閑話 騎士隊長とアールツト侯爵家
閑話です。
アヤメが部屋を出た後、ヒルルクとエンフェルメーラの2人と共に談話室に残ったテオに、ゆっくりとヒルルクが語りかけた。
「叔父上の件だが…君が最初にアヤメを守ってくれたとクエルトから聞いた。」
ヒルルクが叔父上と呼んだ人物の顔が浮かびテオの眉間にわずかに皺がよる。
傷つき、疲労困憊のアヤメをいきなり殴り倒し、さらには杖で叩こうとしていた老人の姿はテオの記憶に腹の底から沸き立つような怒りと共に今でも鮮明に残っている。
あの時、あの場にオッド団長たちが居なければ、たとえ爵位があろうとも、この国で唯一の名を背負っていようとも……自分は、きっと完膚無きまでにあの老人を叩き潰していただろう。
「…出過ぎた真似をしました。ご無礼を、お詫びいたします。」
実家を出たとはいえ、伯爵家の名を背負っている以上、有力権力者であり上位爵位の辺境伯への自分の態度は不敬にあたる。そう思い謝罪したが、テオは真っ直ぐにヒルルクを見つめ、一度息を吐いた後しっかりとした意思を持って告げる。
「……ですが、私にはあのままご令嬢が傷付けられる姿を見る事が…耐えられませんでした。」
それはテオの本心だった。
ここで告げてしまえばヒルルクの不評を買う恐れもあったが、それでもテオは自分の事を偽ろうとは思わなかった。むしろ目の前にいるのがアヤメの両親であるからこそ、しっかりと自分の気持ちを伝えたかった。
その言葉を聞いたヒルルクは一瞬だけ瞼を見開いた後、グッと何かを堪えるかのように息をつめた。そして、ゆっくりとテオの肩に手を乗せる。
「…君が……テオ隊長が…あの場に居てくれてよかった。」
「…!?」
「無礼だなんてとんでもない。私を始め、妻もクエルトも君には感謝しているんだよ。」
ヒルルクがそう言って目配せをすれば、すぐ横に控えていたエンフェルメーラがゆっくりと頷いた。
「アールツト侯爵令嬢として外から見ればアヤメは何不自由なく、幸せで満たされた生活をしているのかもしれない。しかし、あの子は幼い時から数えきれないほどの苦しみと悲しみを味わって生きてきた。…全てが治癒魔法のせいとは言わないが…アールツトと言う名がアヤメを傷つけていた。しかし、その事を知っていて……私は、それでも…………、あの子を手放すことが出来なかった。」
いつの間にかアヤメと同じ紫の瞳が悲しみを滲ませていた。
この世界で唯一の治癒魔法を使役する、国の至宝と呼ばれる一族の当代の言葉は深くテオの心に響いた。
エンフェルメーラがそう思った様にヒルルクもまた、父親として我が子の幸せを願うからこそ、一族の証明と言われる治癒魔法が満足に使役できない娘の冷遇に心を痛めていた。娘の幸せを願えば、手放し、アールツトの名から解放してアヤメに普通の子供と変わらない幸せな時間を生きていって欲しいと思った事はある。
しかし、……できなかった。
一瞬、躊躇ったように顔を歪ませたヒルルクはそれでもテオから視線を逸らすことなく口を開く。
「アヤメを…愛しているからだ。」
愛しているからこそ、手放すことはできなかった。離れていてもどこか遠くの地で幸せならば…そう思っても、自分と愛する妻によく似た愛おしい娘、亡き妹の面影を持って生まれて来たアヤメを……手放すことはできなかった。
「…自分勝手な思いだとはわかっている。…だからこそ…私達はあの子を守り、アールツトの名を背負いながらでも、生きていける強さと知識を与えてきた。どんな困難にも立ち向かい、例え打ち拉がれても立ち上がり、真っ直ぐに自分の信念を貫ける様にと願い導いてきた。…ただ…アヤメは昔から私達に弱音を吐いたり、悲しみ苦しんでいる姿を見せてはくれなかった。心優しいあの子の事だから、きっと私達を思ってのことだろう。…だから、あの子には辛く苦しい時に守り、弱った時に支えてくれる存在が必要だと私は思っている。」
肩に置かれた手が離れゆっくりとテオの正面に立っていたヒルルクが頭を下げた。
「アヤメが苦しみ傷ついた時に…あの子を守り、支えてくれて……ありがとう。」
それは、大貴族ではなく、ただ1人の父親の姿だった。静かに紡がれた感謝の言葉は柔らかくテオの心に届きゆっくりと染み渡る。
ヒルルクからの心からの感謝を受けたテオは、静かに片膝を床に突き胸に手を当てて力強く紫の瞳を見上げる。
「どうぞ、頭を上げてください。私は私の思いのままに行動しただけです。…私は爵位もなく若輩で未熟ですが…もし、お許しいただけるのなら、私の全て…でこれからも彼女を守り支えていきたいと思っています。」
自分が生涯アヤメの隣に立てたらと願うが、アヤメの婚約者が誰になるのか、生涯の伴侶として彼女の隣に立つのが誰なのか、今は分からない。それでも、テオの気持ちは変えられなかった。変えようとも思わなかった。
イスラ王国の夜に満月に誓い、情けなくも溢した涙に濡れた頬に触れた、一度失い再び取り戻したアヤメの右手の温もりを感じた時からテオの心は変わっていない。
ただの騎士団の上官ではなく、1人の男としてアヤメの隣に立ち、アヤメを守り、支えていきたい。
生まれて初めて、こんな気持ちになった。人形と呼ばれた自分にこんな気持ちがあるなんて知らなかった。アヤメを想えば考えるよりも身体が先に動き、心が勝手に思うのだ。
…彼女の、そばにいたいと…。
しっかりと告げたテオにしばらくの間を置いたヒルルクは、考えるように一度頷いた。そして、テオを立ち上がらせながら表情を柔らかく緩める。
「…あの子が君を望むなら私は何もいう事はない。…私はあの子が心から望む相手と結ばれて欲しいと思うし、あの子が望まぬなら婚姻などしなくても良いとすら思っている。」
自分の言葉に驚きの表情を見せたテオにヒルルクはクッと笑う。
「…先ほどの答えとしては、テオ隊長のお手並拝見、と言うところだな。」
アヤメが望む相手と幸せになれるならそれでいい。相手が貴族だろうが平民だろうが、獣人だろうがそんな事は自分には大した問題ではない。ただ、父親として娘の気持ちを大切にしてやりたい。
……しかし、そう簡単に娘をやるつもりは無い……。
混乱しているのか、急に黙り固まったテオ姿に再びヒルルクが笑ったところでスチュワートの声がかかった。
「旦那様、場所のご用意が整いました。」
「ああ、わかった。では、外まで共に行こうかテオ隊長?」
「…、はい…。」
ヒルルクの声に弾かれた様に動き出したテオにエンフェルメーラは眉を下げる。
初めて、アヤメを守り支えたいと言ってくれた青年。彼の実家の当主の評判はあまり良くないが、それでも、こんなふうに真っ直ぐに娘を見てくれている、心を傾けてくれている彼を悪くは想えなかった。それに、彼の母親のことはよく知っている。…ヒルルクだって同じ気持ちのはずだ。でも、だからこそ父親としての意地が邪魔をしているのかもしれない。テオと並んで玄関ホールに出た背中を見送りながらエンフェルメーラは静かに微笑んだ。
「では、私はこれで失礼するよ。今日はいい時間を過ごせた。」
用意された馬車の前で告げたヒルルクにテオはしっかりと頭を下げる。
「こちらこそ、本日はご招待頂きありがとうございました。」
「…また会おう。」
ヒルルクの言葉にテオの瞼が僅かに見開く。それをしっかりと確認して穏やかに微笑んだ彼はそのまま馬車の中へ消えていった。そして、ゆっくりと馬車が動き出す。
それを見ながら再び頭を下げたテオの横に今度はエンフェルメーラが立った。
「…ノヴェリスト伯爵夫人とは何度かお茶会でご一緒したことがあります。」
静かに紡がれた言葉に今度はしっかりとテオの瞼が見開いた。それに反応するかのように大きな体が急速に強張る。
「とても聡明で美しく、お優しい方でした。…テオ隊長の瞳は夫人と瓜二つですね。あのお方の様にとても澄んでいて美しい。」
自分の瞳の色を褒められたのは初めてだった。父親からは嫌悪されるだけだった幼い頃は、父とよく似た兄が羨ましくて仕方がなかった。それをまさか、ここにきてこの方に褒められるとは…。固まったままのテオにエンフェルメーラがまるで安心させるように微笑んだ。
「私と主人はご実家のことは気にしておりません。…私達はあなたという一個人に感謝し、興味を持ちました。ですから、あなたは貴方のままでいてくださいね。」
告げられた言葉がゆっくりとテオの心に染みていく。長年の重荷が取れたかのようにスーッと心と体が軽くなっていく様だった。
「貴族の装いもとてもよくお似合いですが、次にいらっしゃる時にはどうぞ普段の装いでいらしてください。私達は…アールツト侯爵家は貴方をいつでも歓迎します。」
その言葉にテオは胸が込み上げて鼻の奥がツンと熱くなる。
…もうだいぶ朧げだが、あのひともこんなふうに穏やかに笑う人だった気がする…。
久しぶりに母親の優しさを感じた様な気がしたテオは誤魔化す様に、短い返事と共に再び頭を下げ顔を隠した。
そして、しばらくの間を置いた後テオはためらうように一瞬だけ口元を歪ませてから、それでも意を決したようにエンフェルメーラを見て口を開く。
「…いい年をして、なんとも情けなく、恥ずかしい話で…図々しい願いなのは十分に承知していますが、もし、よろしければ…次回お伺いした際には、その…母の事をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
あの屋敷で母のことを口にする者はいなくなった。マーサやギルのような古参の使用人達ですら自分のことを思っての事か母の昔話をすることはない。そのせいか、朧げな記憶にある母はいつも同じ顔で、いつも同じ服で…そのうち幼い頃にこっそりと盗み見た物置小屋の奥に隠された肖像画の姿絵に変わっていった。だから、もし、叶うのならば、母の生前を…母の事を誰かに教えてもらいたかった。
不安げな顔でこちらを伺ってきたテオに一瞬だけあっけに取られたエンフェルメーラはすぐに笑顔で頷いて見せた。
「もちろん、いいですとも。私でよければ、いくらでもお母様…ターナ様のことをお話しします。なんでも、と言ったらターナ様に叱られそうですから、その辺はご勘弁くださいね。」
「!…母は怒る様なこともあったのですか?」
「ええ。ターナ様は怒るとそれは恐ろしかったですよ。それにテオ隊長と同じ炎魔法の使役者でしたから、寒い日の茶会ではよく温めてもらいました。」
自分の知る母の姿からは想像もできない話に、テオの表情が徐々に明るくなる。もう、そこには「無表情」と言われた彼の姿はなかった。
「テオ隊長の炎魔法はもしかしたらターナ様から受け継いだものかもしれませんね。」
この国では生まれた時に魔法の属性が決まるがその仕組みは未だ解明されていない。それでも、エンフェルメーラの何気ない一言はテオの心にあったシミのような黒点を燃やし、熱い炎を宿した。
母とのつながり
それは幼い頃から父親に虐げられ、心無い言葉を受けてきたテオにとって何よりも大きく強いものになった。
…こうして、アヤメがやってくるまでテオとエンフェルメーラの話は続いていた。
テオ隊長のお母様、ターナは伯爵家の御令嬢でありフェルとは度々茶会や舞踏会で会話をするなど、良いお付き合いをしてましたが
ターナがノヴェリスト伯爵家に嫁いでからは殆ど会えていませんでした。
テオ隊長の家族の話は、いずれどこかで…。
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