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103/120

100.侯爵令嬢と昼食会

……………


………


……


…Run!!、Run fast!

(逃げろ!早く逃げろ!!)


…誰?

…英語…?

久しく聞いてなかったその言語に次第に意識がはっきりしてくる。


「Insurgents! Bullets are flying!!」

(反乱軍だ!銃弾が飛んでくるぞ!!)


切羽詰まったようなその声は次第に大きくなり、ガシッと腕を掴れた瞬間、目の前に広がっていたのは戦場だった。

これは…前世の記憶……?

…ここは中東の難民キャンプで、私はボランティアの医師団の一員として難民への医療活動を行なっていた。しかし、突然反乱軍がミサイルを撃ち込んだのだった。四方のテントから火が上がり、焼ける臭いと子供や女性の助けを求める声が声が聞こえる中で私は呆然と立ち尽くしていた。


「You need to get out of here. You’ll burn to death!」

(ここから出ろ。焼け死ぬぞ!)


同じ医師団にいたアメリカ人の同僚が急かすように私の腕を引っ張った。しかし、私は反射的にその腕を振り払う。


「Sakura!」

(佐倉!)

「I can’t go.」

(私はいけない。)

「What!?」

(何!?)


私の答えに驚愕の表情を浮かべた彼の目を見てはっきりと告げる。


「He’s still out there…I’ll not leave him. Sorry,You have to run.」

(彼がまだあそこにいる…私は彼を放ってはいけない。ごめん、あなたは逃げて。)

「…Sakura…You really care about that guy.」

(…佐倉…お前は本当にあいつが気になるんだな。)


そう言って苦い笑みを見せた同僚に、私は一つ笑ってみせる。そして銃弾の雨が降り注ぐ中一気に駆けだした。


数分前まで穏やかな時間が流れていたはずのキャンプは、今は地獄絵図の様に変わっていた。テントや干してあった洗濯物は燃え盛り、作りかけの食事は焦げて鍋はひっくり返っている。そして、いたるところに焼け死んだ人々の姿があった。

そんな光景を見ながら私は懸命に足を動かす。

彼のいるあの建物はこのキャンプで唯一の建造物。もし反乱軍に見つかったら目立つ建物を破壊することを目的とすることが多い彼らの格好の攻撃対象になってしまう。


早く…早く……早くッ!!


焦る気持ちのまま懸命に足を動かす。一秒が一時間に感じるほどもどかしい時間…その中でようやく目的の建物にたどり着いた。幸いにもまだ、攻撃を受けてない様子にほっとしながらも彼を探す。一時間前まで、彼はここで子供たちの治療とオペをしていたはずだ。

中に入ろうとしたところで勢いよく内側からドアが開いた。思わずのけぞれば飛び出すようにそこから出てきたのは現地人の看護師だった。


「Dr, Sakura!?What are you doing here? Let’s run away now!!」

(佐倉先生!?ここで何を?すぐにここから逃げないと!!)

「Where is Dr,Watanabe?」

(渡辺先生はどこ?)

「…Still in the operating room.」

(彼はまだ手術室にいます。)

「え?!なんでッ?!…Why?」

「He had a patient in surgery and couldn’t leave him alone.All the staff except the doctor ran away.」

(手術中の患者がいて、放ってはいけないと。先生以外のスタッフはみんな逃げました。)


看護師から聞いた言葉に思わず口角が歪む。

いつも誰かのために一生懸命で、優しくて。人々を救うことに全身全霊をかけていた彼らしい…そう素直に思った。

しかし、だからこそ、そんな素晴らしい医師である彼を死なせたくはない。


なにより…私の大切な人を…死なせることなんてできない。


私を引き留める看護師を半ば強引に振り払い、逃げるように伝えて私は建物に踏み入った。まるで泥棒でも入ったかの様に建物の中は物が散らばり家具が倒れていた。その荒れ様に逃げて行ったスタッフや患者たちの恐怖と焦りを感じて無意識に眉間にしわが寄る。放置されたストレッチャーや散らばった薬品類をよけながら、手術室の前にたどり着けばガラス戸の向こうに懸命に命と向き合う彼の姿があった。その姿を見た瞬間、安堵と共に全身の力が向けるような感覚に襲われ、倒れないようにとっさにガラス戸に手を付く。

その音が聞こえたのか、スッと手元を見ていた彼の視線が一瞬だけ私に向き、微かに瞼を見開いたかと思えばすぐさま手元に戻って行った。


(みのる)!早く逃げないとっ!!もうすぐ反乱軍が来るわ!」


大きな声で伝えればすぐさま返事が返ってくる。


「できない。あと少しでこの子のオペが終わる。それまでここを離れないし俺は患者を置いて行かない。」


反乱軍に見つかれば殺されるかもしれない。銃弾やミサイルが一方的に打ち込まれているこの場で一つの命に全身全霊をかける姿に心が震えた。


やっぱり、実はすごい…。


彼の手術は業界では有名だった。

『不可能を可能にする魔法使い』の異名のもとに数々の不可能だと言われてきた手術を成功させてきた彼は何時だって私の憧れだった。私はそんな実を追いかけて、共に並んで歩んできた。

実は私の憧れでこれから先も何万人もの命を救う医者だ。

こんなところで失せないっ…!


「だったら、私も手伝うわ!」

「来るなっ!!」

!!??


一刻も早くここから離れるために手術の手伝いをしようとドアノブに手をかけた私に鋭い声が飛んだ。見れば、手元に視線を落としまま実が念を押すように続ける。


「あとは閉腹だけだ。あやめはそこにいてくれ。終わり次第この子を引き渡すから。」


その言葉に不満と不安を感じながらドアノブから手を下ろす。

手術も縫合もそのスピードは業界一といわれる彼がそう言うのであればさほど時間はかからないだろう。手術が終わったら、すぐに三人でここを離れよう。中央は反乱軍がいるだろうから、まだ火の手のない北側から川を渡って…………!?


突然、ピカッと強い閃光を感じた次の瞬間

ドガーーーンッッッ!!!!


物凄い轟音と地面を突き破るような地震と共に目の前が白煙で染まった。


ミサイルだっ!!!


そう理解した瞬間、舞い落ちる瓦礫からとっさに頭を手で庇いその場にしゃがみ込む。くそっ!反乱軍がこの建物を見つけたんだ。一刻も早く逃げないと…。


「実!?実!大丈夫!?」


白煙で視界が利かない中、手術室に向かって叫べば、ゴロリ…とシーツにくるまれた幼児が白煙の中から転がり出た。

よかった無事だっ!!

怪我の無い様子にホッと息をつく。この子は先ほどまで実が手術をしていた子だった。


「…手術は終わった…早く、逃げろ!」


続けて白煙から実の声がする。


「実!?どこなの!?あなたも…」

「俺はいけない。」

「……え?」


私の声を遮るかのように告げられた言葉に思わず聞き返せば、薄くなった白煙の中、がれきの積み重なったシルエットがゆっくりと浮かび上がり、その先の最悪の光景を想像して思わず息をつめた。どうか無事であってほしいと願う中、ゆっくりと消えた白煙の先に現れたのはミサイルによって崩された天井の瓦礫にに手術台ごと、下半身を潰されている実の姿だった。


「ッ…ッツ!!」

「…早く、行けっ…ゴフッ!」


苦しそうに言葉を紡いだ後大量の吐血が彼の顔を赤く染める。

その光景に一気に血の気が引いていく。馬鹿みたいに呼吸の仕方がわからなくなって急速に息が苦しくなる。


「行け…彩芽…い…け…ッッ!」


何を……言っているのか?…彼をおいて行けと…?そんなことはできるはずがない。だって私は彼の為にここまで必死で駆けてきたのだら。


彼は…実は…実は……_____

頭が混乱して目の前の状況を理解できない。


「み、…みの…る…!?」


ガタガタと震える声で彼の名を紡げば見慣れた顔が力なく笑っていた。その姿に心が抉られるように痛む。


「…ごめんな、彩芽。」


やめて…


「俺のせいで、こんな、ことに…巻き込ん、じまって…ごめん。」


やめてよ、謝らないで!


「…彩芽、俺の分まで…お前、は生きろ…よ…。」


やだっ!

やだっ…やだ………嫌だよっ!!


私の叫びをあざ笑うかのように、実の顔がどんどん青く染まり、やがて白くなっていく。それに比例するように、がれきからあふれ出す血が増えていった。

人の死には何度も直面してきた。数えきれない人たちの最期を看取って来た。


でも、でも………こんなのっ……!!


「あ…やめ…、じゃあ…な…__。」


ゆっくりと実が遠くなり、力なく瞼が落とされた。


待って!!

ダメッ!!実!!目を開けてッ!!


実っ!


「実!!」


ハッと自分の声で目が覚める。

次の瞬間、目に入ったのが見慣れた自室の天井で安堵の息がこぼれた。まだ心臓はドクドクと煩く脈を打ち、息が苦しい。汗もひどくて体中がべとべとだった。


「…もぅ、最悪…。」



重苦しいため息と共に吐き捨てれば

「お嬢様!?大丈夫ですか?」

とすぐさま心配そうにアリスに顔を覗き込まれて、私の叫びを聞かれてしまった事を知った。よほど悲痛な叫びに聞こえたのか、いつも明るいアリスの顔が、今は眉間に皴が刻まれて眉も寄せられている。


「…大丈夫。…懐かしい夢を見ただけよ。」

「…懐かしい…?」


私に前世の記憶があることを知らないアリスに言っても理解できないことに気が付いたのはその言葉を言った直後だった。まずいと思い慌てて挽回しようとした私よりも先に眉間に皴を寄せたままのアリスが考えるように顎に手を添えた。


「お嬢様のお知り合いに、ミノル様というお方はいらっしゃらないかと思いますが。よろしければラストネームを教えていただいてもよろしいですか?」

「アリスがアールツト侯爵家に来る前の話だから知らなくて当然だわ。ラストネームは渡辺よ。」


こうなったら開き直って押し通そうを考えた私は実のラストネームをあえて教えてあげた。思えば日本語名を言葉にするのも酷く懐かしい気がする。


「ワタニャベ?」

「渡辺。」

「ワ、ワタ…難しい発音ですね。きっと、異国の方なのですね。」


渡辺とうまく発言できないアリスに思わず笑みがこぼれる。確かに横文字が多いこの国では発音しにくいのかもしれない。


「遠方の国の方ですか?」


アリスの問いにゆっくりとベッドから起き上がった私は、カーテンの開けられた窓から登り始めた太陽を見て、目を細めた。前世の私の住んでいた国はこんな言われた方をしていた気がする。


「遠い、遥か彼方の東の小国、海に浮かぶ日出(ひいず)る島国よ。」


この世界に転生して14年。

神様の力で残した前世の記憶はハッキリと覚えているものも多いが、徐々に薄れているものもあった。覚えているうちにと前世の医楽や薬学を書き残して忘れないようにと務めていたけど…まさか、こんなふうに彼を思い出すなんて思ってもいなかった。

前世の私「佐倉彩芽」は一時だって彼のことを忘れることなんてなかったのに。


『渡辺 実』

私の医学部時代からの友人で、ライバルで、医師団の同僚で…中東の難民キャンプへの反乱軍の爆撃により死亡したのは私が32歳で彼が34歳の時だった。


私の………大切なひと…………だった…。


なぜ今になって思い出したのか…。

理由は分からなかったが、むせかえるような火薬のにおいと舞い散る埃と血の匂い…その全てが体に染みついているようにリアルに思い出されて、体温が急激に奪われていくような気がした。


「湯でも浴びられますか?そうしたら少しは気分も晴れるかもしれませんよ。」


遠くを見つめたまま両手で肩を抱きしめた私にアリスの声がかかる。


そうだ、いつまでも暗い顔をしてはいられない。私にはこの世界で、アヤメ・アールツトとしての今があるのだから。


「そうね、お願いしようかしら。」

「はい!お任せください!!昼食会には間に合うようにバッチリご用意させていただきます。」


一礼して部屋を出ていってアリスを見送り小さく息を吐く。

夢のせいですっかり吹き飛んでいた。

今日は、テオ隊長を招いての昼食会の日だった。



「明日、テオ隊長を招いて昼食会を開くからアヤメも準備しておくように。」


夕食の席でお父様から投下された言葉はクラスター爆弾の様に私の残りの休養日を吹き飛ばした。この数日でだいぶ体調も戻ったが、痩せてしまった分は完全に取り戻せていない。テオ隊長に余計な心配をかけたくなかったからお会いするのは元の体重に戻してから…と思っていたのに。私の考えとは裏腹に、お母様もテオ隊長へのもてなしに意気込みスチュワートまで巻き込んで屋敷中が騒めいていた。


「お嬢様、御召し物はいかがいたしましょうか?」


湯浴みを終えて自室に戻ればクローゼットから数着のドレスを取り出し、並べたアリスは生き生きとドレスに合わせる小物までも引っ張り出していた。そのどれもが、ちょっとしたパーティ用のよそ行きのもで思わず口元が引きつる。


「…アリス、舞踏会に行くわけじゃないのよ?」

「存じております。しかし、侯爵家の昼食会ですから淑女のたしなみとしてある程度のドレスコードは必要かと。あ、こちらの小花柄のドレスはいかがですか?」

「あー、そんなにフリルが付いたのは嫌かな。裾も膨らんでるし、歩きづらそう。」

「そうですか?では、こちらの総レースはいかがでしょう?」

「いやいや、それは昼食会じゃなくて王族のパーティー用だから。」

「もうっ!お嬢様、少しはやる気を出してください!あと数時間後には騎士隊長様がお見えになるのですよ!?」


私としては動きやすく質素なワンピースがいいのだが、アリスは断固としてドレスを着せたいようで、その鬼気迫る様子に思わず仰け反った。


「せっかく、『花束の君』がいらっしゃるというのに、お嬢様がそのような心持では他の女性に取られてしまいますよ!?」

「は、花束の君……?」


聞き覚えのない言葉に思わず目が点になれば、アリスはまるで夢見る乙女のようにうっとりとほほ笑んだ。


「心身ともに傷つかれたお嬢様へ、思いのたけを花に込めて贈った騎士隊長様。名乗るようなことはせず、でもしっかりと自分だと分かるようにハンカチに包むいじらしさ。そして、お嬢様の危機には必ず助けてくださる勇ましさ…。もう、侍女たちの間では花束の君の事でもちきりです!」


キラキラと瞳を輝かせて話すアリスにドッと肩が重くなった気がした。

確かに屋敷の使用人たちにはテオ隊長との一連のやり取りや花束の事を知られているが…まさか『花束の君』などという言葉まで生まれているとは…。


…ちょっと待って…!!

テオ隊長の制服が異様に早く新品同様な状態で戻ってきたのはそのせいじゃないわよね?

テオ隊長からお借りした制服は今はハンガーから下されている。紙袋にでも入れてお渡ししよう…と考えていた私の手元から制服をかっさらった侍女は「すべて私にお任せください!」と息巻いて部屋を出て行ったきり帰ってきていないが、この話を聞く限り悪い予感しかしない。…あまり華美な包装とかはしてほしくないのだけれど…。


「お嬢様も婚約者が決まる御年頃ですもの、使用人たちもどの殿方が金の矢を射止めるか色めきだってますよ。まぁ、今のところは『花束の君』が最有力候補ですね。」

「なっ…!?」


テオ隊長が、私の婚約者!?

いやいや、待って、待って!いくら何でも、それは、ちょっと話が飛びすぎなんじゃないの?確かにテオ隊長はカッコいいし、優しいし、いつも私を守ってくれるけど…、まだテオ隊長が好き……かどうか確信はない。彼から好きだとも言われていないし、それに…ユザキ様から頂いた簪の件もある。あれは明らかに私への好意を抱いてくれていることの表れだと思うけれど、外見は14歳でも中身がアラフォーの私はそこへ飛び込む勇気もない。


…その先に待つのは楽しいことばかりではないと……知っているから。

今朝の夢のせいか実の最後の光景が浮かんで軽く頭を振った。

っていうか、今はやりたいことや、やらなければいけないことが多すぎて婚約者にまで頭が回らない。


「…今は婚約者よりも大事なことがたくさんあるのよ。」


この国で成人とされる16歳になるころには貴族社会の習わし通りお父様から婚約者が告げられるだろう。でも、アンリ叔母様の様にご自分で結婚相手を決めることもできるし、カミーユ副隊長の様に独身を貫かれる方もいる。私も、いつかは結婚して家庭を持ちたいとは思うけれど、可能であれば自分で選んだ相手とそうなりたいし、お父様やお母様はそれを許してくださる方だと思っている。

でも、将来の伴侶を決めるのは今じゃない。…今はもっと優先したいことがある。

それに…新しい恋に踏み入るには、治しきれない傷が大きすぎる。


ため息とともにアリスに告げれば、瞬く間に彼女の笑顔がしぼんでいった。それに少しの罪悪感を覚える。アリスは私よりも少し年上で、年頃の娘だ。恋愛話に興味があるのはよくわかる。


「でも、アリスがそう言った相手を見つけたら遠慮なく教えてね。退職されるのは困るし寂しいけど、私はアリスの幸せを一番に守りたいの。」


私の事よりも自分はどうなの?と遠回しに告げれば、アリスは一瞬だけ息をつめた後ビシッと私に人差し指を立てて見せた。


「私の幸せはお嬢様に生涯お仕えし、お嬢様の旦那様とお子様のお世話をさせていただくことです。たとえお嬢様が平民に下られようとも、異国に嫁がれようとも、このアリスは、どこまでも付いていきますからね!」


ハッキリと言い切ったアリスの言葉がジンッと心に広がった。私なんかよりもあなた自身の幸せを優先してくれてかまわない。そう言いかけた口が不自然に中途半端に開いたまま言葉を飲み込んでしまう。アリスが私の専属で侍女になってから10年。いつも彼女は「私にできる限りのすべてでお仕えいたします。」そう言って私の為に尽くしてくれた。スチュワートもそうだけど、私はいろんな人に恵まれている。こんなふうに思ってくれる人たちをしっかりと向き合い大切にしていきたい。


「…ありがとう…。」


しばらくの間を置いた後何とか口から出た言葉は一言だけだったが、それを聞いたアリスはなんとも嬉しそうに破顔して「とんでもございません。」そう言ってくれた。


「さぁ、お嬢様ドレスを決めてしまいましょう!もうお時間がありませんよ!」


気を取り直したようにドレスに向かい合ったアリスを見ながらもう一度心の中で感謝を伝えて、私もドレスに視線を落とした。





約束の時間の少し前にテオ隊長がやって来た。

治療院を抜けてきたお父様と並ぶお母様の少し後ろに私も控えて彼を出迎える。華美なドレスを着せたいアリスといつも通りのワンピースにしたい私との激しい攻防の結果、淡い桃色のシンプルなドレスに落ち着いた。髪は緩くサイドに編み下ろして、それだけでよかったのに、最後にアリスにドレスとおそろいのレースの花飾りを付けられてしまった。ただ自宅で昼食を食べるだけなのに…。貴族の慣例なのか、いちいちドレスや装飾品に気を遣うのは正直、面倒臭い。前世の時は自宅にいる時はいつも上下ジャージだった。あの化学繊維でできた着古した感触がたまに無性に恋しい。


騎士の制服姿しか見たことがなかったテオ隊長は、温かそうな上質の外套に身を包み、男の人らしい整った美しい顔と長身に似合う貴族の装いで、そのかっこよさに思わず目が釘付けになった。

めちゃくちゃカッコいい……。

どうしよう直視できないかもしれない…。これでは前世の有名モデルもイケメン俳優も霞んでしまう。

騎士の制服も似合うが、貴族の服装もとてもいい。華美ではなく、激しい主張はないものの上品でいて美しい装いは彼の性格を表しているようでとても好感が持てた。


「ようこそ、テオ隊長。」


お父様が馬から降りたテオ隊長に声をかければ騎士の敬礼ではなく貴族の礼を取った彼の所作がとても綺麗で後ろに控える侍女たちからため息が聞こえた。うん、その気持ちはとてもよくわかる。侍女に負けじと私も思わず出掛かった息を必死でのみこんだ。


「本日はお忙しい中、お招きいただきありがとうございます。寒空の中お出迎えいただき、恐縮です。」

「いや、気にしないでくれ。大切な客人の出迎えは当たり前だ。」

「寒い中我が屋敷までお越しいただきありがとうございます。改めてご挨拶させてください。アールツト侯爵の妻、エンフェルメーラと申します。」

「丁寧なごあいさつをありがとうございます。ノヴェリスト伯爵が次男、王国騎士団1番隊隊長を務めておりますテオ・ノヴェリストと申します。どうぞ、よろしくお願いいたします。」


いつもの無表情ながらも、しっかりと両親とあいさつを交わすテオ隊長は改めて貴族のご子息であることを実感する。その所作から言葉遣いまで完璧なテオ隊長に若干見とれていると、漆黒の瞳がお母様の肩越しに私に向けられた。


「…ご令嬢とご挨拶をさせていただいてもよろしいでしょうか?」

「ああ、もちろんだとも。アヤメ、ご挨拶を。」

「は、はい…。」


お父様に促されてテオ隊長の前に立つ。いつもと雰囲気が違うテオ隊長の前に立てば鼓動がうるさく跳ねたが、私と目が合った瞬間、彼のまとう雰囲気がフッと柔らかくなった。


「…久しぶりだな。」

「…はい。あの時はいろいろとご迷惑をおかけしました。助けていただいてありがとうございました。」

「いや、気にするな。…元気そうで、安心した。」


静かに告げたテオ隊長が、手に持っていた花束をぎこちなく私に差し出した。それを見ていた侍女たちから向けられる羨望と期待の眼差しが突き刺さっているが、あえて気にしないように努めながら花束に意識を向ける。この前いただいたものより二回りほど大きなそれは、ピンクと紫のバラで作られていて華やかさと柔らかな香りに自然に頬が緩んだ。


「その、…受けとってもらえるだろうか…?」


視線を何度か彷徨わせたあと少しだけ頬を染めて告げたテオ隊長に自然に手が伸びた。花束を受け取ればしっかりとしたその重さは彼からの気持ちの様で知らずに頬に熱が集まって来た瞬間だった。


『せっかくのクリスマスだしな。ほら、受け取れよ。』


忘れていたはずの実の声が耳元で聞こえた。

ビクリッと体を揺らして息をつめる。彼はいるはずがないのに…。今朝の夢は自分が思うよりももっと深く私の心を掘り返していたようだ。


「…どうした…?」


私の異変に気づいたテオ隊長がぎこちなく手を彷徨わせて尋ねできて、慌てて口を開いた。


「ありがとう…ございます…。」


テオ隊長に負けないぎこちなさで答えれば、上から安堵の息が降って来た。


いけない…。

私はアールツト侯爵令嬢、アヤメ・アールツトだ。

いつまでも、前世の思いに引き摺られていてはいけない。過去には戻れないし、戻ったとしても、もう彼はいないのだから。


気を取り直すように花束に視線を下ろす。

バラの花にはいくつもの水滴がついていて、降り注ぐ日差しに宝石のように輝いていてその美しさに無意識に言葉が漏れる。


「とても綺麗…。」


今度は実の声もなかった。

その事に少しだけ安心する。


「…気に入ったならよかった。」


私の言葉を聞いたテオ隊長が穏やかに笑った。

それを見た瞬間、心臓が大きく跳ねる。いつもと違う装いでとてもカッコいいのに、そんなふうに笑うなんて…。

私は頬に熱が集まりそうになって慌てて花束で隠した。



そう、これが今の私なのだ。




それから場所を移して昼食会が開かれた。

昼食会と言っても私と両親とテオ隊長の4人だけだが、大きなテーブルには所狭しと料理が並べられ、上質なお酒が開けられた。お父様は治療院に戻るために酒を飲むことは無かったが上機嫌にテオ隊長に酒を勧めている。テオ隊長は口数こそ少ないものの両親からの質問にしっかりと答え、会話も途切れることなく続いていて、どことなく彼も楽しんでいるように感じるられる。騎士団にいるときには想像もつかない姿だったが両親と会話を楽しむ彼の姿を見るのは、恥ずかしいようなすぐったい気持ちで、とりあえず料理に集中することでやり過ごすことにした。


「旦那様、そろそろ治療院にお戻りになるお時間です。」


食後のデザートを食べ終え、談話室に移りテオ隊長が持ってきてくれた焼き菓子を広げたところでスチュワートがお父様の耳元で告げた。


「そうか。もうそんな時間か。すまないが私はこれで失礼するよ。」

「はい。本日はお時間を割いていただきありがとうございました。とても楽しいひと時を過ごすことができ、また、国の医療を担う偉大なアールツト侯爵殿のお話は勉強になりました。」


席を立ったお父様に倣うようにテオ隊長が立ち上がり礼を述べる。それに一つ頷いたお父様は右手を差し出した。


「そんなにかしこまらなくてもいい。今日は来てくれてありがとう。君と話せて良かった。」

「ありがとうございます。光栄です。」


お父様の手を取ったテオ隊長がしっかりと握り返す。


「私はこれで失礼するが、テオ隊長はゆっくりしていってくれ。日暮れまでにはまだ時間があるし、良ければアヤメを外に連れ出してくれないか?」

「お父様!?」

「アヤメは体調が戻ってからもほとんど屋敷に籠っていてね。外に出るのはアルの看病くらいなんだよ。いくら本好きといってもそれでは体にもよくない。」


私の抗議の声を綺麗に無視したお父様が言えば、テオ隊長は遠慮がちに手を離して口を開いた。


「実は、クエルト隊長から今の時期は侯爵家の湖に白鳥が飛来していると伺いました。よろしければ、アヤメ嬢と見に行ってもよろしいでしょうか?」

「えぇっ!?」

「あら、いいじゃない。私も若い頃はよく主人と見に行きましたわ。アヤメも好きだったでしょ?…ね?」


ニコニコとお母様に微笑まれて驚きの声を上げたまま固まった口元が引きつった。確かに幼い頃何度か行った記憶があるけど…お母様は絶対にこの状況を、いや、私の惨状を楽しんでいる。


「あの湖か。クエルトもよく覚えていたな。もちろん構わないとも。必要な物はスチュワートに用意させよう。」

「承知いたしました。万事恙無くご準備させていただきます。」


お父様に恭しく頭を下げたスチュワートがアリスに目配せをすれば、心得た!と言わんばかりの笑顔でアリスが私のもとへやって来た。


「では、お嬢様はご準備へ。」

「え?あ、えぇ…?!」


戸惑いと驚きでアリスの手を躊躇った私にテオ隊長の視線が向けられる。真っ直ぐ私に向けられた漆黒の瞳はいつもと変わらないはずなのに、どういう訳か見つめられると胸が苦しいほど鼓動がうるさく響いた。アリスとの会話のせいかもしれない。「婚約者候補」とか「花束の君」とか、本当に勘弁してほしい。


「…アールツト侯爵殿をお見送りさせていただいた後、そのまま外で待っている。温かくして来てくれ。」

「は?え、あ、…はい。」


穏やかな声と視線に見送られて、私は満足な抵抗もできないままアリスに連れられて談話室を後にした。


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