15.公爵子息は思う
「天気に恵まれてよかったですね、レヒト様。」
その日は、騎士団に入団してから定期的に訪れる休日だった。馬車に揺られながら窓の外を覗いたカイルが俺に振り返る。
「ずいぶんはしゃいでいるな。」
「それはそうですよ。騎士団へ入団されてからほとんど兵舎に泊まりっぱなしで、めったに屋敷に帰ってこないレヒト様がお帰りになっているのですから。」
確かに騎士団へ入団してからは併設されている兵舎に寝泊りをしているが、それでも、こうして休みの度に頻繁に帰っているのだからそこまで久しぶりでもないはずだ。否定しようとしたがカイルが余りにも嬉しそうなのでそのまま触れずに話を進める。
「まぁ、母上の誕生日も近いしな。注文していた品を見るのが楽しみだ。」
「そうですね。きっと素晴らしいものが出来上がっている事でしょう。」
母上の誕生日に合わせて注文していた品物を取りに行く途中その事故は起こった。
ヒヒーンッ!!
馬の悲鳴と共に抗えない力で馬車ごと横に倒れ、その直後に何かが体にぶつかって、焼けるような痛みの後、私は意識を失った。
真っ暗な世界。
頭も腕も全身が痛い。
「大丈夫ですか?」
誰だ?
暗闇の世界に少女の声がする。
「手を握れますか?」
手…?
動かしてみたが鋭い痛みでほとんど動かせない。それでも。小さな何かが私の手をしっかりとつかんだ。
誰だ?
思考がまとまらない頭は何も思い浮かばない。また、意識を手放しそうになったところで鋭い痛みに襲われる。思わずうめき声がこぼれるが、グイグイとまるで傷を押さえつけるような力に痛みが増す。
「頑張って。今止血しています。もう少しです。」
またあの少女の声だ。
…止血…?
それを最後にまた意識が遠のいていった。
…あの少女は…誰だ…?
次に目が覚めた時に目に映ったのは白い天井だった。
騎士団の部屋とも屋敷の自分の部屋とも違うその天井は見覚えがない。
「レヒト様?!」
突然視界にカイルが飛び込んだ。頭に包帯を巻いて右の頬の青あざが痛々しい。
「カ…イル…?」
声を出したが酷くかすれている。
喉が渇いた…。
痛みは感じないが、体を動かすのがひどくだるい。
「レヒト様!!よかった…意識が戻られたのですね…!」
みるみるカイルの瞳に涙が溜まって言った。
「ここ…どこだ?」
「ア―ルツト侯爵家の治療院です。馬車の事故にあい、その後こちらにて治療をしていただきました。アールツト侯爵様が直々に診てくださって、もう心配はいらないそうです。…旦那様も奥様も本当に心配しておりました。レヒト様がお目覚めになられた連絡をしますので、すぐにこちらにもお見えになるでしょう。」
「そ…うか。」
事故の前の記憶が断片的によみがえり自分の状況が徐々に理解できてくると、あの少女の事が気になった。
「あの…少女は?」
「少女…?ああ!アールツト侯爵令嬢殿の事ですね。あのお方の応急処置がよかったから、助かったと医師が言っておりました。ドレスも汚してしまいましたし後ほど御礼にうかがわせていただこうと思います。…今は、ゆっくりお休みください。」
カイルの言葉に浮かんだのは未だ会ったことはないアールツト侯爵令嬢の姿だった。アールツト侯爵令嬢と言えば「治癒魔法が使えない落ちこぼれ」だと噂で聞いたが…。
確かに私を助けてくれた。
…治癒魔法が使えないのに…どうやって…?
事故から数日もすれば体はもうすっかり元通りになった。アールツト侯爵が直々に治療してくれた事も大きいと思うが、私の頭はあの時助けてくれた少女の事でいっぱいだった。
そして、カイルからアールツト侯爵令嬢への失言の報告も受け絶望した。
…なんという事だ…。
命を助けてくれた恩人に、一番傷つけることを私の執事が言ってしまった。気が動転していたとはいえ、自分の使用人の失態は私の失態。すぐさま謝罪とお礼にアールツト侯爵家へ訪問の許可を願い出たが、丁重に断られてしまった。
噂の事もあってか、アールツト侯爵殿はご令嬢を公の場に出す事を避けている節があると、社交界でたびたび聞いていたが、どうやら本当のようだ。
せめて汚したドレスの代わりに…と母上に相談して、カイルに言いつけて少女やご婦人に人気の店で上等のドレスを贈らせてもらったが、返事はもらえないまま、母上の誕生祭に出席するという知らせを受けた。
当日、前日から屋敷に帰っていた私は早々にアールツト侯爵令嬢を迎えようとサロンに顔を出していたが、同年代の令嬢たちにつかまってしまった。いつものようにあしらってもよかったが、令嬢たちはみな母上が仲良くしている夫人達の娘。手荒なことはできない。
だいぶ時間がたった後、アールツト侯爵令嬢を追って庭に出る。
目に飛び込んだのは、令嬢とサーチェス殿が仲睦まじく話をする姿だった。男の私から見ても美しいと思う顔に優しい笑みを作ってアールツト侯爵令嬢の頭に手を置いたサーチェス殿を見た瞬間、チクリ。と何かが胸を刺した。
この痛みはなんだ?
サーチェス殿と入れ替わるようにして、やっとアールツト侯爵令嬢の前に立つ。白いベンチに黄色いドレスを揺らして座っていたのは、想像よりもはるかに幼い少女だった。
そのあまりの小ささに、自分を助けたのが本当にこのご令嬢なのかと疑問が生まれる。確かに髪と瞳の色はアールツト侯爵殿と同じのようだが…。
「ひえっ!」
私を見たとたんに怯えて声を上げた令嬢を見て慌てて膝をつく。怯えさせないように努めて優しい声をかければ、どこかほっとしたように令嬢がほほ笑んでくれた。
その様子にほっとしながら、話をしていくうちに幼い容姿とは裏腹に中身はとてもしっかりとしたご令嬢なのだと実感した。見た目こそ幼いがその仕草や話し方は淑女の様で変な錯覚を覚えてしまう。
「…ありがとうございます。フェアファスング様は立ち居振る舞いもとてもご立派で、私のほうが学ばせていただくことが多いです。まるで物語から抜け出た貴公子の様で素敵ですね。」
ふわりと花のような笑みを向けられて、カッと頬が熱くなる。思わず手で顔を覆って顔をそらした。今まで多くの令嬢から言われた言葉でもあるが、なぜかこの幼い令嬢に言われると顔が熱い。
「レヒト様。」
名前で呼ばれてしまえばついに耐え切れなくなって両手で顔を覆ってうつむくしかできない。わずか9歳の令嬢の一言一言にここまで赤面させられるのは初めてで情けないがどうしようもできない。
カイルの登場で何とかそれ以上恥ずかしい姿をさらさなくて済んだが、急速に笑顔を失っていくアヤメ嬢の姿に今度は心が痛んだ。
今にも泣きそうな顔に無理に笑みを作って…。
幼いながらに気を使わせてしまったのが悔しくて腹立たしくて…。
今にも逃げ出しそうなアヤメ嬢の小さな手を思わずつかんだ。
…そうだ、この手だ…。
暗闇の中でしっかりと私の手を握ってくれたのは…この小さな手と温もりだった。
「…アヤメ嬢は私の命を救ってくれた。これだけは変わらない事実だ。どうかそのことを忘れないで欲しい。」
これだけは伝えなければ!
とっさに告げた言葉に彼女はびくりと肩を揺らしたかと思うと、私の手からするりと抜け出しそのまま去っていった。
小さくなる背中を見ながら、アヤメ嬢に触れた手を見る。
…そして、グッと握りしめた。
次こそは…二度とあんなふうに悲しませたりはしない…。
吹き抜ける風の中私は心の中で小さく誓った。