116.侯爵令嬢は考える
よろしくお願いします。
騎士団の訓練でボロボロになった体を引きずり、ようやくカンナの所に戻ればタケとウメが出迎えてくれた。
「なんで?お前たちがいるの?」
今朝は屋敷に置いてきたはずの二匹に驚けば、バサリと重そうな音と共にクユル様が隣に降り立った。
「俺がアールツト侯爵殿に頼んで送ったもらったんだ。」
「クユル様が?…なぜ?」
ウメとタケはアールツト侯爵家の紋が刺繍された首飾りをしているが、一般市民から見ればダイアウルフは巨大な狼だ。大人よりも大きなオオカミが二匹も並んで街道を走れば市民は恐怖し混乱するに決まっている。真夜中に私を捜索した時とは違い、今は夕暮れ時。帰宅する人々が一番多い時間帯なのに。
「アヤメ嬢の護衛として最善を考えた結果だ。馬だけでは危険がないとは言い切れない。騎士団とアールツト侯爵邸の行き来には私も同行するが、それでも不安は残したくなかった。フェアファスング宰相閣下とアールツト侯爵殿からは了承を得ている。」
…私の知らないところでそんな話が出ていたなんて。
「…それほど私は危険な状況なのでしょうか?」
一度起きてしまった事を二度と繰り返さないために策を練るのは当たり前だ。でも、これはやりすぎのような気もする。
『国内にはアヤメ嬢を狙う自国民がいるという事。今回は無事に救出されケガもありませんでしたが今後も絶対に同じことがない、とは言い切れません。さらにアヤメ嬢の功績と知識を知った者たちは国内外問わず、騎士団内、貴族内からもアヤメ嬢を狙ってくる可能性があります。そうなった場合、力不足で申し訳ありませんが、今はアヤメ嬢の安全を約束できる保証はない。』
イスラ王国への留学の話をしてくれた時のフェアファスング様の言葉がよみがえる。
誰かから命を狙われる。外国人ではなく、自国民からも。今までもアールツト侯爵家の血を引く女としてそういう事があるということは理解していた。そう、「理解」していただけだった。頭でわかっていても実際に体験すると恐怖の感じ方が全く違う。
療養中は体を治す事とアルの事、エルフの事、精霊の事、様々なことで頭がいっぱいだったが、改めて考え出すと恐怖に似た不安が押し寄せてきた。
ケインとカインは騎士団の従者だった。騎士団という絶対的な力の中にも私を狙うものが潜んでいた。…誰を信じて…誰を疑えばいいのか…?考えれば考えるほど心が不安定になってしまい、誰もが怪しく思えてしまう。
「…怖いか?」
ふと静かな声が落ちた。ゆっくりと視線を上げれば猛禽類の真っ直ぐな瞳と重なる。
「…はい。」
この方は対戦を最前線で戦い抜いた猛者で英雄と言われる最強の戦士だ。素直に肯定したが、情けないと思われるだろうか。
「それでいい。」
「え?」
予想外の言葉に思わず聞き返せば、クユル様がわずかに目を細めた。
「自分が誰かから狙われること。相手がどこに潜んでいるかわからない事。誰もが怪しく見える事。その全ては間違えてはいない。それが人間として正常な判断だ。」
クユル様の言葉の真意が見えずに黙って続きを待つ。
「我が隊長は、アヤメ嬢に普通の人間の暮らしをさせてやりたいと望んでいた。同年代の子供たちと外で遊び、自由に街に出かけ、大声で笑い、幸せに床に就く。今までのアヤメ嬢の立場ではどれも難しい事だったと話に聞いた。…隊長は自分の目が届くところにいるうちは、普通の少女が当たり前に享受する感情や体験をより多く受け取ってほしいと言ってきた。だから、このような状況に慣れる事はない。そうやって恐怖に感じることは恥じる事でも情けないことでもない。その恐怖や不安を払拭するために俺たちがいるのだから。」
そっと風が頬を撫でた。夕焼けに染まった空から降りてきた風はどこか懐かしい夕食時の家庭の匂いが混ざっていて、鼻の奥をツンと痛くする。
ヒガサおじさんがそんなふうに考えていてくれたなんて…。
『影は、いつでもそばにある。俺はいつでもアヤメを…見守っている。』
去り際に残してくれた言葉が胸をジンッと温かくしていく。
「…帰るか?」
しばらく私を見下ろしていたクユル様が正面に顔を戻した。ばさりと両翼を震わせれ場それに合わせるようにタケとウメがピンと耳を立てる。
「はい。…よろしくお願いします。」
丸まった背中をまっすぐに伸ばし、お腹いっぱいに空気を吸いこんだ。ぐっと力を入れて胸を張り、肩にかけた医療バッグの紐を両手でつかむ。
大丈夫。
私は、もう、一人じゃない。
心の中で静かに告げれば、聞こえていないはずのクユル様が穏やかに微笑んでいた。
騎士団へ通う日々を続けながら、時間を見つけてはアルシナシオン島でエルフたちを襲った病気について調べる日々が続く。こうしている間にも多くのエルフが倒れ、それを癒すために精霊が消えている。わずかな焦燥感は日に日に強くなっていて、アルシナシオン島の事を心配するプルシアンの聖獣の少女も落胆が強くなっていた。
その姿に駆られるように毎日大量の医学書を読み漁っているが、腹痛と発熱、発赤疹だけでは病名の候補があまりにも多すぎることが病気の診断を遅くしていた。
やっぱり、直接行って診察したほうが早いのかもしれない。
フェアファスング様から留学のお話をいただいた次の日から、イスラ王国への留学の準備は滞りなく進められ、私はクユル様の帰国と同行してイスラ王国へ向かうことになっている。私に残された時間はクユル様が帰国されるまでの残り一週間。それまでにできれば病名を突き止めて対策と治療法を確立しておきたい。何しろ、アルシナシオン島は人間の上陸を許さない孤島なのだから。
コンコン
深夜を少し回ったころ自室のドアをノックする音に私は医学書から視線を上げた。ノックの音が二回ということは使用人ではなく家族のだれかだろうか?スチュワートは使用人たちへの教育を徹底しているため、ノックの回数を間違えるなんてまずありえない事だから。
「はい。」
「私よ。入ってもいいかしら。」
ドア越しに聞こえてきたのはお母様の声で返事で入室を促した。美しい所作でやって来たお母様はいつものドレスとは違い、夜着にガウンを羽織っている姿で手にはカップとポットを持っていた。
「まだ、続けるの?」
机の上に広げられた医学書や走り書きのノートに視線を落としてお母様が呆れたように笑ってポットとカップをソファセットのローテーブルに置いた。
「…はい。少しでも手掛かりが欲しくて。」
「本当にそういうところはお父様そっくりね。」
「お父様もですか?」
「ええ。あの人も何とかして手掛かりを見つけたいと言ってね。今日は王城に泊まり込んでお城の秘蔵書庫を見るそうよ。」
『城の秘蔵書庫』それは基本的に閲覧禁止であり、閲覧の為には国王の許可がいる。さらに書庫内での行動も厳重に監視され、その書物を外部に持ち出すことも書き写すことも禁止されている。一般なら、閲覧許可申請を出して許可が下りるまで一か月以上かかると言われているのに、この二、三日で許可が下りるなんて…。流石アールツト侯爵家当主。
「お父様らしいですね。」
「フフフ、そうね。」
書庫で沢山の本の山を作りクマのように体を丸めて机にかじりついているお父様の姿が浮かんで思わず笑った。
「私も、少し調べてみたのよ。」
お母様はそう言ってガウンのポケットから折りたたまれた古い羊皮紙を取り出した。何十年も前の物と思われるそれは、黄ばみや汚れが多く折筋が重なる部分は少し破れている。お母様はゆっくりと慎重にその羊皮紙を机の上に広げた。
そこには、幾つもの植物や動物が描かれ、その横にはイスラ語で名前と説明文のようなものが書かれていた。
イスラ語は幼い頃からお母様に教えてもらっていたのでほとんど理解できる。しかし、そこに書かれている文字はよく知っているイスラ語とは違い象形文字のような特徴を持つ文字も多く書かれていた。そして、所々文字がつぶれてしまい読めない部分もある。
「…アルシナシ…オン…島の動植物…一覧…?」
「あら、よく読めたわね。昔のイスラ文字も多く使われているのに…。」
「なんとなくその前後の文から推測しました。でも、どうしてアルシナシオン島の動植物一覧があるんですか?精霊に気に入られた者しか入れない島なのに。」
アルシナシオン島の生態系は今までどの書物にも載っていなかった。空想や想像で描かれた物ばかりで見てもすぐに飛ばしていた。誰が、どうやって作ったのか?それもこんなにも詳細に…。
私の問いにお母様は柔らかく微笑んだ。
「昔ね、師の書斎から少し拝借したのよ。」
「え?」
悪戯が発覚した子供のように微笑んだお母様はどこか懐かしむように視線を遠くに向けた。
「イスラ王国に滞在している間にアルシナシオン島の事も気になって、私なりに調べてみたの。インゼル王国よりもイスラ王国のほうがアルシナシオン島に関する書物が多くてすぐにのめり込んだのだけど、どうしても島の全体図が見つけられなかったのよ。それで、師に尋ねたのだけど、『そんなものはありません』って何も教えてくれなかったわ。…だからね、師の留守を狙ってヒガサとコウカ殿下…いえ、陛下と一緒に書斎に忍び込んだのよ。」
遠い日の思い出を物語のようにお母様は語った。…どうや昔は相当なお転婆だったらしい。
「その時にちょっと拝借したの。本当は全体図が良かったのだけどこれしか見つけられなかったのよね。…多分、イスラ王国でも唯一の物だと思うわ。」
さらりと言ってのけたお母様に若干身を仰け反らせる。国の唯一を簡単に持ち出してしまったの?しかも他国に?所有者に黙って?衝撃に言葉をつまらせる私に視線を戻したお母様はウフフと笑う。
「ちょうどいい機会だからアヤメから師に返してもらえないかしら?遅くなって申し訳ありませんと一緒に伝えて頂戴。」
「えぇ!?私がですか?」
「そうよ。アヤメだったら師のゲンコツが落ちることもないでしょうし。あの大きな白鷲の手で落とされるゲンコツって物凄く痛いのよ。」
いや、知らんがな。
そもそも、イズミ様からゲンコツをもらうことをしていたお母様が悪いのでは?喉まで出かかった言葉を飲み込み、とりあえず視線を落とす。
アルシナシオン島はイスラ王国とのみ交流がある島だから、イスラの獣人だったら上陸が出来たのかもしれない。事細かに動植物の詳細が書かれたそれは、どの書物にも載っていない事ばかりが記されていた。
「少しでも役に立つといいのだけれど。私は留学に合わせて必要になりそうな医薬品を用意しておくわ。何か必要になったら早めに教えなさい。」
お母様はさっそく夢中になって一覧を読んでいる私に告げると、つむじに口付けを落として静かに部屋から出て行った。「おやすみなさい。」ドアに消える背中からそんな声を聞いてハッとして顔を上げるがその時にはもうお母様の姿は無く、私は閉まったドアに小さく「ありがとう」と呟いた。
私一人が大変なわけじゃない。狂犬病の時もそうだった。私には力を貸してくれる人達がいる。何時だって背中を押して見守ってくれる人達がいる。そのことが、焦燥感に震える胸を優しく温めてくれる。
少し休憩しよう。
お母様が持って来てくれたポットから紅茶をカップに入れて、ソファにだらしなく座りながらカップを片手にもう一度アルシナシオン島の動植物一覧に目を通した。前世の世界でも見たことあるような植物や動物もあるが、ほとんどは見たことがないような物ばかりだ。そして読み進めていく内に一つの項目に目が留まった。
懐かしい。
初めてその柄を見た時にそう思った。ただ…それだけだったのに…。次の瞬間には私はソファから立ち上がっていた。そして、机の上に広げられた幾つもの医学書を片付けて、引き出しの一番奥から施錠された木箱を取り出し、首に下げていた犬笛と一緒にぶら下がる小さなカギを取り外し箱を開錠する。そして、その中に入っている何冊もの冊子の中からお目当ての一冊を取り出しページをめくった。私以外の人間の目に触れることが決してないように厳重に保管しているこれは、私の前世の医学知識を書き留めて纏めた冊子達だった。
「あった…これだ!」
お目当てのページにたどり着き冊子に書かれた文章と手に持っていた羊皮紙を何度も見比べる。…間違いない。きっとこれが、エルフたちを襲った病気の正体だ。
東の空が赤らみ始めるころ私はお父様に遣いをだした。
『アルシナシオン島で蔓延している病気の正体を掴んだかもしれません。』
という一文を持たせて…。
太陽が昇り、朝を告げる鳥の鳴き声が遠くに聞こえるころお父様が早馬に乗って屋敷に戻って来た。
そこまでは想定内だったが、なぜか一緒にフェアファスング様とクユル様もやって来たことに驚きを隠せない。朝食の席で焼き立てのパンを頬張ろうと口を開けた体勢のまま、勢い良くあけ放たれたダイニングドアに固まってしまった事は最近思い出したくない事ランキングの上位を占めるだろう。
朝食を早々に済ませて、お父様たちと応接室に移動した私は一人用のカウチに座り、テーブルを挟んで両サイドのソファセットに座った両親とフェアファスング様、クユル様へ告げた。
「アルシナシオン島でエルフたちを襲っている病気は寄生虫によるものではないかと考えました。」
「寄生虫!?」
私の言葉に素早く反応したお父様は手元に置いてあった資料をぱらぱらとめくりだした。それを横目にフェアファスング様は話の続きを無言で促してくる。
「アルシナシオン島は孤島です。限られた者しか上陸できない島で、精霊の加護により感染症に罹らないという事なので感染症ではなく自己免疫不全などの方向から病気の特定にあたっていましたが、昨夜母からこちらをいただいて考えに至りました。」
テーブルの上にアルシナシオン島動植物一覧を置くとお母様以外の視線が集中した。
「すごい!これは!こんなものは初めて見るぞ。」
「ずいぶん古いものの様ですね。…とてもよくまとめられている。」
驚いて興味深く見つめるお父様と慎重に読み進めるフェアファスング様を見ながら、私は動植物一覧の一つの項目を指さした。前世の日本でも昔はこの寄生虫によって苦しめられた人たちが多かった。
「今回のエルフの病気の原因はこれです。」
そこにあるのは小さな巻貝の絵だった。一見するとなんの変哲もないただの巻貝に見えるが…。
「このミナイリ貝という貝に感染していた住血吸虫が水中でエルフの皮膚から侵入し寄生したものと考えます。」
静かに告げた私はじわりと背中に嫌な汗がにじむのを感じた。
誤字脱字報告ありがとうございます。
更新を楽しみにしていただいてる読者様に心より感謝申し上げます。