28.侯爵令嬢と夜月
『嘘つき!大丈夫って言ったじゃない!!』
泣き叫んだ女性が私の両肩を掴む。
その力の強さに思わず眉が寄った。
そして、感じる痛みが心を抉る。
『医者が言ったから信じたのに…。………信じた……のに……__。』
そのまま力無く膝をついた女性に中途半端に伸ばした腕が、指先が、行き場をなくして宙を泳ぐ。
「…申し訳ありません。」
吐き出す息に乗せて紡いだ言葉は、泣き叫ぶ女性の声にかき消されて、誰にも届くことのないまま消えた。
“申し訳ありません”
医者になってから口にしたのは、この時が最初で……最後だった……。
『返して…。返してよっ…あの人を返してっ…!!』
喉から絞り出した声が心を殴りつける。
大丈夫なはずだった。
何度も繰り返してきた手術で…事前の検査では何の問題もなかった。
『来年の春に式を挙げたいんです。なるべくこいつの腹が目立たないうちに…ドレス、着せてやりたくて。』
手術の提案をした時に彼は言っていた。そして、彼の隣に座る女性は嬉しそうにそっとお腹に手を当てた。そこには確かに“幸せな未来”が存在していた。
「それは素敵ですね。では手術は受けていただけるという事でよろしいですか?」
「大丈夫ですよ。必ず成功させます。」
“大丈夫”“必ず成功させます”
それは確かに私の言葉だった。
そして…二人に存在していた“幸せな未来”を奪い取ったのも確かに…私だった。
『大丈夫って…いったじゃない!!』
女性の声が響いたと思った瞬間、突如女性が大きな獣の姿に変わり私に牙をむいて飛び掛かった…。
っっ!!!?
「…っつ!はっ!!」
目が覚めるとそこは幽閉塔の見慣れた部屋だった。
じっとりと汗ばんだ背中が気持ち悪い。あれは…夢…。でも、正しくは私の前世の記憶。
…初めて私が…命を救えなかったときの…戒め。
「はぁ…。」とこぼれたため息が誰もいない部屋に響いた。
幽閉塔の4、5階は私とお兄様、お父様とユザキ様たちで寝室として使用していた。時計を見ると深夜を少し過ぎている様だった。窓から差し込む月明かりに照らされた部屋は薄暗く、光の届かない暗闇が言い表せない不安を呼び起こす。このままもう一度眠りにつくことができなくて私は部屋をそっと出た。
ギィィ…バタン__。
古びたドアが静かに音を立てて閉まる。
幽閉塔の屋上。何年も人が入ることがなかったそこは月明かりを浴びてただ静かに私を迎えてくれた。
ワクチンの開発を始めてから2週間。未だワクチンは完成していない。狂犬病の感染力を考えれば、一刻も早いワクチンの完成を望まれていることは分かっている。それだけに、成果が上がらない開発に焦りばかりが募る。誰も不満を口にしない。もちろん、今まで様々な研究をしてきたお父様や叔母様、お兄様は時間がかかることを見越していたのかもしれない。それでも、私の中では少しずつ、焦りと不安が顔を覗かせ始めていた。
こうして過ごしている間にも、イスラ王国では感染者は増え続け苦しんでいる人たちがいる。定期報告のために、イスラ王国とやり取りしているユザキ様の姿や護衛の兵士のため息、毎日来てくれる隊長たち…。その全てを見るたびに罪悪感が募っていく。ただ過ぎていく時間がとても歯がゆく…苦しかった…。
“…もし、私が…狂犬病だと言わなかったら…。”
ふと心の中に声が生まれる。
“私が…前世の記憶を頼りにしなければ…狂犬病のワクチンの存在を言わなければ…。”
小さなささやきが少しずつ大きくなって心に響く。
“この世に存在しないワクチンなのに、期待を持たせるようなことを言って、またその期待を裏切るの?”
“また、あの時と同じように「大丈夫」「成功させる」と言って…傷つけるの?”
『嘘つき!大丈夫って言ったじゃない!!』
あの時の女性の髪の色も、香りも、瞳も…今も鮮明に覚えている。そして、瞼から零れ落ちた涙が床に落ちる音も…叫ぶような痛々しい声も__…彼の…最期の心音も覚えている。
おもむろに自分の両掌を見る。
前世の時と違い、まだ小さく若い手。こんな小さな手に何ができるというのだろうか。
アールツト侯爵家という名門貴族に生まれたのに魔力が少なく、一族の絶対的な力である治癒魔法を使役できない。前世の医療知識と技術に頼ったって治癒魔法にはかなわない。そんなことは初めから分かっていたのに…。それでも、前世の知識で対抗しようと必死になって…。今は…前世の知識のせいで、私はたくさんの人を、国を巻き込んで…絶望を与えようとしている…。
「…っ!」
そのまま両掌で顔面を覆った。
何をしているの。私は何をしているの。
医者は神じゃない。
全部の命を救えるわけじゃない。
一人を救うために犠牲にしてきた命がたくさんある。
何を…私は驕っていたの。偉そうに、得意げに
『一人でも多くの命を救いたい!』
なんて高慢で、浅はかで、自分勝手な願いを掲げていたのか…。
…私は、こんなにも無力だ……__。
アールツト侯爵家の名がなければ、誰からも相手にはされない癖に!!偉そうに!!
アールツト侯爵家の人間の証である治癒魔法すら使役できないのに!
無力で、小さくて、情けない…。
顔を覆った指の間から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちる。
歯を食いしばっても、息を止めても、瞼を強く閉じても涙は止まらなかった。
“この世に存在しないワクチンなのに、期待を持たせるようなことを言って、またその期待を裏切るの?”
“また、あの時と同じように「大丈夫」「成功させる」と言って…傷つけるの?”
再び聞こえてきた声に「違う!」そう言い返すことができなくて、ただただ嗚咽と一緒に涙を流した。
…私は……こんなにも無力だ…………___!
「アヤメ…?」
その時、ふわりと風が吹いたのと同時に落ち着いた声が鼓膜を揺らした。
「…泣いて……いるのか…?」
顔を見なくても、その声だけ誰かわかる。なんて返そうか悩んでいるうちに、ふわっと柔らかい何かが私の顔を覆う手を撫でた。
「…一人で泣くには…月が明るすぎるな。」
思いのほかすぐ近くに声が聞こえたと思ったら、今度はざりっと生暖かく湿り気を帯びたネコ科特有の舌が手からこぼれる涙をなめとった。
「俺が隠してやるから、思い切り泣けばいい。誰も見ていないし、誰もアヤメを咎めない。小さな体で、こんなになるまで…よく頑張ったな。」
グイッと伸びた前足に私の背中を引き寄せられて、そのまま、私の前に腰を下ろしていた黒豹のベルベットの様な上質な肌触りの毛皮に全身埋もれた。
貴方が一番歯がゆさを感じているんじゃないの…?私に怒っているんじゃないの?
…どうして、そんなに優しくするの?
「アヤメはよく頑張っているよ。大丈夫だ。ワクチンもすぐに完成するだろう。イスラの民もインゼルの民もみな救われる。…だから、今夜は頑張らなくてもいい。…いくらでも…泣けばいい…。」
くるりと背中に回された尻尾がゆっくりと私の頭を撫でた。
その瞬間、私は耐え切れずに黒豹の太い首に両腕を回して、その大きな力強い肩口に顔を押し付けて、子供の様に泣いた。
『頑張っている』
ひとより魔力の少ない私には当たり前の事だった。いつでも持てる力の全力で…困難に立ち向かおうと必死でもがいてきた。
『頑張らなくてもいい』
初めていわれた言葉だった。本当の私はこんなにも小さくて、無力で、弱い。
自分の言ってしまった事が怖くて、やってしまった事が不安でいつも心のどこかで、これでよかったのか?と不安に駆られている。
そんな私でもいいの?
「…いいさ。…弱くたっていい。泣いたっていい。その分、今よりも強くいることができる。俺はそう信じているし、アヤメを信じている。だから、今は泣け。」
心の中の声に返事が返されたことに驚いたが、続いた言葉が、私にはあまりにも大きくて、温かくて、優しくて。回した腕により力を込めながら、私はまた泣いた。
夜空に輝く月あかりから隠れて、私はしばらく泣き続けた。
今だけは…この黒い世界の温かさに埋もれていたかった。