第3話
冷たい水で体を洗いながらも、フライアの顔はまだ熱かった。
せっかく一緒に来ると言ってくれたオスカーに嫌われてしまっただろうか。そんなことを考えていた。
一方でオスカーは彼女の反応を見て、傷付けてしまったと後悔していた。そして、これ以上失礼がないようにとフライアが身だしなみを整えおわるまでは洞窟の外にいることにした。
彼が空を見上げるのは久しぶりのことだった。雲の少ない空は、周囲に高い山がないからだろうか。思えば、村で暮らしていたころも雨が降る日は多くはなかった。草や低い木が生えていたのは保水力の高い土地だったためだろう。
雨はあの日を思い出させる。洞窟の中でも音は聞こえてくるので、雨の日は眠れなかった。
――そういえば、獅子のような怪物に襲われたときなぜ雷が落ちたのだろうか。
オスカーは、それまで雷というものを知識としてしか知らなかった。よく考えると、あまりにも都合がよすぎる偶然だったと彼は振り返る。いや、本当にただの偶然に過ぎないのかもしれないが、もし何か、彼女の役に立てることに繋がるのならば……。
オスカーはこれまでまるで考えなかったなかった可能性を疑い始める。二年間眠っていたオスカーの頭は、フライアとの出会いによって徐々に覚醒してきていた。
体を洗い終えたフライアは、最後にコートのボタンを留めた。オスカーが洞窟の外へ出たことをありがたく感じつつも申し訳なく思っていた彼女は、控えめに彼へ声をかけた。
「……準備できました。オスカーさんは大丈夫ですか?」
「ええ。……先程は配慮が足りず申し訳ございませんでした」
「えっ、いや、こちらこそ、不快な思いをさせてしまって……ごめんなさい」
少し気まずい空気になる。互いに思っていたほど悪い印象を与えてなかったことを知れたので、もうこの話題はやめようと無言のうちに合意した。
「じゃあ出発しましょう。オスカーさん、この近くの人里まで案内してもらえますか?」
「分かりました。ただ、どこに行くにせよ僕の村があった場所を経由することになります。危険な旅になりますから、もし僕が足手まといになるようならお構いなく先へ進んでください。それと、僕も村を抜けてからは知識としてしか道を知らないので、そこからの道は十分にご案内できないかもしれません」
くれぐれも自分の身を第一に、と最後にオスカーは繰り返した。
かくして、記憶を失った少女と故郷を失った少年の二人旅が始まった。
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二人は洞窟から西北西にある村へ向かって休憩をはさみながら歩いていた。
旅は思いの外順調だった。
フライアからすれば、オスカーが思っていたよりも動けて、歯切れのよい道案内をしてくれたことは幸いであった。一人のときほど気を張り詰めた状態を保つ必要がなくなった上、休憩が十分にできることは純粋に旅を楽にした。
一方オスカーにしてみれば、フレインが透明な怪物を苦も無く切り伏せられるとは思ってもみなかった――そもそもそれらを人の力で倒せるものとは思っていなかった――ので心に少し余裕を持つことができた。美しき赤い剣の軌跡に思わず見惚れてしまうほどには、彼の心は安定していた。
日が最も高く昇るころには、二人はオスカーの故郷の跡地が見えるところまで辿り着いた。
その村は、草原と低木林の境界に位置する小規模な村で、かつては50人足らずほどの人々が暮らしていた。
しかし、二人に見えている場所はただ草がまばらに生えた空き地のようなところで、もはや人々が暮らしていた痕跡は遺っていない。
オスカーはこれ以上近づけば危険と判断し、フライアに小声で呼びかけた。
「ここより少し村に近づいたところで例の紫の毛並みをもつ獅子に襲われました。ここからはどうか慎重に、決して気付かれないように進みましょう。朝も申しましたが、ご自分を最優先すると御約束してください」
それに対しフライアは無言で頷くことで返した。
同時に彼女は剣を抜いて周囲への警戒を強める。
――まさにそのときだった。
巨大な影が、右方から二人に向かって突進してきた。
紫色の毒々しい毛で覆われた獣、2年前オスカーを襲った獅子の如き怪物だった。