40.侯爵令嬢とイスラ王国-7
ああああああああああああああああああああああ…!!
…痛い…。
痛い…。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!
ただひたすらに…痛い!!
「す…に腕…再…す…!」
「…ルツト…爵…に連…!」
クエルト叔父様とイズミ様の声がする。でも痛くて熱くて何もできない。右腕が燃えるように熱い。
痛みでまた覚醒する。
ぼんやりと見慣れない天井が見える。
すぐにクエルト叔父様の顔が見えたけど、私の意識に反して瞼は閉じていく。
かすかだけど涙が出ている感覚もある。
そういえば、みんなはどうなったかな?ちゃんと戻ってこられたかな?
狂暴化した人達は元に戻ったのかな…?狸兄弟のお母さんはもう目が覚めたのかな…?
テオ隊長…助けてもらったのに…怒られないといいな。
考えたいことも、やらなきゃいけないこともたくさん浮かんでくるのに痛みがすべてをかき消していく。
痛い…。熱い…痛い…。
痛い…。痛みと右腕の燃えるような熱さしかわからない。
耐え切れない痛みと熱が体をむしばんでいく感覚に襲われ、私は今度こそ意識を手放すことができた。
アヤメとクエルトを見送った後、テオとユザキは他の者に指示を出し、一晩夜を明かして、王都から来た視察団と軍に獣人と現場を任せると一目散に城へ戻った。
皆言葉は少なかった。それほどまでに右腕を失ったアヤメの姿は衝撃的だった。特にワイズ、ポイズ、エーデルの三人は顔面蒼白でアルゲンタビウスにしがみついているのがやっとだった。
駆ける馬に揺られながら、テオは自分の手に視線を落とす。
あの時もっと早くアヤメの手を引けていれば…。そう思うと後悔の波が全身に押し寄せる。「守る」そう約束してこの地に来たのに。テオはグッと手を握り絞めた。まだ残っているアヤメの細い腕の感覚。腕に抱いた時の冷たさと折れそうなほど細い体。思い出せば出すほど、アヤメの腕が爆散した光景が脳裏に浮かびあがる。
パァンッという破裂音と共に降りかかった温かい血しぶきと肉塊。それはまさしく悪夢だった。一気に全身の血の気が引いていく。ボタボタと血が落ちる音がやけに大きく感じ、血の匂いに目眩がした。今まで多くの戦場で傷を負う仲間を見てきたが、ここまで身の毛がよだち恐怖を感じたのは初めてだった。
自分の命が狙われ傷ついたほうがまだ落ち着いて受け入れることができたかもしれない。
村に帰って井戸で水をかぶり、髪や顔についた血は洗い流したが、ついさっきまでこの場所で洗濯をしていたアヤメの姿を思い出し心が抉られた。貴族令嬢には珍しく、薬品や訓練で荒れている小さな手。それでも、冷たい水で子供のためにと洗濯をする優しい手。医者としての知識と自信を携えた高潔な手。
その手が…吹き飛んで…失われた。抉られた心がさらにすりつぶされるようだった。
騎士服に残ったアヤメの血がまるで自分を責めているようで、テオは顔を上げた。王都はまだ見えない。それでも。今そこにいるであろうアヤメの無事を祈らずにはいられなかった。
城門を潜りユザキに続いてアヤメがいる部屋へ向かう。ユザキも相当アヤメのことを心配しているらしく、テオを気遣うような言葉は発せられない。ただその黒い体からは怒りを纏った覇気があふれ出ていた。
「戻ったか…。」
アヤメの部屋の前にたどり着くと、クエルトが薬師を連れてちょうど部屋を出てきたところだった。
「アヤメは…!?」
テオが尋ねるより早くユザキが聞くと、クエルトは重いため息とともに首を横に振る。
「腕は再生した。ユザキ殿なら知っているかもしれないが、創造再生には大きな痛みと発熱が伴う。それに出血が多かったから、しばらくは目覚めることができないかもしれん。後は、アヤメの体力と生命力次第だ。」
「…。」
ユザキはかつて自分が経験した苦しみを思い出し悲壮な顔をすると、グッと何かを嚙みしめるように喉を鳴らした。
「…申し訳ありません。すべては守り切れなかった私の責任です。」
クエルトの話を聞いたテオが深々と頭を下げる。今回の騎士団の任務はアヤメの護衛だった。それを一番隊の隊長であるテオが守り切れなかった事は重罪になる。
「…お前は悪くない。…さっきは怒鳴って悪かったな。アヤメが熱にうなされながら『テオ隊長に助けてもらった。怒られなければいい。』そう言っていた。」
「!!!…っ!それでもっ!!守りきらなければなりませんでしたっ!」
頭を下げたまま、テオの声が廊下に響いた。いつも冷静で無表情のテオがこんなに声を荒げたのは騎士団に長くいるクエルトでも初めてのことだった。…テオの肩がわずかに震えている。
「私が…イスラ王国に来たのは彼女を…守るためです。」
「兄上には報告したが返事ではお前を責めてはいなかった。…アヤメを守ってくれたことを感謝していた。あの傷を見るに、魔法による攻撃でアヤメは腕を失ったことがわかる。アヤメは魔力が少ないからほとんど魔力感知ができない。だからこそ、テオが魔力を感知してアヤメを庇ったのだろう?その右足の傷がその証拠だ。そこにもアヤメの傷に残っていたものと同じ魔力の残滓を感じる。」
クエルトに言われてテオは初めて自分が右足に酷い傷を負っているの事に気が付いた。気づいた瞬間からじくりとそこが痛みだす。
庇いきれなかった。アヤメの代わりに自分の右足を犠牲にしてもいいとさえ真剣に思えた。アヤメは今もこんなものとは比べものにならないほどの痛みと戦っているのだから…。
クエルトは頭を下げたままのテオの肩にそっと手を置く。
「余り自分を責めるな。アヤメを守らなければいけなかったのはあそこにいた騎士団全員の責任だ。騎士団長にも報告は飛ばしている。黒髪の魔法使いの件も含めて。まずは傷を治すぞ。話はそれからだ。…ユザキ殿もイズミ様と共に話し合いに参加していただけますか?」
「承知しました。」
テオはクエルトに肩を抱かれ、ユザキは名残惜しそうにアヤメの部屋のドアをしばらく見つめてテオ達の後を追うように足早に去って行った。
イスラ王国の談話室には、コウカ王、イズミ参謀総長、ユザキ将軍、クエルト隊長、テオ隊長、そしてインゼル王国から早馬でやって来たオッド騎士団長の姿があった。
「…なるほど。黒髪の魔法使いのいたとされる場所で、狂暴化した感染者の集団に襲撃をうけたのか。…どうにも話ができすぎているな。」
椅子にだらしなく座ったコウカ王は長い尻尾を鞭のようにしならせると、パシンッと床を叩いた。
「そうですね。あくまで推測ですが、わざと我々をおびき出して狂暴化した獣人に襲わせた。というほうが妥当でしょう。今のところ、狂暴化した獣人に統率のとれた動きができるという報告は受けていませんが。」
「狂犬病菌を作った本人なら、操ることも可能…か。」
「あくまで…可能性の話ですが。」
コウカ王がイズミ様の話を鼻で笑って紅茶に口を付ける。穏やかそうに見えるその表情とは裏腹に白銀の瞳にはしっかりとした怒りが浮かんでいた。誰もがその怒りに口を閉ざす中オッド団長が口を開く。
「お二人のお話を前提に考えますと、アヤメ嬢は意図的に狙われたとみて間違いないでしょうな。」
ユザキが悔しそうに拳を握りしめた。テオはテーブルに視線を落としたまま身動きせずに口を閉ざしている。
「アヤメを狙ったのは…今回の狂犬病の正体を暴き、その対応策のワクチンと抗毒素を作り出したと言う事が理由でしょう。」
「しかし、アヤメが作ったという話は一般的にはまだ公表されていません。ワクチン開発に関しても一部の人間のみしか知らされず、開発中は厳しい護衛が敷かれていました。」
イズミとユザキの話を聞いていたコウカ王が静かにカップを置いた。その仕草に誰もが口を閉じる。
「…知っていた者が情報をもらしたか…あるいは、知っているものが首謀者か。」
ゴクリ…。
誰かの唾をのむ声が小さく響く。
「恐れながら…今日訪れた村には、軍の人間が2人、薬師が1人しか配置されていませんでした。今回の感染症が、人為的か自然的かは感染が始まった時点では判断が付かなかったはずです。だからこそ、国はしっかりとした調査と村の監視をしなければならないのでは?
万が一、犯人が潜んでいる場合も考慮して軍人もそれ相応の人数を配置してしかるべきだとおもいます。子供たちも、黒髪の魔法使いに関しては、大人に話してはいないと言っていましたし。緊急事態で、人員確保が困難だったとは思いますが、感染が始まった村にしては、余りに人員配置がずさんかと」
「クエルト、口を慎め。」
「!…申し訳ありません。」
クエルトの言葉をオッドが咎める。いくら本当の事とは言え、国軍の最高幹部と国王を目の前に余りにハッキリ言いすぎている。不敬罪で罰せられても文句は言えない事である。しかし、クエルトの謝罪を止めるようにコウカ王が手を上げた。
「良い。さすがはインゼル王国騎士団の隊長だな。まさにその通りだ。いくら、感染症が広まり対応に追われていたとはいえ感染症の始まりの村を疎かにしたのは我々の失態だ。…イズミ。あの村についての報告ではなんと?」
コウカ王の言葉にイズミが手元の資料をめくりだした。
「…報告によれば、最初にあの村に軍の者が訪れた時、子供たちは錯乱していて話を聞ける状態ではなったと。…おや…これは…!」
「どうした?」
「報告には村人はほぼ死亡と記載されています。村にいたのは幼い子供三人と老婆1人。言い訳になってしまいますが、その為、配備した軍人も薬師も最低限の人数になった様です。」
「馬鹿なっ!!」
「そんなはずは!」
「!!!?」
イズミの言葉に村に行ったクエルト、イズミ、テオが弾かれたように立ち上がった。
「村には、発症前と狂暴化した感染者が確かにいました。ワクチンも抗毒素も投与した。」
「子供は四人です。狸の兄弟と狐と兎…。風呂に入れて食事もしました。」
「他にいたのは鼬と狐の老夫婦…。」
報告を聞いてイズミは報告をテーブルの上に広げた。報告書を覗き込むように身を乗り出した三人はさらに驚愕する。
「…報告書には狸兄弟、兎の子供と鼬の老婆…のみです。」
三人が一斉に息をのんだ。
「なんだ…狐に化かされたか?」
にやりと笑ったコウカ王とは対照的にその場にいた者たちはひやりとした冷気をを感じてゾワリ…と背筋が粟立った。
「他の騎士たちも子供たちを目撃しているはずですが…。私たちと入れ替わるようにして村に入った調査団からの報告は?」
テオがイズミに尋ねるとイズミは首を横に振った。
「まだ何も連絡を受けていません。…至急、私の部隊を向かわせます。ユザキ将軍、同行
願います。」
「はっ。」
「テオ、お前も一番隊を連れていけ。クエルトはアヤメ嬢の治療があるからこの城から動けん。イズミ殿、我々は馬で構いませんのでどうか同行の許可をお願いします。」
「判りました。では、テオ隊長、私の部隊はユザキを乗せて先に行きます。現地で落ち合いましょう。」
「はっ。承知いたしました。」
「…待て。」
すぐに部屋を出て行こうとした、イズミ、ユザキ、テオにコウカ王が待ったをかけた。
「村には私の影を放つ。お前たちはここに残れ。」
「陛下!?」
「これは命令だ。今は下手に動くべきではない。誰がどこで敵とつながっているか判らんかな。それに、アヤメへの攻撃、村の隠匿、この二つを見ても相手は相当頭の切れる奴だ。下手に動けば其れこそ相手の思うつぼかもしれんぞ。今わが軍のほとんどは感染症対応のために国中に散らばっている。その上、イズミの部隊にまで城からいなくなれば、城の警備はままならなくなるだろう。…それが相手の狙いの可能性もある。今は下手に動かず、情報を整理し確認をすることが得策だ。」
コウカ王はそう言うと、鋭い爪がある前足で報告書を指す。
「イズミ、報告書を上げた者と村に駐屯させていた者たちの事情聴取と身辺調査をしろ。テオ隊長とクエルト隊長、ユザキ将軍は村の詳細な状況をそれぞれの部下から聞いて報告書をまとめてくれ。使用したワクチンと抗毒素の量や感染者の状況などできるだけ詳しく頼む。」
「承知いたいました。」
「はっ。」
「かしこまりました。」
「はっ。」
コウカ王に止められて三人はもう一度椅子に腰を下ろした。
「襲撃の件はとりあえず、まとまったようなので。次は黒髪の魔法使いについて我が国からの報告を申し上げてもよろしいでしょうか?」
「許可する。」
「ありがとうございます。」
コウカ王の許可が出るとオッド騎士団長はクエルトに目配せをする。その指示を理解したクエルトは部屋全体に瞬時に防諜の結界を張った。その魔力にイズミとユザキが驚く中コウカ王は不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「…ふん。殊勝なことだ。」
「恐れ入ります。ここからお話しすることは極秘事項になりますので、ご容赦願います。」
一国の王相手でも怯むことなく言ってのけるオッド騎士団長はコウカ王の覇気にも劣らぬほどの覇気を纏っていた。
「我が国では皆が魔力を持って生まれてきます。量には個体差がありますが皆それぞれの属性を持っています。」
「前置きはいいから本題を話せ。」
「…失礼いたしました。テオの報告を受けてカニバリズム:人食を用いた術式を調べてまいりました。我が国では、はるか昔に人食による魔術が使役されていた記録が残っております。使役者の属性は闇魔法。禁術書の記録によれば『葬再生』という魔法で治癒魔法の『創造再生』と類似していますが、生み出すものはおぞましい悪と闇とされています。」
「悪と闇…か。」
「しかしながら、その闇魔法の使役者はすでに死亡しており、その後に生まれてきた闇魔法の使役者たちは現在も管理下に置かれているため、インゼル王国にて闇魔法を使役することは不可能かと。」
「…その話を信じるならば、今回の騒ぎを起こしたのは過去の闇魔法使いの亡霊ということになるか…?」
パシンッとコウカ王の尻尾が床を叩き付けた。
「亡霊ですか。今の時点ではなんとも申し上げられませんが、呪詛が人を呪い殺した伝承は覚えがあります。各国にそういった事を生業にしている者はおりますから、何とも言えませんが。」
「そうだな。我が国にも、祈祷師や魔術師、呪詛師と呼ばれる存在は確認されている。今の時点で黒髪の魔法使いが呪詛師という可能性は少ないだろうが。子供たちの言う通り、狂犬病は黒い蛾から広まったとすれば、アヤメの怪我の前に見た黒い蛾とつながるな。念のため、蛾を媒体にする様な呪詛でも調べておくか。」
「承知しました。」
イズミが恭しく返事をするとコウカ王はフンッと鼻で笑った。どうやら、呪詛などとは思っていないらしい。それでも、現状では考えられる可能性は全て確認しておきたいのだろう。
「黒髪の魔法使いがもし本当に獣人を食べて狂犬病を生み出したとなれば、今後生み出されるものは…病だけとは限りません。文献では悪鬼と呼ばれる人間でもなく死者でもない者を生み出したという記述がありました。」
「悪鬼か…。我が国にもそんな話があったな。『牙も爪も効かぬおぞましき呪い』その厄災をもたらすものは闇よりいでし亡者なり。…だったか?いずれにせよインゼル王国の話と共通している部分はあるな。」
「オッド騎士団長。付かぬことをお聞きしますが…カニバリズムによる術式のような禁術は闇魔法使いの者が知りえる可能性はありますか?」
イズミが何かを考えるようにオッド騎士団長に尋ねた。
「闇魔法は他の属性魔法と比べて強力なため、国の管理下しっかりとした訓練が行うために、物心つく頃には親元から離れ隔離生活をおくります。訓練では初歩的な魔法のみを教えるので、禁術や悪になりえる術式は教えません。その為、禁術を知る術はありません。」
「そうですか。闇属性を持つものは、光属性の持つものが産まれるのと同じ時期に同じ数だけ産まれるはずですが、今代のインゼル王族の方々と同時期に生まれた闇属性の者は全て国の管理下に?」
「はい。我が王の誕生と同時に生まれた闇属性の者は現在も国の管理下にあります。王太子殿下と同時に生まれた闇属性の者は、出生時から酷い虐待を受けていたようで、国の管理下に置かれてすぐに死亡したと…。…?!っまさか…!!」
何かに気づいたオッド騎士団長が驚愕の表情で、イズミを見返すと白鷲はしっかりとうなずいた。
「その死亡した闇魔法使役者の件は今一度調べなおす価値はあるかと思います。今は、あらゆる可能性を考慮しておくほうがいいでしょう。」
「承知した。すぐに調べましょう。」
「よろしくお願いいたします。私のほうでも入国やあの森の事を詳しく調べてみますので。」
2人が今すぐにでもと立ち上がろうとしたところで、再びコウカ王の尻尾が床を叩き付けた。鞭で打ったような音に二人が動きを止める。
「…今夜はもう休め。事が起こりすぎて皆気が立っている。こういう時こそゆっくりと休み英気を養うことが必要だ。確認は明日にしよう。どのみち影からの報告があるまで我々は身動きが取れないからな。」
勇み立った空気を壊すように、ため息とともにコウカ王が言うと二人は詰めていた息を吐いた。
「承知いたしました。ではオッド騎士団長、明日よろしくお願いいたします。」
「承知いたしました。よろしくお願いいたします。」
「話は以上だ。明日、それぞれの報告を持ってこい。」
コウカ王はそれだけ言って立ち上がる。それに先立つようにイズミがドアを開けたが、ふと思い出したように立ち止まりクエルトに視線を向けた。
「クエルト隊長。アヤメはどうだ?」
「…腕は再生しましたが、未だ発熱と痛みが続いています。魔法によりできた傷なので回復が遅く、今しばらくはこの状況が続くかと思われます。」
「命に別状はないのか?」
「今のところは大丈夫ですが。…この状況が続けば、何とも言えません。」
「…そうか。城の者は何でも使ってかまわん。必要なものがあればイズミに言うが良い。…アヤメが目覚めたら報告を頼む。」
「承知いたしました。お心遣い感謝いたします。」
「良い。あれの事は気に入っている。」
そう告げるとコウカ王は、今度は立ち止まることなく部屋を出て行った。