32.侯爵令嬢とワクチン
ユザキ様に縋りついた夜。
大きな黒豹の姿のままユザキ様は私を部屋まで送り届けると、私が眠るまでそばにいてくれた。
「…ごめんなさい。」
「なにが?」
「その…色々…ご迷惑をおかけして。」
「迷惑じゃない。アヤメが気にすることは何もない。それに…よだれを付けられて耳をしゃぶられるよりましだ。」
続く沈黙に気まずくなって話しかければ、ひどく優しい声が返ってきて…。最後にはククッと穏やかにユザキ様は笑ってくれた。その優しさにまた涙が滲みかけたけど、グッと堪えて下手くそな笑顔を作った。
「…そんなふうに無理して笑わなくていい。特に俺の前では、強がる必要なんてない。…さぁ、もう眠れ。」
大きな体で私を守るように、囲うようにベッドの上で私に寄り添ってくれたユザキ様は、温かくてお日様の匂いがした。そして、私はその心地よさにゆっくりと瞼を落とした。
もう、あの夢は見なかった。
朝起きたらユザキ様はいなくなっていた。
気分は嘘のようにすっきりしていて、昨夜のような不安や無力感もない。グッと体を伸ばして大きく息を吸いこみゆっくりと吐き出せば、凝り固まった体が伸びて気持ちだけでなく体までもすっきりした気がした。…大丈夫。きっと、ワクチンは完成させることができる。イスラの国も救うことができる!そう強く信じて、気合を入れなおしベッドから降りた。
部屋を出て食堂に向かうと、ちょうどユザキ様と出くわした。昨日の事もあり、ユザキ様と顔を合わせるのがなんとなく気まずいと思ったけど、それは私だけだったようで…。ユザキ様はいつもと変わらず挨拶をしてくれた。それに何とか私も挨拶を返すが、昨日の事を思い出せば羞恥が込み上げてなんとなくぎこちなくなってしまい、お父様に不思議そうな視線を向けられた。
…危ない。
いくら幼い時からの知り合いとはいえ、年頃の娘が異性と同じベッドで一晩過ごしたなど、絶対に許されない事だ。お父さ様に続いてお兄様の視線も気になったが、知らないふりをしてやり過ごした。
昨夜のことは誰にも知られてはいけない、二人だけの秘密にしないと…。嫁入り前の身で…とかお父様に怒られるのは嫌だし、そのせいでユザキ様に迷惑をかけるのはもっと避けたいし。
ただ、ユザキ様の部下の兵士のドーベルマンの獣人さん達が私の事を見て少し驚いた顔をしていたのがきになるけど…。とりあえず、気にしないことにする。
そして、それからさらに二週間後、ついに狂犬病のワクチンと抗毒素が完成した。
喜びもつかの間、そのまま急ピッチで治験を済ませ、副作用や危険性を確認しまた手直しをする。本来ならばこの工程は10年近くかかるのに、アールツト一族の力と魔法の使役で、原ワクチン完成から一週間で狂犬病ワクチンと抗毒素を完璧に仕上げることができた。
さすが異世界、さすが魔法、恐ろしや…。
「ワクチンが完成した。すぐに量産できる態勢を整えようフェルに連絡して研究所に準備をしておくように伝えてくれ。」
お父様の言葉に控えていたアールツト侯爵家の従者が研究室を飛び出していった。
「抗毒素を使えば血清療法が適用できます。これで、狂犬病感染者に噛まれたとしても発症前であれば狂犬病菌を倒すことができるかもしれません。」
「発症後も抗毒素が有効かどうか試す価値はあると思います。お兄様、抗毒素の培養をもう少し進めておいてもいいですか?ワクチンも、人間用と獣人用で少し細分や濃度を調整する必要があるかと思います。」
「わかった。その辺りについてはアヤメに任せるよ。叔母様、お手伝いいただいてもよろしいですか?」
「もちろんよ。それから、ワクチンは注射での投与になるだろうから獣人用の注射器も大量に必要になるわね。ミコリタ将軍手配をお願いしてもよろしいでしょうか?」
「承知いたしました。すぐに国に遣いを出します。」
叔母様が言うとユザキ様はすぐに用紙をだしてペンを走らせる。失礼な話だが、肉球のついた獣の手で細いペンを握り文字を書くことができる事が気になって思わず凝視してしまう。すると、私の視線に気が付いたユザキ様がフッと笑って、尻尾で頬をひと撫でしていった。尻尾が離れるのと同時に私の頬に熱が集まる。
な、な、なに今の…?!ドキドキと鼓動が耳に聞こえてきて、赤く染まった頬を隠すように両手で顔を覆えば、私から視線を外したユザキ様は、すでに真剣な表情に戻っていた。お父様の方を向いているその美しいクロヒョウの横顔に、なぜか惹きつけられてしまう。
「ワクチンの生産については準備が整い次第わが国でもできるように上層部に進言いたしますのでしばらくの間アールツト侯爵家にはご迷惑をおかけいたします。」
「気にすることはない。その為に莫大な研究施設を保有しているのだ。それに、今回のワクチンはイスラ王国だけでなく、我が国の為にもなる。ワクチンと抗毒素の投与については現地の者と話したほうがいいだろう。また、民への予防のための集団接種の件も合わせて確認を取ってくれ。」
「承知しました。上層部に伝えます。」
お父様に一つ頷いて軽く礼をするとユザキ様はそのまま研究室から出ていった。
「私はこれから宰相と陛下にワクチンの完成を報告してくる。騎士団長にもワクチンの完成を伝えてくれ。この後はイスラ王国に出向くことになる。その時は騎士団の力を借りることになるだろうからな。」
護衛としてついていたストーリア隊長とアンモス隊長は短く返事をすると、アンモス隊長は騎士団へ伝令を出し、ストーリア隊長はお父様と一緒に出ていった。
やっと。やっとワクチンが完成した。これで多くの民を救える。それに、感染した人たちも救うことができる…。きっと大丈夫…。
騒がしくなった周囲をみながら私はそっと安堵の息をついた。
しかし、それから数時間後、幽閉塔には沈黙が満ちることになった。
ワクチンの完成を受けて、これからの計画の為に幽閉塔の応接室には宰相のフェアファスング公、オッド騎士団長、インブル副団長、0~4番隊の隊長達が集まっていた。待望のワクチンが完成したのにそれぞれの顔はどこか暗く緊張に押し固まっていて、空気は鉛のように重い。
「…やはり、陛下のおっしゃる通りアールツト侯爵を感染の広がるイスラに派遣することはできません。」
沈黙を破るようにフェアファスタング公が重々しく告げる。
ワクチンの完成に国王陛下は喜び、イスラ国内での投与・予防接種を許可された。しかし、そこにアールツト侯爵家当主であるお父様とその世継ぎであるお兄様が出向くことに難色を示されたのだった。アールツト侯爵家は国の至宝。しかも当代の当主とその嫡男は歴代のアールツト一族の中で1、2を争うほどの魔力と腕を持つ。そう簡単に他国、しかも恐ろしい感染症が広まっている場所へは出せないとのお考えらしい。
「陛下のお考えは判るが、それではワクチンの投与が大幅に遅れてしまう。イスラ王国の医療機関は感染拡大を受けて完全に麻痺していると聞いた。医療関係者や医療従事者の疲弊も激しいだろう。そこにさらにワクチン投与の為の増員など無理に決まっている。それにもし、不測の抗体反応が出た場合、医療補助者では対応できないだろう。きちんとした知識とワクチンの特性をよく理解している者が必要だ。」
お父様が悔し気に拳で膝を叩いた。お兄様もどこか腹立たし気に視線を膝に落としている。それを見ていた叔母様が静かに口を開いた。
「私が行きましょうか。私ならワクチンの事もよく知っていますし不測の事態にも対応できます。」
「それはできません。レットレール侯爵夫人はご懐妊されております。今は大切な時期、ただでさえワクチン開発の為に無理をされているのに、これ以上はお体にご負担がかかりましょう。それに、レットレール侯爵もご反対されております。」
叔母様の提案にすぐにフェアファスング公の反対が入る。叔母様はワクチン開発に入る直前に妊娠が判明していた。本来ならば、ワクチン開発に参加すること自体憚られたのだが、叔母様本人が強く希望していたため今回はワクチン開発のみ。という条件でレットレール侯爵から了承を得ていたのだった。さすがに、身重の体にこれ以上は望めない。再び重い沈黙が落とされたところで、今度はクエルト叔父様が手を上げる。
「私にも医療の心得があります。私が行きます。」
「…クエルト…、お前ひとりでワクチンと抗毒素のすべてを管理し、捌くのは無理だ。…0番隊からはそんなに大人数は出せないだろう?それに、これからの感染拡大に備えて我が国でも予防接種を開始したい。国民の混乱が予想されるし、万が一医療補助者が対応しきれなくなった場合は0番隊の手を借りる可能性が高い。うかつに人員を割くことはやめたほうがい。」
「それはそうですが、兄上、今は緊急事態です!我が0番隊にもある程度の人数を確保することはできますし、知識の浅いお飾りの医療補助者を連れていくよりはよほど役に立ちます。」
「言葉が過ぎるぞ、クエルト。だいたい……。」
珍しくお父様とクエルト叔父様が言い合いを始めてしまい、場の空気がさらに悪化していく。さらにはそこにフェアファスング公、騎士団長まで加わり、事態はますます悪化の一途をたどっていた。
言葉の応酬が繰り広げられる中、私は先ほどからの考えを胸にゆっくりと手を上げる。
「私からも発言をよろしいでしょうか?」
「アヤメ、今は子供の出るとここではない。少し待ち………。」
「…私が行きます。」
「なに…?」
思いもよらなかったであろう発言に、お父様やクエルト叔父様の言い合いは止みこの場にいる全員の視線が集まった。その視線の強さにすこしてが震えるがグッとこぶしを握り胸を張って顔を上げた。
「私が行きます。私だったら、不測の事態にも対応できます。それに、ワクチン開発に携わっていますからその場での応用もできます。もちろん、クエルト叔父様にお助けいただくとは思いますが。」
そう。私だったらワクチンや抗毒素もきちんと扱えるし有事の際も対応できる。私としては最適な人選だと思ったが、私の発言を聞いたお父様とお兄様、叔母様そしてクエルト叔父様までもが猛反対を受ける。
「ダメだ!危険すぎる。」
「アヤメはまだ13歳だよ。危なすぎる。」
「いけません。貴方に何かあればフェルお姉さまが悲しみます。」
「アヤメ、私では力不足かもしれないが、お前がでなくても良いんだ。」
皆が、私を心配してくれているのは分かる。私は今13歳の少女だ。いくら中身がアラフォーのおばさんだとしても、感染症が蔓延する国に行かせるのは危険すぎる。きっと私が彼らの立場だったら同じように反対しただろう。
……それでも…私は……___
「…他に適任がいません。」
私の声は思ったよりも低く、大きく部屋に響いた。一瞬で他の声が止み静寂が訪れる。
「今は言い争っている場合ではありません。今、この瞬間にもイスラの民が苦しんでいます。今は一刻も早いワクチンの供給を目指すべきです。ワクチン開発提案者の私がワクチンを予防接種してイスラ王国へ行きます。」
一人ひとりの顔を見てはっきりと告げれば、お父様が眉間に深いしわを刻んだ険しい表情で口を開く。
「だが、お前もアールツト侯爵家の人間だ。国外に出すわけには…」
「国王陛下は私を国外に出す事は反対しておりません。…私はアールツト侯爵家の人間ですが、お父様やお兄様とは違います。」
お父様の言葉を遮るように言えば、お父様とお兄様がハッとしたように息をつめたのがわかった。そして、見る見るうちに二人の顔に悲しみが浮かんでいく。それでも、ここで止めることはできなかった。やめてしまえば手遅れになるイスラの民が増えてしまう。
「私はいずれアールツト侯爵家を出る者です。それに、治癒魔法を使えない私は、この国にとって…アールツト侯爵家の人間としての価値は低…」
「やめろっ!!!それ以上の発言は私が許さん!!」
今度は私の言葉を遮るようにお父様の怒声が響き渡った。思わずビクッと肩を揺らせば、お兄様をはじめとした他の皆も目を見開いていた。
始めて私に向けられたお父様の怒りに全身が震えだす。いつも優しく時に厳しかったお父様が、ものすごい剣幕で私を怒鳴りつけた。
「お前は私の娘だっ!治癒魔法など関係ない!!アヤメは我がアールツト侯爵家の血を引くものだ!!それ以上の侮辱はたとえ本人であろうと私が許しはしないっっ!」
フーフーと息を荒くしながら言一息で言い放ったお父様は、私と同じ紫色の瞳に涙をためていて…それを見た時、初めて、自分の発言がお父様をひどく傷つけてしまった事に気が付いた。…お父様を傷つけるつもりは無かった…ただ、私は…。気がつけば、お兄様もひどく悲しい顔をしていていつも味方でいてくれた二人を傷つけてしまった事に酷く心が痛みだす。
「…申し訳ありません…。」
痛みと罪悪感が込み上げるなか私は、まっすぐお父様の潤んだ瞳を見つめた。この人と同じ色の瞳をもつ私だからこそ……行かなくてはならない…いや…行きたいんだ!!
「ですが、現状を考えれば私が投与を行う事が最適だと思います。もちろん、一人でとは言いません。可能であればクエルト叔父様と0番隊の騎士に協力していただき、私の医療補助者も連れて行きたいと考えています。」
「アヤメ…しかし…。」
「お父様…。どうか私を行かせてください。アールツト侯爵の娘として…医者として、救える命があるならば一人も多く救いたいのです。…私は他のアールツト一族の様にはできないこともあります。それでも、私も私なりの方法で医療現場で戦えます。どうか…お願いいたします。」
ゆっくり頭を下げる。
治癒魔法が使えない私は国にとっての価値は低いけど、お父様やお兄様が私を「アールツトの血を引く家族」として認めてくれているのなら、アールツト侯爵家の人間として、お父様の娘としてこのワクチンを使って狂犬病を食い止めたい。祈るような気持ちで自分のつま先を見つめ続ける事数分。お父様の長く、重いため息が聞こえた。
「…わかった。イスラ王国へ行くことを許可しよう。」
「父上!?」
「!!…っありがとうございますっ!」
お父様の許可に喜ぶ私とは対照的に、お兄様がお父様に大声で詰め寄った。
「待ってください、父上!それはあまりにも危険すぎます。確かにアヤメは優秀ですがまだ13歳ですよ!?しかも女性です。それを狂犬病感染者のもとへ行かせるなどっ!!」
思えばこんなふうに感情をむき出しにするお兄様を見るのは初めてだった。いつも、笑顔で優しくて、いつも私の味方でいてくれたのに…。
お兄様はお父様の胸ぐらをつかむ勢いで、詰め寄ると猛烈に抗議し始めている。そんなお兄様の肩にお父様の両手が乗った。興奮しているお兄様とは対照的にお父様の表情は凪いでいて、穏やかだった。そして、まるで幼い子供に言い聞かせるように静かに語り掛ける。
「落ち着きなさいシリュル。確かにアヤメがイスラ王国へ行くことは許可したが、何もアヤメ一人で行かせるわけではない。きちんとした護衛と感染対策の為の準備も万全にするつもりだ。」
「それは…ったとえそうでも!」
「シリュル、何もかも禁じて、取り上げてしまえば、それはアヤメの安全を守ることができてもアヤメの翼をもいでしまう事と同じなのだよ。」
「そんなつもりは…。ただ僕は…。」
「わかっている…。お前はただアヤメを危険から守ろうとしているだけだ。あの時の、そう頼んだのは私なんだから。」
「……。」
え?お父様がお兄様に頼んだ……?いったい何の話なの?
2人の会話を静かに聞いていれば、不意にお兄様が私を見下ろした。その視線に緊張しながらも見つめ返せばお母様と同じ緑色の瞳はいつも輝いて見えるのに、今日はどこか影を落としていた。こんな悲しい顔をしたお兄様を見るのは初めてで、どうすればいいのかわからず視線を逸らそうとしたところで、お父様がゆっくりと語りだした。
「…お前達には話していなかったが、フェルは昔、男装して無断で国を抜け出しイスラ王国へ密入国したんだよ。」
「「はぁ?!」」
急に聞かされたお母様の黒歴史にお兄様と私の声が重なった。クエルト叔父様を除いた隊長達も驚きの表情を浮かべている。
あ!!あの時、イズミ様が言っていたことってまさかこれの事?!…でも、どうして今?
「何年もフェルはイスラ王国へ行きたがっていたのだが、ご両親から留学を反対されて…ついに強行突破に出たんだ。彼女はそのまま半年も音信不通だったそうだ。その時のフェルのご両親の気持ちが親となった今私にもよくわかる。きっと今、私が反対したところでアヤメは自力でイスラへ行くのだろうな。」
「え?…あ、いや、さすがに…。」
お父様の指摘に思わず視線を泳がせれば、お父様はクックッと肩を震わせた。その向こうではクエルト叔父様も同じように肩を揺らしている。
…確かに、もしここで反対されれば…アルもいるし……みんなに内緒で、イスラに…。
そう考えたところで、再びお父様が話し出す。
「…フェルならそうしただろう。」
至極当然の様に言い放ったお父さんの言葉にお兄様と二人で驚いてしまう。お母様の行動力と探求心は知っていたが…まさか、そこまで?…お母様が侯爵夫人としての仕事を抱えていなれば、先陣きってイスラに乗り込んでいたかもしれない。そう考えれば、昔もらった男装セットの使用理由も納得がいく。
「親としては…黙って国を出ていかれることを思えば、たとえ現地に感染症が蔓延していようと今のほうが遥かに良い。それに、彼女の娘であるアヤメが、当時のフェルに近い年齢で…13歳でイスラ王国に行くことが…なぜか偶然には思えない。私はアヤメの才能と腕を認めている。だからこそ、子を信じて送り出すことも親の務めなのだろう。」
そう言ってお父様はお兄様の肩に乗っていた手を下ろした。
「……。」
お兄様は何も言うことなく、ただじっと視線を床に落としている。その姿に少し心が痛んだがお父様に呼ばれて顔を上げた。
「…アヤメ、私は父として、アールツト侯爵としてお前を信じている。」
「はい…お父様。必ず狂犬病を食い止め、イスラの民を救ってみせます。」
必ず…!!
私はしっかりとその目を見て頷いた。
お父様の言葉にお兄様はもう言い返すことはなかった。代わりにグッと何かをこらえるように押し黙り、床に視線を向けたまま力なくソファに座り込んでいて叔母様がそっとお兄様の背中をさすっていた。
「ヒルルク様。アヤメの事は我がイスラ王国軍が、私が全力で護衛いたします。また、ワクチンの接種や抗毒素の投与に関しては我が軍の医療部隊が対応できますので、それなりの人員を確保することが可能かと思います。どうぞご安心ください。」
「ありがとう。よろしく頼む。」
「お任せください。」
ユザキ様とその部下のドーベルマンの獣人たちが胸の前で腕を組み礼を取った。
その獣の瞳には強い意志が宿る。
『今、この瞬間にもイスラの民が苦しんでいます。』
アールツト侯爵家はインゼル王国の至宝。その令嬢が親兄弟の反対を押し切って、他国である自国の為に危険な場所に自ら足を踏み入れようとしている。
その姿に獣人たちは驚いた。
この少女が、今回の感染症の正体を見破り、ワクチンの開発と抗毒素作成を発案したと聞いた時はにわかには信じられなかった。いつまでも完成しないワクチンづくりと故郷で苦しむ同族を思えば、悠長に顕微鏡を覗き込む姿に苛立ちを覚え、本当にできるのかと疑いを持つこともあったが……。この少女はワクチンを完成させた。はじめは信じられなかったがワクチンの治験を繰り返していくうちに、本当にあの恐ろしい感染症を止められるワクチンが出来上がったんだと内心歓喜した。
さらには獣人の大人でも震えあがるような感染症が蔓延する我が国へ、自ら足を踏み入れようとしているのだ。令嬢自身には何のかかわりもない他国の獣人の為に…。そう考えれば獣人の兵たちの士気は上がった。この令嬢を守ることが自国を守ることに直結することはもちろん承知だったが、それ以上に、自国の為にここまでしてくれる幼い少女を守りたい。無事に親の元へ返さなくてはいけない。と強く思った。
「フェアファスング宰相殿。我々騎士団のイスラ王国への入国許可を国王陛下に進言をお願いいたします。」
「オッド騎士団長…。それは…。」
「我々騎士団は、護衛としてアールツト侯爵令嬢と共にイスラ王国へ参ります。アールツト侯爵家は我が国において、王族に並ぶに重要貴族。ならばそのご令嬢は王族の護衛と等しく騎士団の任務だと考えます。それに、ご令嬢は我が騎士団0番隊に所属する騎士でもありますので当然0番隊も同行させていただきます。」
オッド騎士団長がにやりとわらい、騎士団長の言葉に続くようにインブル副団長と隊長たちが跪いた。オッド団長はフェアファスング公に向けた言葉から何度も私に「アールツト侯爵家令嬢としての価値」を伝えてくれているような気がした。そして騎士隊長達も同じように私に「価値はある」と訴えてくれているようで、じわり…と鼻の奥が熱くなる。
「…わかりました。国王陛下には私のほうで取り計らいましょう。…ここからは私的な話になりますが、アールツト侯爵令嬢は我が友の大切な娘であり、我が息子の命の恩人です。どうか、よろしくお願いします。」
「かしこまりました。」
フェアファスング公は騎士団長に告げると、私に優しい笑顔で頷いてくれた。その顔はレヒト様によく似ていてとても綺麗だった。
「アヤメ嬢…。レヒトを救ってくれた御恩は一生忘れません。ヒルルクの為に、レヒトの為にも…アヤメ嬢には危険なことはしてほしくないのが本心ですが、今回の英断心より感謝いたします。私も全力でサポートいたしますので、どうか無事に戻って来てくださいね。」
「ありがとうございます。フェアファスング宰相様。そして騎士団の皆様…ご迷惑をかけるかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。」
私は深々と頭を下げた。
皆が…
『治癒魔法が使えない落ちこぼれ』『アールツト侯爵家のポンコツ令嬢』そう言われてきた私を、皆が…国でも地位のある立派な人たちが…。
“私を思ってくれている”
それがとても嬉しくて、心強かった。
「お父様、私はこれからワクチンを予防接種します。万が一に備えて、イスラ王国へ入国する全ての者は予防接種をするべきだと考えます。接種回数は2回で良いと思いますが、まずは試験として私が打ちます。許可を…お願いいたします。」
「…それでしたら、私にも獣人用のワクチンを打ってください。民が使用する前に私の体をお使いください。」
私の横にユザキ様が立った。それに慌てて声をかける。
「お待ちください。ワクチンの治験は終わりましたが、まだ副反応など分からないことが多くあります。もし重篤な副反応が起こった場合は命に危険が及ぶこともあります。まずは、私が」
「副反応の危険性はアヤメも同じだろう?だったら、何も迷うことはない。俺はアヤメも、ヒルルク様やシリュルも信じている。アールツト侯爵家の方々が作ったワクチンなんだ。何も恐れることはない。」
「ユザキ様…。」
どこか得意そうに言った彼の金色の瞳は一つも揺らぐことなく私を見下ろしていた。そのまま何も言えなくなってしまうと
「恐れながら、私にもワクチンの投与をお願いいたします。」
今度はテオ隊長が前に出てきた。相変わらずの無表情だが、鋭い瞳はまっすぐに私を射抜く。
「騎士団としてアヤメ嬢の護衛に行く際に、ワクチンの予防接種が必須であれば私が騎士団を代表して治験を受けます。」
「何を言って…テオ隊長は一番隊を率いるお方ですよ?!万が一何かあれば…。」
まさかの発言に思わず声が大きくなったが、テオ隊長はそれを気にすることなく無表情のまま静かに見下ろしてくる。
「万が一何かあっても代わりはいる。それに君が傷を治してくれた時の礼もある。私で協力できることならば、何でもしよう。」
「そんな…。」
「騎士団長。ワクチン接種のご許可を願います。」
2人の突然の申し出におろおろしながら、最後の希望の騎士団長が止めてくれるように祈ったが
「…わかった。許可しよう。アールツト侯爵殿、騎士団としてもイスラ王国へ入国する者にはワクチンを打たせたいと考えております。テオへの接種を私からもお願いいたします。」
まさかの騎士団は承認するだけではなく、お父様に頭を下げてしまった。それに倣うように副団長とそれぞれの隊長たちが跪く。その様子を見てお父様はしぶしぶながら了承してくれた。
結局、私の想いは届くことなく、ユザキ様とテオ隊長も予防接種を受けてくれた。幸いなことに二人にも重篤な副反応は出なかったが、次回は何としてもやめさせなければならないと強くおもった。
こうして、狂犬病ワクチンの予防接種を受けた私たちは、いいよイスラ王国へ入国することになった。