97.宰相と男爵
*流血などの表現があります苦手な方はご注意ください。
フテクト兄弟の裁きが行われる二日前。
インゼル王国王城地下牢に併設された取調室では、アールツト侯爵令嬢誘拐事件の首謀者であるヤーコブ男爵への取り調べが行われていた。
「…何度も言っているだろう?私はただ金の為にやっただけだ。買い取り人の事など知らん。」
質素な椅子に座らされ、両手首と両足に枷を付けたヤーコブが吐き捨てれば質問をした取調官の眉間のしわが深くなった。アールツト一族の者はその希少価値から厳重に保護されている。それでも誘拐しようともくろむものは多いが、その首謀者は大半が各国の有力者たちだった。また、今回の様に自国の貴族が首謀者の場合はアールツトの人間を他国へ売り渡すことが多い為その販売ルートをどうにか聞き出したかったのだが…。人知れずため息をついた取調官は手元の書類に視線を落とす。そこにはフテクト兄弟の供述が書かれていた。フテクト兄弟はヤーコブの指示通りに動いただけで真の首謀者や侯爵令嬢を誘拐後はどうするのか知らされていなかったという。大方、重要な情報は与えずに兄弟を好きなように使って、いずれは保身のために切り捨てる算段だったのだろう。
取り調べを始めて三日、ヤーコブが知らぬ存ぜぬを貫き通していることで販売ルートや買い手への捜査は難航していた。
コン、コン、コン。
書記官と取調官、そしてヤーコブしかいない狭い空間に静かなノックの音が響いた。独特の間を空けたノックを聞いた取調官の背中にゾワリと悪寒が走る。
…まさか…このノックの仕方は……?!
ぶわりと額に浮かんだ脂汗を乱暴にぬぐい、取調官の顔色が急に悪くなったことに気が付いたヤーコブはゆっくりとドアに視線を映した。
コン、コン、コン。
「宰相のフェアファスングです。少しよろしいでしょうか?」
再び響いたノックの音と次いで聞こえた柔らかな声に、今度は取調官と書記官の肩がビクッと揺れた。
なぜ、あのお方がここにいるのか?今は朝議のはず。もう終わったのか?
様々な考えが浮かんできたがその全てを振り払い、すぐさまドアノブに手をかける。そして、一度深呼吸をしてからゆっくりとドアを開いた。
「…お待たせいたしました。フェアファスング様。」
取調官がドアを開いて横に避け敬礼をすれば、椅子に座っていた書記官も同じように立ち上がり敬礼をした。
「取り込み中、申し訳ありません。敬礼はけっこうですので楽になさってください。」
「はっ。…あ、あの、本日はどのようなご用件で…?」
敬礼を解いた取調官が恐る恐る尋ねれば、ユスティーツは穏やかな笑みを浮かべた。
「私も、ヤーコブ男爵とお話ししたいと思いまして。…どうぞ、お二人は休息をとってください。彼が捕らえられてから連日の取り調べでお疲れでしょう?」
ね?
と顔を覗き込まれて、取調官は喉まで出かかった否定の言葉を飲み込む。穏やかに微笑んだ表情とは裏腹に自分に向けられた碧眼の鋭さは肯定以外を許してはいなかった。すぐさま姿勢を正し短く返事をした取調官だったが、鎖でつながれているとはいえ、罪人と我が国の宰相を一つの部屋に置いておくことに難色を示そうとすれば、取調官が発言をする前にユスティーツが口を開いた。
「あ、ご心配には及びませんよ?護衛として騎士団長と副団長にも同席いただきますから。どうぞ、お入りください。」
「「失礼します。」」
ユスティーツの掛け声に騎士団の制服に身を包んだオッド騎士団長とインブル副団長が音もなく入室してきて、取調官は思わず目を見開いた。
式典の時や有事の際に遠巻きに見る程度でしかなかった我が国が誇る最強の騎士団の頂点に君臨する人物。数々の逸話と武勇伝を残してきた騎士の間近で見る姿にごくりとつばを飲み込めば、斜め後ろにいた書記官が小さく身震いした。
「取調官殿、宰相殿の護衛は我々にお任せください。」
「ひえっ…!は、はい。お願いしますっ…!」
威厳を纏った表情のオッドが告げれば取調官が悲鳴に近い声を上げてすぐさま頭を下げる。オッドの顔面を斜めに縦断する傷跡がもともと強面の顔を余計に引き立たせていた。そのままユスティーツへ退室の挨拶をした取調官と書記官は足早に取調室を後にした。インブルの手によって音もなく閉じられたドアを振り返りながら、中に残ったヤーコブ男爵へ取調官は少し同情した。
「王の臥龍」の異名を持つ我が国の懐刀。その宰相が出てきたということはヤーコブも長くはもたないだろう。……文官である自分たちはその脅威を今まで嫌というほど目撃してきたのだから。
「…私たちはどうしたらいいのでしょうか?」
隣を歩いていた書記官がかすかに震える声で尋ねてきた。一昨年入城して書記官という職に就いた彼はオドオドと周りを見回している。いくら上官の命令とはいえ休息時間でもないのに職務を途中で放棄していることに罪悪感や不安を感じているのかもしれないが、そんなことはただの杞憂でしかない。
「何もしなくていいさ。私たちは言われたとおりに休息をとればいい。」
「え?いや、しかし…っ!」
「すべてはフェアファスング様が取り計らってくださるさ。」
そう、あのお方ならば私たち二人の事など指一本でどうにでもできる。
「私たちはただ、あのお方の言われたとおりにすればいい。あのお方は私たちのような下の者へ不当な扱いをしない。…だから何も聞かず、何も疑わず、ただ信じていろ。」
指一本で事たりる私たちのような立場の者にもあのお方は目をかけ、声をかけ、手を差し伸べてくれる。面と向かえば緊張もするし畏敬こそするが不信を抱いた事など一度もない。
ただ信じて、ついていけばいいのだ。
「さぁ、行こう。」
未だに戸惑っている若い書記官を促して廊下を進む。
もう、取調室を振り返る事も足を止めることもしなかった。
「さてと、少し場所を変えましょうか。」
「…はぁ?」
取調官と書記官が相室して少し経ったところでユスティーツが言えば、ヤーコブの両隣にオッドとインブルが立ち半ば強引に立ち上がらせた。
「な、何をするんだ!?どこへ連れて行こうというんだっ!!」
「まぁ、落ち着いてください。別に取って食いはしませんよ。この部屋は話をするには少し息が詰まりますからね。…大丈夫ですよ、私についてきてください。」
焦りから声を荒げたヤーコブをなだめるように穏やかに微笑んだユスティーツはおもむろにドアを開けるとそのまま取調室から出て行った。予想外の事に戸惑いと不安を感じていたヤーコブだが、両隣を騎士に挟まれていては抵抗などできるはずもなく大人しくユスティーツの背中について取調室を後にした。
ユスティーツに連れてこられたのは今までいた地下牢とは違い、木々や草花が見える大きなガラス張りの窓が付いた広い一室だった。日の光が差し込む上質な調度品で整えられた部屋には、大きなダイニングテーブルが置かれ数脚の椅子が並べられていた。
「どうぞお好きなところにお座りください。今、お茶を用意させますから。」
ニコニコとした笑みを絶やさないユスティーツに若干の不安と恐怖を感じながらもヤーコブは長方形のダイニングテーブルの長辺の隅に腰かける。それを見届けたユスティーツはヤーコブが座った席から少し離れた対角線上の椅子に腰を下ろした。
「甘めのミルクティーがお好きだそうで?」
「は?あ、ああ、そうだが。」
「お屋敷で男爵が普段から飲まれている茶葉と同じものを用意しました。地下牢での疲れを少しでも癒していただければ幸いです。」
「……。」
なぜ、この男はこんなことをするのか?
侍女が目の前に置いて行った高級なカップはよく慣れ親しんだ色の液体で満たされていた。
毒か…?自白剤か…?いずれにせよ、飲むことはやめた方がいいな。
上品な香りと湯気を上げたミルクティーを前に手を動かすことなく、カップの中身を凝視しているヤーコブにユスティーツはことさら優しい声で話しかける。
「…どうしました?喉は乾いていませんか?」
「…い、いや、私は遠慮させていただく。」
「ああ、何かの薬物でもお疑いになっているのでしょうか?大丈夫ですよ。そのようなものは使用しておりません。我が国では非人道的な拷問や自白剤など使用は禁じておりますから。」
そう言ってカップに口を着けたユスティーツを見て思わずヤーコブの喉がゴクリと動いた。喉は乾いている。地下牢では今まで飲んでいたような、紅茶や酒ではなくただの水のみ与えられてきた。この香りも湯気も全てに誘われている。だが…しかし…。
再びカップに視線を落としたヤーコブにユスティーツが一つ息を吐いた。
「そんなにお疑いならば、私が飲んだものと交換しましょうか?今あなたの目の前で私が口を付けたものならば、安心できるでしょう?」
そう告げたユスティーツが視線で合図をすれば、侍女がやってきてユスティーツのカップをソーサーごとヤーコブの前にあったものと交換した。
「さぁ、どうぞ、お飲みください。」
ユスティーツは侍女が運んできたヤーコブのカップを手に取ると、何のためらいもなく口を付けた。それを見ていたヤーコブの瞼がわずかに動く。
飲んだっ!フェアファスング公爵が俺に差し出された紅茶を飲んだということは、本当に毒など入っていないのかもしれない。現に、このカップも先ほどフェアファスング公爵が口を付けたものだし…。
そう思ったヤーコブは恐る恐るカップを手に取り、震える手を押さえつけて一口ミルクティーを飲み込んだ。
最初の一口は戦々恐々としていたヤーコブだったが、何でもないことがわかるとすぐさまカップの残りを飲み干し、ホウッと一息をついた。その満足そうだが、どこか物足りなさげな表情にユスティーツが人のいい笑みでお代わりを促せば、すぐさまヤーコブは侍女に命じてミルクティーを注がせていた。
それを繰り返すこと数回、やっと満足したのかヤーコブがカップを置いてゆったりと椅子の背もたれに体を預ける。もはや最初にこの部屋に来た時の緊張感や、不安はなくなり、だいぶ寛いでいるような表情をしている姿にユスティーツは笑みを作り続けながら、気が付かれないように冷たい視線を向けた。
「ご満足いただけましたか?」
「ああ、フェアファスング公爵殿の心遣いに感謝する。城に来てから初めて生きた心地がつけた。」
貴族の最高位である公爵の身分を持つ人物に対しても上から目線の偉そうな態度をとるヤーコブに思わずオッドの眉間にしわが寄るが、ユスティーツはそれを視線だけで制して、そのままヤーコブへ視線を向けるとゆったりとした口調で語り始めた。
ユスティーツが始めたのはたわいもない世間話だった。
最近の国の情勢から始まり、男爵家の事業成績など、パーティーで話されるような貴族同士の会話にヤーコブも初めは少なかった口数がどんどん増えていった。紅茶で警戒心が取れたのか、リラックスしたのかはわからないが、お茶うけにとこれまたヤーコブの好みの焼き菓子が出されれば、ユスティーツの巧みな話術も相まってヤーコブは上機嫌で勝手に語り始めていた。
「…だから、私も今回の話が来たときは願ったり叶ったりで、二つ返事で了承したんだ。」
「そうなんですか。それは恵まれていましたね。」
「そう思うだろう?なんせ相手は帝国の上層部だぞ?」
!!!???
流れるように落とされたその一言に、ヤーコブの後ろに立っていたオッドとインブルの瞼が開いた。
言ったな…。
声に出さずに心の中でそうつぶやいた二人の変化を見ながら、ユスティーツは未だに自分の失言に気が付いていないヤーコブにさらに話の先を促した。
「上層部ですか。それはとても心強いですね。私もそんなうまい話があるのならぜひ齧らせていただきたいものです。なんせ、城勤めは何かと骨が折れますから…。」
「そうだろう。直接お顔を拝見したことはないがやり取りした感じや話口調から考えるに、あれは相当な上位貴族だろうな。」
「なるほど…。」
「だからこそ、今回の失敗は本当に悔やまれるのだ。もし成功していれば、今頃は大金の積まれた馬車と共に帝国へ向かっていたというの……に……?!」
そこまで話して、ヤーコブが急に何かに気が付いたように言葉を止めた。そして、ハッとした顔で口を押えると瞼を大きく開きながらユスティーツを見つめる。
「おや?…どうされました?」
「わ、わた、し、は…何を…!?」
穏やかに聞き返したユスティーツとは対照的にヤーコブのハゲ散らかした頭には玉のような脂汗が浮かび、顔色が青になったかと思えばどんどん土気色へ変わっていく。
「…はぁ、もう少しいろいろな話を聞かせてもらえると思ったのですが、まぁ、ギリギリ及第点というところでしょうか。」
先ほどまでの穏やかな雰囲気が一瞬にして飛散し、鋭くヤーコブをにらみつけたユスティーツが静かに椅子から立ち上がった。そしてコツコツと足音を響かせながらヤーコブへと近づいてくる。それを見ていたヤーコブの体がガタガタと揺れ始めた。
「さて…ヤーコブ男爵。いや、もうあなたから爵位ははく奪されていましたね。」
ヤーコブの前で立ち止まったユスティーツは、震えながら自分を見上げる小太りの男をまるで汚物でも見るような顔で見下ろした。
「貴族でもない犯罪者のお前に、もはや敬意を払う必要はあるまい。」
今まで聞いたことのないような低い声で言い放ったユスティーツは、感情を失くした表情のまま片手でヤーコブの後頭部を掴むとズダンッ!と強くヤーコブの顔面をダイニングテーブルに叩き付けた。
「グアッ!!」
くぐもったヤーコブの声と共に純白のテーブルクロスに鮮血がジワリと広がる。しかし、それを気にすることなくユスティーツは無慈悲にゴリッと顔面を押さえつけたままヤーコブの頭を天板にこすりつけた。ボキンッという鈍い音と共にヤーコブの悲鳴が上がるが、誰もユスティーツを止める者はなく、オッドとインブルは静かにたたずんでいる。
「私は、本来気が長いほうではない。お前の醜い顔面がさらに醜くなる前に知っていることを全部話してもらいたいのだが…。」
「くっ…お前っ!我が国では、非人道的な拷問は、禁止されている、はずだぞっ!?」
「拷問…?これはおかしなことを言う。これは拷問ではない。宰相を相手に暴行しようとした犯罪者を騎士たちが護衛の為に取り押さえただけのこと…。」
「な、なにを…!?」
ユスティーツの言葉の意味を理解しきれないヤーコブが四肢をばたつかせ始めたところで、再び脂ぎった後頭部を持ち上げたユスティーツがガンッとテーブルに顔面を叩き付けた。
「ガハッ…!!」
「…お望みならお前の言う通り拷問をしてやってもいいが?幸いにも今、我が国には罪人への拷問が禁じられていない国の方が滞在している…。」
「ツ…!!」
「まぁ、その場合は地獄の業火など生易しく感じるほどの苦痛が待っているだろうがな…。ちなみに、その方の得意な拷問は傷を作らず痛みだけを与えるものだそうだ…。」
「ひぃぃぃっ……!!!」
耳元で低く囁かれたユスティーツの言葉に鼻が曲がり、前歯が無残にも折れた血まみれの顔でヤーコブが震えあがる。それを見たユスティーツは後頭部から手を離すと、オッドとインブルがヤーコブの両肩を掴み、乱暴に椅子に座りなおさせた。
「うっ…くそっ…クソッ!」
椅子に座りなおさせられたヤーコブを見ながら上質なハンカチで手を拭いているユスティーツが整った顔で冷酷に笑う。
「さぁ、話の続きを聞かせてください。ヤーコブ殿?」
ガタガタと震えながらも、血まみれのぐちゃぐちゃの顔で悪態をついたヤーコブが正気でいられたのはそこまでだった。
数十分後
騎士団長と副団長に付き添われて地下牢に戻ったヤーコブは、顔面に酷い傷を負いながら何やらぶつぶつと言い続けている。その目は濁り、折れた鼻腔は血が流れ続けているが誰も気に留めることはなく、明かりもない真っ暗な牢にはヤーコブの誰にも聞かれることがない声が響き続けていた。