25.侯爵令嬢と対策会議
*この物語はフィクションです。登場する、医療記述、その他すべては作者の想像であり、実在する物とは異なりますのでご注意ください。
「…狂犬病?」
初めて耳にしたであろうその言葉にイズミ様をはじめとしたフェアファスング公、騎士団長、副騎士団長、クエルト叔父様の顔に疑問を浮かべている。
「はい。幼い頃に読んだ文献で見たのですが、今イズミ様がおっしゃられた症状や進行状況は狂犬病の症状に当てはまります。水を怖がるのは恐らく脳炎症によるものだと思われます。…教えていただきたいのですが、感染した方は全て狂暴化した方に嚙まれていませんか?」
「確かに…発症した者は全て狂暴化した者に傷を付けられた者たちです。」
「やっぱり。狂犬病は保菌者が噛むことによって唾液などから体内に潜入します。そしてそこから一週間で発症し、先ほどの諸症状が始まります。逆に言えば、噛まれなければ感染を防げるという事にもなります。さらに……狂犬病は…。」
思わず言葉を切った。
原因が分かった事に、少しずつ安堵と喜びが生まれているであろうイズミ様へ…私は…。
これから…とても残酷なことを告げる___……。
「発症してしまえば、100%死亡してしまう感染症です。」
イズミ様の目が皿のように見開いて私を見たまま一瞬固まった。そして、この場にいる他の人達もグッと息を詰める。イズミ様は固まった表情のまま、ゆっくりと掠れた声で私に尋ねた。
「…それは……本、当ですか…?」
「はい…。私が読んだ文献では…。さらに狂犬病は……人間にも感染します。」
「なんとっ…っ!?」
今度は騎士団長がグっと身を乗り出し、驚愕の表情で私を凝視した。今まで、獣人だけの話だと騎士団長たちは思っていたのかもしれない。しかし、狂犬病は人間にも感染する。隣国のイスラで感染が広まっているとすれば、このインゼル王国にも危機は迫っている。
「イスラ王国での感染スピードから見ると、長く見積もっても一年以内には我が国にも感染者が出る可能性があります。」
これから起こりうる可能性を告げれば、騎士団長はテーブルの上で大きな拳を握り絞め、フェアファスング公は持っていたペンを静かにテーブルに置いた。その額には無数の汗の玉が浮かんでいる。そんな二人の様子を見れば、申し訳ない気持ちも込み上げるが、今は、狂犬病について正しく理解してもらうことが重要だ。
2人の様子になんとなく気まずさを感じて視線を落とせば、隣に座っていたクエルト叔父様の手がポンッと頭に乗った。見上げれば、この場に似合わない強い笑みを浮かべている。
「良く教えてくれた。戦うためにはまずは相手を知ることが必要だからな。」
「叔父様…。」
「それに、アヤメの仮説は…このまま何も対策が施されなければの話だろう?」
「…え?」
言葉の意味を理解しきれず首をかしげる私に、クエルト叔父様はゆっくりと視線を外してお父様に視線を送る。視線を受けたお父様は肯定するように無言で頷いた。そして、お父様はまるで子供が悪戯を思いついたような得意げな顔で私を見る。
「感染症の正体がわかれば…打てる手立てはある。」
「お父様…!」
「僕もお手伝いします。アヤメのおかげで敵は知れましたから。」
「お兄様…。」
「アヤメ、狂犬病への具体的な対策や感染後の処置はわかるか?」
お父様に尋ねられて、一瞬考える。狂犬病は人間にも感染する為、前世では飼い犬にはワクチンの接種が義務付けられていた。それを考えればワクチンは有効手段になる。狂犬病が存在しないこの世界では、もちろん狂犬病のワクチンは既存しないが、狂犬病が生まれた今、不活化狂犬病菌が手に入れば…作れないことは無いかもしれない。
「対策はあります。…狂犬病の菌にあらかじめ感染しておくことです。その為に狂犬病菌でワクチンを作る必要があります。」
「あらかじめ感染する?…ワクチン?」
私の言葉を理解できなかったフェアファスング公が今度はお父様に説明を求めた。
「ワクチンとは、狂犬病の菌を不活化して毒性を除いた物の事だ。それを体内に取り込むことでわざと感染し、狂犬病の菌に対しての抗体を体内で作り出す。少し、狂犬病の症状が出るかもしれないが、一度感染してしまえばそれほど重篤な物にはならないで済むだろう。不活化しているので複数回体に菌を取り込む事は必要だろが…感染の拡大を止める手だてにはなるやもしれん。」
「父上、狂犬病菌の毒素を取り除けるのであれば、そこを応用して抗毒素を作れる可能性もあります。発症してしまうまでは一週間の猶予があるという事なので、その猶予期間にその抗毒素を投与できれば、発症を免れるかもしれません。」
「…お父様、お兄様、可能性は大きいです!さらに、文献ではただの動物での話でしたが今回の感染者は獣人。もしかしたら発症後でも何らかの効果が期待できるかもしれません。」
お父様とお兄様の話を聞いて興奮した私は、思わず二人の会話に口をはさんでしまったが、お父様とお兄様と私に頷いてくれる。絶対とは言い切れないが…試してみる可能性はある。だってここは異世界。前世とは全てが違う世界なんのだから。私の前世の知識が通用することがあるとすれば、良くも悪くも前世の知識が通用しないことがあってもおかしくはないはずだ。
クエルト叔父様も私たちの話には賛成の様で身を乗り出してお父様に声をかけた。
「細菌や感染症の事なら姉上に相談してみてみてはどうだろうか。姉上なら専門分野だろうし、この手の新しい物には食いつくはずだ。」
「アンリか…。そうだな急ぎ連絡をしてみよう。」
アンリ…。お父様の妹でクエルト叔父様のお姉さま。そして私の叔母に当たるアリエッタ・レットレール侯爵夫人は、この国の高等教育機関「インゼル高等学園」の理事長であり、細菌学の研究者でもある。叔母様が一緒にワクチンを開発してくれるのならこれほど心強いことはない。なんせ、今感染症として発表されている物の半分は叔母様の研究によって発見され、感染対策が施されているのだから…。もし、今回のワクチン開発が成功したら、前世の時の様に赤ちゃんの頃からの予防接種のような感染対策も実現できるかもしれない。
お父様は私たちの会話を聞きながら呆然としているイズミ様の手をとった。突然のお父様の行動にイズミ様の嘴がカチカチ揺れる。
「イズミ殿…。我々アールツト家は同盟国であるイスラ王国の為に、妻の恩人であり、娘の名付け親である貴方の為に、全力でご協力します。この国で最古の貴族といわれる我が一族の力、とくとご覧ください。」
「アールツト侯爵殿…。」
ありがとう。
とイズミ様が少し潤ませた鋭い瞳でゆっくりと瞬きした。
「では、取り急ぎ、アールツト侯爵殿達にはワクチンの作成に取り掛かっていただきましょう。必要な物や手続きがあれば何でもおっしゃってください。私にできることであれば協力は惜しみません。」
フェアファスング公は言葉こそは丁寧だが、その表情は明らかに宰相のものとは違う一人の友人としての顔だった。さきほどとは違い、その顔には生気が溢れやる気がみなぎっているように感じる。
「感謝する。まずは、研究所を用意してもらいたい。ワクチン開発には危険を伴う。しっかりとした感染対策と設備を備えた場所が欲しい。危険性を考えれば我が屋敷や公の場などは避けたい。」
「承知しました。至急用意をしましょう。必要な機材があれば書き出してください。」
「ああ。すぐに用意できない物は我が屋敷から運ばせよう。すぐにスチュワートに連絡をして用意させる。」
「そうですね。薬剤に関しては城の備蓄を出しますか?」
「いや、それだと万が一の場合に王家への対応に不備が出る可能性がある。そちらも我が屋敷で用意しよう。フェルならすぐに用意できるはずだ。」
お父様とフェアファスング公の話がどんどん進んでいく横でクエルト叔父様が騎士団長と副団長へ視線を向ける。
「私からも、騎士団長へよろしいでしょうか。」
「なんだ。」
「明日より、しばらくの間、シリュルとアヤメの騎士活動を一時中断させていただきたい。二人はまだ幼いですが、彼らの知識と腕は必ずワクチンの開発に役立つはずです。」
「いいだろう。念のため騎士団から、研究施設の警備と護衛を兼ねて何人か派遣しよう。人選はこれから騎士棟に戻り次第行う。隊長格は全員参加になるので他の隊長たちにも伝えてくれ。」
「はっ。」
「宰相殿。騎士団で国境の警備を強化させていただきたく、その許可を陛下に急ぎお取りしていただきたい。アヤメ嬢の話では狂犬病は人間にも感染するとのこと。アラケトル参謀総長殿には申し訳ありませんが…我が国へ感染者やイスラの民を入国させることはできません。その代わり、イスラ王国への必要な物資の搬送や支援は騎士団で責任をもって取り組ませていただきます。」
「わかりました。ナンバー騎士団長。この話し合いが終わり次第陛下へ進言してまいります。アラケトル殿、私からも非礼を承知で国境警備の強化とイスラ王国からの獣人の入国を一時止めさせていただく旨、なにとぞご容赦いただきたくお願い申し上げます。」
フェアファスング公は恭しくイズミ様へ礼を取った。それに倣うように騎士団長を先頭にインブル副団長とクエルト叔父様が跪く。
人間への感染の可能性があると知った今、イスラ王国と我が国間の出入国は停止するのが得策だ。イスラ王国からしたら不名誉な話であるのは騎士団長もフェアファスング公も十分わかっているのだろう。下手をしたら外交問題に発展して同盟に亀裂が入る可能性もある。
「承知しました。今回の件で、無理を承知で協力を求めたのはこちらのほうです。感染症の正体がわかり、その対策としてワクチンの作成までしていただけるという事ならばそれくらいの事何の問題もありません。私のほうでもできる限り協力はさせていただきます。」
イズミ様は柔らかな表情をフェアファスング公と騎士団長へ向けた。ありがとうございます。と感謝を述べる二人に軽くうなずく。
「我が国からのイスラ王国への入国も騎士団以外は原則禁止にします。また、現在イスラ王国にいる我が国の民の状況と安否確認を行い、しばらくはイスラ王国での滞在命令を出せるように、含めて陛下へ進言しておきましょう。」
「承知いたしました。迅速に動けるように騎士を用意しておきます。」
フェアファスング公とオッド騎士団長の会話を横にイズミ様は私の肩にそっと手を乗せた。鋭い爪のある指を肩に乗せられ、本能的な恐怖に背筋かこわばる。
「アヤメ。あなたのおかげでイスラ王国に…私たちに希望が見えました。あなたに贈ったアヤメという名は植物からとったものです。花言葉は『希望』と『良い知らせ』…。本当にその言葉の通りに私たちに希望と良い知らせを運んでくれましたね。心から感謝します。」
「いえ…そんなことは…!」
突然の賞賛にほんのり頬が熱くなる。恐縮して慌てる私に鷲の顔でイズミ様はほほ笑んで、頭を数回撫でてくれた。
「私のほうで何か用意する物はありますか?この後すぐに知らせを飛ばして、必要であれば明日の昼にはこちらに届けさせるように手配をします。」
「ありがとうございます。まずは、不活化狂犬病菌が必要になりますので感染者の血液を発症前と発症後、成人から子供、男性女性と複数ありましたらありがたいです。それから、感染してから死亡までのできるだけ詳しい治療報告書を数名分いただけると助かります。ワクチン完成後は治験が必要になりますので、またその際に必要なものをお願いすることになると思いますがよろしいでしょうか?」
「もちろんです。すぐに手配いたしましょう。」
「ありがとうございます。あと、感染対策ですがまずは噛まれないことです。そして、噛まれた場合は他の獣人の方とは隔離して必要以上に近づかないことをお勧めいたします。」
「わかりました。…本当に…まだ幼いというのに優秀なのですね。幼きフェルを見ているようで懐かしい気持ちになりましたが、フェルとは違う知性を感じます。きっとアールツト侯爵殿のものなのでしょう。」
「あ、ありがとうございます。」
まるで孫を見るような優しい笑みに恥ずかしくなって視線を逸らす。お父様とお兄様そしてクエルト叔父様はどこか嬉しそうに私たちの様子を見守っていた。
さらにその後、イズミ様はお父様やフェアファスング公、騎士団長と話し合いを重ねた。
「私は明日の早朝イスラへ戻りますが、明日の昼、遅くても夜までには今言われたものを信頼できる者にこちらに届けさせます。」
「よろしくお願いいたします。」
「アヤメ…落ち着いたらぜひイスラへ遊びに来てくださいね。あなたにも、我がイスラ王国を、フェルが見た景色を見てもらいたい。」
「是非!私もいつかイスラにはいってみたいと思っていました。その際はお母様の思い出もたくさん教えてください。」
「ええ。もちろんです。…ただ、イスラに来る際は必ず…ご両親の許可と正式な手続きを踏んで入国してくださいね?」
約束ですよ。
と変に念を押されてしまい、どういう事かとお父様を見るときまりが悪そうに視線を逸らされ、クエルト叔父様はクスクスと肩を揺らしていた。
…どうしたのかしら…?
そうして、私たちの対策会議は幕を閉じた。
そしてこれから…私たちの戦いが始まる。