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35.侯爵令嬢とイスラ王国-2

「まずは我が国の現状をお伝えいたします。」


イスラ王国南部に位置する小さな村から始まった狂犬病の感染は、確認されてから今日までのおよそ2か月で国の南東部ほぼ全域に広がっていた。感染者数は膨大な数に跳ね上がり、それと比例して死者の数も増え続け、イスラ王国軍は半分を民の避難と感染防止対策へ、もう半分を感染者の保護と死亡者へ、イスラ王国が誇る薬師たちは感染者の治療と避難民たちの救護活動に当てられ、医療体制は完全に崩壊し、発症した者たちは隔離され収容されているそうだが、そのなかでも殺し合いが相次ぎ退役軍人対応しているとのことだった。

さらに、感染の威力は衰えず先日南部の町と隣接する西部の地域でも感染が報告されていた。


余りの惨状に言葉を失う。

たって2か月で国の半分が感染地域になって国民の3分の1が感染または死亡している。このままいけば、イズミ様の言うととおりあと4か月もしないうちにこの国は地図から姿を消すだろう。

何とかして止めなくては。


「ユザキ将軍からの報告を受けて、我が国でもワクチンと抗毒素の生成を始めている。今はまだ、十分な数とは言えないが少しずつ生産量は増やせるだろう。まずは、この感染を止めなくてはならない。」


重苦しい息を吐きながらコウカ王は睨むように視線を地図に落とした。その表情からは悔しさと苦しさがにじみ出ている。


「今日、私たちはワクチンを10万本、抗毒素を20万本ずつ用意してきました。また、この後からも我が屋敷より順次ワクチンと抗毒素が届く手はずになっており、5日のうちに計100万本のワクチンをイスラ王国へお渡しする予定でおります。」


「そんなに?!」「なんと!」大臣と宰相が驚きの声を上げた。


「さすがはアールツト侯爵家だな。ならば、アヤメはそれをどう使う?」


コウカ王が挑戦的な目を向けた。

ぞくり…と肌が粟立つ。…この王は私を試している。イスラ王国としてはお父様が来るものだと思っていただろう。しかし、来たのは私。きっと心よくは思っていないはず。

「お前に何ができるのか示してみろ。」白銀の瞳が言葉なく私に語り掛ける。

…いいじゃない。その挑戦受けて立つわ。


「まずは、まだ感染していない者たちへワクチンの予防接種、感染者への抗毒素投与。この2つを並行して行っていこうと考えています。保護されている感染者、発症者への抗毒素投与はそれぞれの保護施設へ私と騎士団が赴きます。ワクチンの予防接種はイスラ王国軍の医療部隊の手をお借りして感染拡大が予測される地域から始めるのがいいでしょう。予防接種は2週間以内に2回必要ですので早めに接種を始めるべきです。」


そのままテーブルの上に2つの小さな試験管を出した。透明と緑のそれに全員の視線が注がれる。


「この透明なほうがワクチンです。そしてこの緑のほうが抗毒素です。この量で成人の獣人一回分でになります。獣人用の注射器はすでにユザキ様が手配されているとのなので、準備が整い次第、予防接種と抗毒素の投与をはじめさせていただきたく思います。予防接種の順番は、感染拡大地域を優先にしますが国の上層部の方々も早めに接種されたほうがいいかと。イスラ入国にあたり、私と騎士団の騎士たち、そしてユザキ様がすでに接種しておりますので安全性は保障いたします。」

「いや、私は予防接種はせんぞ。」

「はい?」

「国は民がいるからできる。国があるから王になれる。ならば民は国そのもの、民の子は国の宝だ。それら以上に優先すべきものなど私にはない。私の分のワクチンは民に回せ。たとえ私が狂犬病に感染しようとも、私より民を優先しろ。王の代わりはいるが民の代わりは無い。」


まるで当たり前のように軽く言い放ったのコウカ王はにやりと私に笑みを向ける。王は国の為、民の為。よく小説や漫画で読んだけど…生で、しかも百獣の王にこうもあっさり言われると拍子抜けして笑いが込み上げる。


「ふふふっ…。失礼いたしました。イスラの民はこのように素晴らしい王がいて幸せですね。私も王の大切な民を救うため全力を尽くします。」

「ふん。お前もまだ幼いくせに、恐ろしい感染症が蔓延する地に赴き、挙句その国の王を笑うなどいい度胸をしている。」

「おほめに与り光栄です。どうやら、破天荒なところは母譲りなようでして。しばらくの間ご迷惑をおかけするかと思いますがどうぞよろしくお願いいたします。」

「好きにしろ。エンフェルメーラの時に迷惑をかけられることはだいぶ慣れたからな。」


一度言葉を切ったコウカ王はそれまでのふざけた態度を正し、じっ…と私に視線を合わせた。その真剣な姿に思わず私も姿勢を正す。


「我が民を救ってくれ。」


力強く、堂々とした威厳ある姿の百獣の王からの言葉はまっすぐに私に響いた。

私は静かにその場に跪いた。そして、白銀の瞳をまっすぐに見つめ返す。確固たる意思を込めて。

私は医者だ。1人でも多くの命を救うために医者になった。いま、誰かが苦しんでいるのなら…まだ助けられる命がそこにあるなら…私は全力で救ってみせる。


「承知いたしました。…必ず…。」


私の言葉が届いたのか、コウカ王はふっと笑みを浮かべた。


「お前を信じる。アヤメ・アールツト。」


王の言葉に短く返事を返して首を垂れた。その信頼にこたえて見せる。私はそっと心の中で誓った。





イズミ・アラケトルは王の前に跪くアヤメを心から美しいと思った。


数十年前に突然現れて半ば強引に弟子になった娘。破天荒でお転婆で、生意気で。それでも一本筋の通ったまっすぐな娘だった。

手のかかる子ほど可愛いというのは本当で、毎度手を焼かせるその娘がいつの間にか自分の中で大きな存在になっていた。実の娘の様に、彼女を慈しみ、愛し、もてるすべてを注ぎ込んだ。そして、彼女は結婚をし母になった。


愛弟子の娘。それは想像以上に愛おしく可愛いものだった。自分が名を贈ったこともあるだろうが、可愛くて仕方がなかった。だから、その反面、アヤメに魔力がほとんど感じられなかったときの絶望はとてつもない物だった。

弟子が嫁いだのはインゼル王国最古の貴族アールツト侯爵家。世界中で唯一希少な魔法を使える一族。そこに生まれた魔力の少ないアヤメ。彼女に待ち受ける未来を考えれば心がひどく傷んだ。


「師よ…どうかアヤメを連れて行ってはもらえませんか。」


アヤメの一歳の誕生会で弟子から言われた言葉は今でもはっきり耳に残っている。悲壮にくれた表情からは、悲しみと絶望しか伝わってこない。細い腕に抱かれたアヤメはニコニコと私の羽を掴んでいた。


「何を…言っているのですか?」

「この子は、ここにいたらきっと不幸になります。私は、母として…この子に幸せになってもらいたい。…たとえそばにいられなくてもアヤメには笑って暮らしてもらいたいのです。」


弟子の言葉は自分でも痛いほどわかっていた。

このままアヤメが成長すれば、家名が、世間が、立場が周りの環境全てがここを傷つけることになる。


…一瞬…ほんの一瞬だけ魔が差した。


気が付けば弟子の手からアヤメを取り上げていた。

私なら、インゼル王国の手の届かない場所でアヤメを育てることができるかもしれない。この子がただ毎日笑って、普通の子供たちと同じように何も気にすることなく成長していく様を一番近くで見守ることができるかもしれない。それが…この子の幸せなれば…


「まんまぁー。」


アヤメの声にハッと我に返った。

見れば小さい手を必死に弟子のほうへ伸ばしている。

…私は何をしていたのか…。


「まーんまぁー!」


とうとう泣き出してアヤメをそっと弟子の腕の中へ返す。


「子供は母親と一緒にいるのが一番ですよ。何よりもアヤメ自身がフェルを望んでいます。…将来を悲観するのは仕方がありませんが、今はただこの小さな希望の塊を信じてあげましょう。」


自分に言い聞かせるように弟子を諭す。

大丈夫。フェルの娘だ。この子ならきっと大丈夫。いつか必ず、すべての困難を力に変えて生きていけるようになる。


そう願うようにしてアヤメのもとを離れてから12年。


「狂犬病かもしれません。」

「対策はあります。…狂犬病の菌にあらかじめ感染しておくことです。その為に狂犬病菌でワクチンを作る必要があります。」


アヤメは素晴らしい成長を遂げていた。

父親譲りの黒髪と、紫の瞳はそのままに弟子によく似た顔立ちで、豊かな知性とあふれる魅力を携えて。


「本当に喜ぶのは狂犬病を食い止め、苦しむイスラの民を救えた時です。」


…本当に立派になった。

ここに来るまでたくさんの苦労があったのかもしれない。泣くことも、苦しむこともあったのかもしれない。それでも…それでも強く思ってしまう。

あの時、弟子のもとに残してきてよかった。と。


もう、私の記憶の中にあるアヤメではない。

彼女は一国の王と肩を並べて、未曾有の恐怖に立ち向かう女性へと変わったのだから。


「さぁ、始めましょうか。」


王と並ぶアヤメに声をかける。元気よく返事をしたその顔に浮かぶ笑みは、自信に満ち溢れていて、私の心がまた…微かに震えた。




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