41.侯爵令嬢とイスラ王国-8
誰もが眠りについた深夜。
俺はアヤメの部屋を訪れていた。
あの時と同じ甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
アヤメの部屋はインゼル王国の騎士団が警護するので、俺の部隊はすでに下がらせていたがアヤメの顔を見るまではとてもじゃないが眠りにつくことはできなかった。
月明かりに照らされた寝台で、アヤメは静かに眠っていた。だが、その額には玉のような汗が浮かび、表情は痛みのせいか苦しそうに歪んでいる。
「アヤメ…。」
そっと呼びかけるが返事はない。包帯で巻かれている再生されたばかりの右腕がやけに痛々しく感じられた。
自分の時もそうだった…。
奇病に侵され、両腕を切断し再生したときは長い間痛みと熱に苦しんだ。その時と同じ思いをアヤメが今感じていると思うと胸が苦しくなる。
「あの時は、お前が痛みを治してくれたんだったな…。」
まだ幼かったアヤメが俺の手に触れて初めて治癒魔法を使ってくれた。そのことにどれほど救われただろうか。永遠とも思える時間苛まれた痛みと熱がなくなった時、どれほど俺が安堵し喜んだか…。それを知っているからこそ今、目の前で苦しむアヤメに何もできない自分に腹が立った。
「…お前はいつも他の人の為に頑張ってきたな。…そんなお前に俺は何をしてやれるだろうか?」
涙でぬれたアヤメを見た時、この娘を守ってやろうと改めて思った。小さな体にたくさんの事を背負いこんで、いつも誰かのために走り続けてきたアヤメを守り、できる事ならその荷物を半分背負ってやりたいとさえ思った。しかし…俺には何もできなかった。
アヤメが危機に陥った時も気づくことができず、テオ隊長にもたれ支えられるようにしているのを見た時、チリチリと胸が焦げるように痛んだ。腕を失くしたその姿よりも、当たり前のようにアヤメを支えるテオ隊長に。そして、彼にすがるようにしているアヤメの姿に…。
そんな自分の事が憎らしかった。一番に考えるのはアヤメの容体なのに、どうしようもなくテオ隊長と触れ合う姿が気になって…苛立った。
ふわり…とアヤメの甘い匂いがする度に胸が焦がれる。俺以外の雄がその体に触れることに無性に腹が立つ。獣の本能のままに激情にかられそうになる自分がいやらしく、恥ずかしく、憎らしかった。
アヤメは今こんなにも苦しんでいるというのに…。
「…すまない…。」
ぽつりと落とされた言葉は誰に聞かれるでもなく薄暗い部屋に消えていく。
そっと、尻尾で包帯の巻かれている腕に触れる。自分の獣の手では傷つけてしまいそうで…。
「アヤメ…。」
どうか早く良くなってくれ。
歯がゆさと、虚しさと、自分の愚かさ。その全てを一身で感じながら俺はただ祈ることしかできない。それでも、アヤメのそばにいたかった。
…独りで泣くには月が明るすぎたから…。
そのまま、月が雲に隠れるまで、俺はアヤメのそばを離れられなかった。
深夜過ぎ、アヤメ嬢の部屋に入るユザキ殿の背中を見送った。
2人は幼い頃から親密な関係だったというし、ユザキ殿なら信用できる。警備の騎士たちに念のため声をかけて俺はアヤメ嬢の部屋に背を向けた。
そのまま庭に出ると、大きな月があたりを白く照らしていた。一見すると誰もいないように感じるが、気を探れば二人隠れて俺の事を探っているのがわかる。
当たり前だ、同盟国とはいえ自国以外の騎士がこんな夜中に庭に出てこればだれでも警戒する。そこまで知っていて、周りを気にしてしまうのは、先ほどから堪えていた熱いものが瞼から零れ落ちそうだったからだ。
守れなった。
守り切らなければならなった。
先ほどからその思いばかりが頭をめぐる。
コウカ王との話し合いの席でも、騎士団長の前にたった時も、ずっと心のどこかで自分が責め続けてくる。
あの時、アヤメ嬢に攻撃魔法が向けられた時、考えるよりも早く体が行動していた。不自然な体勢でアヤメ嬢の体を抱き寄せることもできず、半ば強引に腕を引き寄せたが…間に合わなかった。爆散する細い腕。その血肉が自分の顔や制服にかかった時、心臓が一瞬止まりかけた。血の匂いと、アヤメ嬢のうめき声が耳にこびりついて離れない。
守れなかった。守り切れなかった。
俺は騎士なのに…。彼女を守るためだけにここにいるはずなのに…。
それでも、彼女は強かった。
他の者の為にクエルト殿を呼ぶことを拒否し、自分で腕を止血し、再び感染者の為に立ち上がった。真っ青な顔で額に汗を浮かべ、時折痛みに顔を歪ませながら。それでも、彼女は走り続けた。その姿は、俺が知るどんな令嬢よりも強く、しなやかで、美しかった。
ゾワリと全身の細胞が波打った。
アヤメ嬢の背中に貼りつきながら、周囲に魔力を巡らせる。異常な魔力や先ほどの攻撃魔法の気配はない。まだ襲撃犯がいるかもしれないと思うとアヤメ嬢には一刻も早くこの場を去って安全な場所で腕を治療してほしいと強く思うが彼女の献身的な姿とその横顔から目が離せなくて、もう少し、彼女をそばで見ていたい…。そう思ってしまう。
やっと彼女の作業が一区切りついたところを見計らって半ば強引に抱き上げ、クエルト殿に引き渡した。
最後にもう一度…と生存を確認するために触れたアヤメ嬢の頬は思ったよりも冷たくて…。ひゅっと心臓が震え最悪の事態が頭をよぎったがその後、じんわりと熱を帯び、赤く染まる頬に合わせて紫の瞳を潤ませた彼女を見て、自分の中で芽生え、感じていたこの想いが明確なものに変わっていくのを感じた。
「ゆっくり休んでくれ。」
そう告げた時のアヤメ嬢の表情が忘れられない。腕が爆散した時の光景と共に何度も浮かんでは消えていき…また浮かぶ。
次に目覚めた時…また護衛としてそばにいる事が許されるのなら…。
つぎこそは必ず守り抜く。もう二度と、傷を付けさせることはない。
そして、もし…君が許してくれるのなら…一生その隣で守らせてほしい。
グッと目をこすり濡れた頬をぬぐう。
きっとアヤメ嬢は今戦っているのだろう。彼女がいるであろう部屋を見上げるとカーテンの隙間から黒い影が見えた。その正体を知ってもなお、俺はその場にとどまり月を見上げた。
新たな決意と思いを胸に…。