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30.黒豹とアールツト侯爵家

攻防戦から2年が経ち、順調に軍人としてキャリアを積み上げていた時、その病魔は俺を襲った。

始めは右腕の軽い痛みだった。軍人は怪我が多いこともあってさして気にしなかったが、そのうち痛みは激痛に変わり、そして腕の体毛がすべて抜け落ちた。

やがて毛が抜け落ちた部分から、徐々に俺の腕は腐っていった。そして、その症状は左腕でも始まりかけていた。

その時から、全身の痛みと高熱が始まる。薬師や医師が診察にきてはいろんなことを施していたが俺の腕は一向によくならなった。

やがて…親父が言った。


「このままでは全身が壊死してしまう。その前に…腕を切り落とそう。」


腕を切り落とす。

それは軍人として生きている俺にとって死刑宣告よりも酷い宣言だった。

今まで、何のためにつらい鍛錬を積んできたのか。この腕で何人の命を守ってきたのか。何度自分の命を守ってきたのか。黒く変色し異臭を漂わせているこの物体をもはや腕と呼べるのかは分からないが、それでも俺にとっては命の次に大切なものだった。


「嫌だ。腕を切り落とされるくらいならば俺はこのまま全身が腐ってでも死んでいく。」

「何を言っているんだ。腕をなくしても命が助かるんだぞ。」

「…俺は軍人だ。これから先もそれは変わらない。腕が無くて剣を握れるか?利き手を奪われて戦えるのか?俺は…軍人として生きていけないのなら、せめて今軍人として死にたい。」

「ユザキ…。」


兄二人を亡くしている親父に、自分がどんなに残酷なことを言っているのかは知っている。それでも、俺の気持ちは変わらない。両腕と軍人としていることを失って、自分がちゃんと「自分」として生きていけるかはわからなかった。


「失礼。話は聞かせていただきました。」


病室に入ってきたのは白鷲の獣人。この国で参謀総長を務め、親父の上司でもあるアラケトル様だった。その姿に礼を取る親父を手で制して、アラケトル様は俺に近づいてきた。


「君がユザキですか?」

「はい。ユザキ・ミコリタです。このような姿で申し訳ありません。」

「君は病人なのだから気にすることはありません。…これが奇病の腕ですか。」


アラケトル様は俺の腕をしばらく観察するとゆっくりと俺と親父に向きなおった。


「ミコリタ参謀補佐官、ユザキ。この腕、もしかしたら治せるかもしれません。」

「それはっ…!?」

「!?」

「私の弟子の夫が医療従事者をしておりまして。その腕を借りればこの奇病を治すこともできるやもしれません。まぁ、あくまで可能性…の話ですが。」

「ぜひ!ぜひとも、そのお方をご紹介いただきたい!治療費はいくらでも支払いますので!」


親父が間髪容れずに頭を下げた。

こんなに必死になって頭を下げる親父を見るのが始めてで、それだけ親父に心配をかけていたことを知る。そして、少し恥ずかしさと申し訳なさを感じながらも、親父に倣い頭を下げる。


「わかりました。ではすぐに出国の準備をお願いいたします。すでに、あちらに事情は話していますので、治療開始後はしばらくあちらで過ごすことになるでしょう。治療費の件は後で本人と交渉してください。」

「あの、出国ですか…?もしや…あちらというのは…。」


にこやかな表情で控えていた者に指示を出すアラケトル様に親父は戸惑いながら声をかける。アラケトル様は親父に顔だけこちらに向けてゆっくり頷いた。


「さすが長年私の補佐をしてくれているだけはありますね。ミコリタ参謀補佐官の言う通り、今からユザキにはインゼル王国アールツト侯爵家へ行ってもらいます。」

「インゼル王国…アールツト侯爵家…!?」


親父の顔が驚愕に染まった。

インゼル王国のアールツト侯爵家といえばこの世界で唯一治癒魔法を使える一族として世界中が知っている貴族だ。


「嘘だろ…。」


思わず漏れた声に、アラケトル様は穏やかな笑みを見せる。


「嘘ではありませんよ。私の弟子がアールツト侯爵家の当主と結婚しましてね。その際に良き仲になりました。君の奇病の話をしたら、ぜひ直接見て診察し治療したいと申し出てくれましたよ。それに、君の奇病を研究して、奇病の治療薬を作りたいと侯爵夫人である私の弟子からは言われました。…彼女には気を付けなさい。油断していると尻の毛まで一本残らず引っこ抜かれて試験管に入れられますよ。」


ひっ!

と思わず体が仰け反る。ゾワゾワッと全身の毛が逆立った。


「先ほどの治療費の件も、夫人からのたっての希望で治療費はいらないから「研究と実験」に協力してほしいとの事です。五体満足で毛並みのいいまま帰ってきたいのであれば、しっかりと治療費の交渉をすることを勧めます。」


震えあがる、親父と俺にフフフ…と笑みを浮かべたアラカルト様はてきぱきと侍従たちに指示を出し。気付けば、俺はアールツト侯爵家からやってきた寝台馬車に乗せられ国境をくぐっていた。


インゼル王国の王都。その中でも王の暮らす城に一番近い一等地にアールツト侯爵家は屋敷を構えていた。敷地内には様々な建物が立ち並び、最奥に構えるひと際立派で大きな屋敷が今日から俺の世話になる侯爵家の本邸だと聞かされた時は、付き添いできた親父とおふくろが、驚愕していた。


屋敷ではアールツト侯爵家当主のヒルルク様と奥方のエンフェルメーラ様をはじめとした使用人たちが総出で俺たちを迎えてくれた。王国の重鎮であり、莫大な資産と巨大な権力を誇る高貴な貴族なのにお二人はとても気さくで親しみやすく…少し変わっていた。


「今日から、ここが君の部屋だよ。何かあれば専属の侍女がいるから遠慮なく申しつけてくれ。」


ヒルルク様に案内された部屋はとても日当たりがよく広々として、病室とは思えない豪華な部屋だった。


「ミコリタご夫妻には息子さんに会えない間ご不安でしょうが、我々が責任をもって息子さんの治療に当たらせていただきますので、ご安心ください。国は違いますが、いつでも

また、定期的に私のほうから治療経過をご報告させていただきますので、気休め程度にしかなりませんが、同じ、子を持つ母としてご負担が少しでも軽くなれば幸いです。」


奥方様はそう言ってお袋の手をそっと握ってくれた。平民のお袋は大貴族に戦々恐々としていたが、奥方様の言葉と態度に目に涙を溜めて何度も頷いていた。


「おかあさまぁー。」


その時、小さな声と共に栗色の髪をした緑色の瞳の小さな少年がひょこッとドアから顔を出した。


「シリュル、お客様がいるのに勝手に入ってきてはいけませんよ。」


奥方様に咎められても、シリュルと呼ばれた少年は臆することなく侍女を連れて入室してくる。


「ごめんなさぁい。でも、アヤメが泣いてるー。」


それと同時に鳴き声が聞こえてきた。侍女の腕に抱かれている黒髪の小さな赤ん坊の声が顔を真っ赤にしてブシュブシュと鼻提灯を作りながら泣いていた。


「あら、起きてしまったのね。…申し訳ありませんが、息子と娘です。ご挨拶させていただいてもよろしいでしょうか?」

「ええもちろんですとも。」


奥方様のは親父の許可を取って、侍女から赤ん坊を受け取ると、シリュルの肩に手を添えて俺たちの前に歩み出た。


「シリュル・アールツトともうします。こっちは妹のアヤメです。よろしくお願いします。…黒豹のお兄ちゃん。」


にこりと笑ったシリュルは俺に恥ずかしそうに視線を向けた。それが、なんとも可愛くて。俺もつられて表情が緩む。


「ユザキ・ミコリタだ。よろしくなシリュル。」

「うん!」


俺の挨拶に嬉しそうに駆け寄ってきた小さな体はヒルルク様に抱き上げられた。


「シリュル、ユザキ君は病気を治しに来ているんだぞ。遊びに来ているわけではない。ユザキ君がきちんと病気を治すまで、騒いだり、無理を言ってはいけないぞ。」

「はぁい。」


ヒルルク様の言葉にブスッと頬を膨らませる姿がほほえましい。

今度は奥方様が腕に抱いた赤ん坊を俺に見せるように近づいてきてくれた。


「娘のアヤメよ。どうぞ、仲良くしてやってね。」


母親に抱かれて満足したのか、泣きやんだアヤメは俺の顔をじっと見る。小さな紫の瞳が綺麗だと思った。そして、その体の小ささに恐怖する。獣人の子供は成長も早く個体も大きい。こんなにプニプニで小さくて丸い生き物は初めてだ。それに、どこか甘い匂いがする。初めて獣人を見たのだろう。この獣の顔に驚かないといいが…。そう思い少し顔を引こうとすると

むんずっ!とひげを掴まれた。


「いたっ!」

「あーあー!」

「こら、アヤメ。」

「うーうーうー!」


突然の事と痛みに驚いて思わず声を出してしまった。奥方様に咎められてもアヤメは俺のひげを離すことはなく、そのままひげを引っ張って顔を近づけると、小さな柔らかい手でベタベタと俺の顔を触り始める。間近に迫ったアヤメの顔にドキリとした。甘い匂いが急に濃くなる。

小さな手が顔中を撫でまわすが、決して牙を触らせてはいけない。傷付けてはいけないと念じ歯を食いしばって、極力動かないように気を付けた。

俺の顔を這いまわっていた小さな手が上に伸びたと思った時。


「あうっ!」

「うひゃっ!?」


アヤメはあろう事かされるがままだった俺の耳を引っ張り、小さな口でハムッとか嚙みついた。その瞬間、俺の脳天からつま先まで電流が走り抜ける。

獣人にとって耳と尻尾は最も敏感な感覚器官である。通常であれば番にしか許さないその場所を、突然小さな口で噛まれじゅるじゅると吸われてしまい、カッと全身に熱が宿る。

初めての感覚をどうにか堪えていると、ようやくアヤメが奥方様によって俺から引き離された。


「ごめんなさい!アヤメ、何でも口に入れてはダメよ。ユザキ君のお耳はおもちゃじゃないの。」


奥方様に咎められながらも、アヤメの眼はまだ俺の耳に向いていた。呼吸を整え体の熱を逃がしながら思わず耳がペコッと垂れる。もう2度と触らせてたまるか。


「すまないね。今アヤメは何でも口に入れてしまう年ごろなんだよ。しかも…どうやらユザキ君を気に入ってしまったようだ。」


ヒルルク様はどこか楽しんでいるような顔で俺のよだれにまみれた耳を拭いてくれた。両手が使えない俺はこんなことですら自分でできない。お袋が慌ててヒルルク様と替わってくれた。


「まぁ、これに懲りずに子供たちとも仲良くしてくれるとありがたい。」

「…はい。」


ヒルルク様の言葉に俺は静かに返事をした。正直なところ、シリュルはいいがアヤメは遠慮したい…。今まで自分が末っ子だったこともあり、小さな子供や赤ん坊に全く接点がなかったし、どう接すれば良いのかは俺にはまだわからなかった。


これがアールツト侯爵家と俺の出会いだった。


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