一緒にいたもう1人の騎士が呆れたように頭を抱えた。ミールは死神の祝福を信じているのか、顔には明らかに先ほどよりも恐怖の色が濃く浮かんでいる。
死神の祝福…。
確かに、騎士が聞いていたその症状と目の前の乗組員たちには類似している点があるかも知れない。
でも…まずは、調べてみないと始まらない。
「死神の祝福はともかく、まずは病人の状態を見ます。灯りをお願いします。あと、換気ができるような物がないか調べてください。ミール!」
「う、うん!わかった。」
固まっていたミールは私の声に弾かれたように顔を上げた。そのまま、2人で手分けしてトリアージを開始する。血の匂い混ざって腐敗臭もすることから、ここにいる全員は生きていないかもしれない。大勢の負傷者がいる場合は迅速なトリアージと正確な判断が必要だ。
「聞こえますか?」
近くにいた乗組員に声をかければうめき声が返ってきた。その乗組員は、歯茎から出血に加えて口腔内の粘膜からも出血が見られる。体には至る所に大きな痣があり、そこからも血が滲み出ていた。他の部位も衣類を捲り上げて確認する。
あれ?…血液がついていない皮膚は異様に乾燥している…?
何人かトリアージをしてミールとも症状を確認すると、息があるほとんどの乗組員は皆同じ症状のようだった。
これは…もしかして…。
乗組員達の状態からある病名が浮かんできて考え込めば、ミールが覗き込んできた。
「アヤメ?どうしたの?」
「ミール、これはもしかしたら死神の祝福じゃないかもしれない。」
「え?」
「なんだと?!」
私の発言にミールだけではなく近くにいた騎士たちも声を上げた。
「まだ、推測にしか過ぎないけど…私の考えが正しければ息のある乗組員たちは助けられるかもしれない!」
「本当に!?」
驚くミールに頷いてすぐに騎士に指示を出した。…私が考えついた病気だと裏付ける証拠が必要だ。
「この船の食糧を調べてください。」
「食糧!?まさか、毒か?」
「いいえ、調べてもらいたいのはその食糧の中に、野菜と果物が含まれていたかどうかです。」
「はあ?野菜?」
「そうです!」
半信半疑の騎士達を半ば強引に説き伏せて、追い立てるように部屋から出し、私もカミーユ副隊長へ報告に向った。
「壊血病?」
私の考えを聞いたカミーユ副隊長が首を傾げる。そこには連絡を受けた騎士団長、テオ隊長、ストーリア隊長揃っていた。
「はい。船乗りたちの間では死神の祝福と言って昔からこの症状の病気が知られていたようですが、私の考えが正しければこれは壊血病と呼ばれるビタミンC欠乏によって引き起こされる症状だと思います。」
「ビタミンC欠乏……!そうかっ!」
少し考えた私の言葉の意味がわかったようですぐに手を叩き声を上げた。それとは対照的に騎士団長達は厳しい表情のままだ。ちょうどそこへ、先ほど依頼をした騎士が帰ってきた。
「報告します!船内の食糧を調べましたが、残っていたのは干し肉、塩、ラム酒、鼠とウジが湧いたビスケットのみでした。」
「やっぱり!」
「やはり!」
騎士からの報告を聞いて、私とカミーユ副隊長の声が重なった。
やっぱり。
これで壊血病だということが裏付けされた。
「どういうことか、説明してくれ。」
それを見ていた騎士団長が鋭い視線で私たちに尋ねる。カミーユ副隊長が説明するかと思ったが、なぜか私に譲られてしまい、隊長たちと騎士達の視線を浴びながら緊張を悟られないように気をつけながら口を開いた。
「私たちの体内にはさまざまな栄養素が蓄えられています。ビタミンCもその一つで体を健康に保つための大切な栄養素です。日常生活では意識せずとも食事を通してビタミンCを摂取できますが、長期にわたる航海ではそれが難しくなります。」
「それはなぜだ?」
「ビタミンCを多く含む野菜や果物は長期間保存ができないからです。」
前世で船医として民間の軍艦に乗っていた時、壊血病は身近な病気だった。
古くから船乗り達を苦しめてきた病気だが、原因がビタミンC不足だと判明してからはその発症数は激減ている。歴史上の冒険家達の中にはライムジュースやキャベツの千切りの漬物などを船に持ち込み、壊血病を出さずに長期に渡る航海を終えた者もいるほどだった
前世では保存食もバリエーションが豊富で栄養バランスの良い物を手軽に摂取できる環境だったが、それでも意識してビタミンCを摂取するように心がけ、よくピクルスや漬物などを船員に配っていたことを覚えている。たしか、屋敷の図書室にも同じ病気が記載されている本があった筈だ。
「壊血病は皮膚の乾燥、脱力感、うつ状態にはじまり、そのあと、大きなあざが出るようになり点状の出血が現れます。さらに症状が進むと、歯ぐき、消化管、粘膜から出血します。壊血病は体内のビタミンC量が一定量以下になると発症するといわれていて、ビタミンCを含まない食事を続け、血液中のビタミンC濃度が下がるとビタミンC欠乏状態となり壊血病を発症する可能性が高くなります。船内の食糧を調べてもらった結果から見て、この船の乗組員達は皆ほとんど野菜や果物を摂取していませんでした。その結果、ビタミンC欠乏状態となり壊血病を発症したのだと考えます。」
「…治療法はあるのか?」
「はい。ビタミンCを多く含む食品を1日に3回、1週間から2週間経口摂取し、その後は栄養価の高い食事を続けていけば回復すると思います。体内のビタミンCの量が一定まで戻れば1、2週間で現在の症状は改善するかと…。」
「それだけでいいのか?!」
ストーリア隊長が驚きの声を上げた。
ストーリア隊長の反応は理解できる。これだけ深刻な症状を出していながら、ビタミンCを摂取するだけで治ってしまうというのだから。周りを見れば、ストーリア隊長以外の騎士達や騎士団長も驚きの表情を浮かべていた。
「では、すぐに治療場所の確保と治療の為の医師、医療補助者の手配をしろ。ビタミンC多く含む食品と言ったが具体的には何を摂取すればいい?」
「アス…いえ、レモンやライム、オレンジなどの果汁でいいかと思います。」
つい、昔の癖でアスコルビン酸と言いそうになった。アスコルビン酸はビタミンCとして働く有機化合物だが、この世界には存在しないものだった。
危ない、危ない…。
「そうか。ではそれらも手配させよう。他に治療が必要な…」
「申し上げます!船室の隠し部屋より女性が一名発見されました!女性は妊娠していると思われますが出血しており意識がはっきりしていません!」
騎士団長の言葉を遮るように走り込んできた騎士が声を上げだ。
その言葉を聞いた瞬間、弾かれたように私とカミーユ副隊長、ミールはその場から駆け出した。
考えるよりも先に体が動いていた。
「場所は!?」カミーユ副隊長の声が飛ぶ。
壊血病が蔓延する中での意識不明瞭の出血している妊婦!?
あらゆる可能性とその対処法を頭の中で考えながら必死に足を動かした。
「誰か!アルから輸血用の血液と輸液、血小板を持ってきてください!!」
「わかった!」
誰に宛てたわけでもない叫びに騎士から返事が上がる。アルには予備用の医療品や機器の他に、あらゆる場面に対処できるよう様々な物を積んでいる。私1人では持ち運べる医療品が限られらため、こう言った緊急事態にはとても重宝する。
「この部屋です!!」
到着した部屋のドアを蹴破るように入室したカミーユ副隊長の後にミールも私も雪崩込んだ。
……っ!!
その瞬間、飛び込んできた光景に息をつめる。
丸い小さな窓が並んだ狭い船室の中、長髪を乱した女性が大きなお腹に傷を負って血溜まりの中にしゃがみ込んでいた。
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