第1話
拙作を手にとっていただけたことに深く感謝を申し上げます。
素人が書いた読み物ですので、気楽に読んでいただけるとありがたいです。
― 満月の空の下、少女は歩いていた。
腰に日記帳と保存食を詰め込んだバッグ、そして小ぶりな片手剣を携え、道もない広大な草原を、木々が立ち並ぶ方向を目指して歩いていた。
少女はこなれた様子で高い草も生い茂る緑の地を踏みしめていたが、それとは対照的に彼女の胸中は不安と困惑、そして焦りに包まれていた。
二日ほど前のことだ。この少女は草原の真ん中――この広大な草原のなかでそこが本当に中心だったのかは定かではないが――目を覚ました。
しかしながら、彼女はなぜ自身がそのようなところにいたのかまるで見当がついてなかった。
それどころか、彼女は自身のことを十分に思い出すことができなかった。言語や概念などを除く記憶を失った状態、いわゆる記憶喪失である。
幸いにも、日記帳らしき本に書かれた"フライア"という文字が自分の名前であるらしいことはわかった。肌を広く覆う服とコートを身に着けていたため草に囲まれていても外傷を負うことはなく、草原に食べられそうな実がたくさんあったため限り限りではあったものの食料はなんとかなり、旅の心得は体が憶えていたようで、二日間の一人旅で特段困ることはなかった。
ただ、少なくともこのままではいずれ限界が来ることは記憶を失った彼女でも理解できた。
最初に目覚めてからまだ一睡もしていない。これはただ彼女の精神状態ゆえではなく、外部環境によるところが大きいのだろう。
「……っ!」
少女の眼前には、青色透明で不定形の生命体がいた。そう、この生き物こそが彼女が安易に無防備な姿を晒すことができない最大の原因である。
その生物は自重により山のような形状になっているが、それでも彼女の腰くらいまでの高さを持ち、襲われたら十分脅威になりうる存在であった。
事実、彼女はこれまでに3度それに出会ってその度に襲われているので、その脅威を十分に理解していた。
その生物がどうやって少女を認識し襲ってきているのかは分からなかったが、少しでも気付かれるまでの時間を長くしようと彼女は姿勢を低くし、息を殺してそれに近寄った。
そうして、腰に下げた片手剣を抜いた。真紅の刀身が月の光に照らされ煌めく。彼女が踏み込むと同時に、青く透き通った生物がそのからだをぐにゃり動かすが、時すでに遅く、振るった剣の赤い軌跡は青色を断っていた。
するとそのからだは空気が抜けるかのように一気に縮み、しまいには水のようになって緑の大地に吸い込まれていった。
彼女は剣を鞘に収め、再び歩き出した。
まだ夜は長い――
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少年は眠っていた。
そこは小さな洞窟であった。入口から光で照らせば奥が確認できるほどで、洞窟というより洞穴のような場所であった。
彼は冷たい岩に体重を預け、夢を見ていた。
昔の夢だ。彼は小さな村に家族とともに暮らしていた。優しい性格だった彼は友達に恵まれ、彼らとともに村の近くの草原を探検したりした。
少し大きくなってからは彼は読書を愛するようになった。
それによって彼は多くの知識を得たが、彼が最も興味を持ったのは村の外についての文献であった。見たことのない大きな国々に思いを馳せた。
彼はとても充実していた。それが当たり前の、自分の人生なのだと、そう思っていた。
彼が15歳を迎えた年のことだった。その日は雨で、村の人々は皆木で作られた各々の家にいた。
そのとき悲劇は起きた。空から降ってきた雨は、しかし彼らが知っているものではなかった。青みがかった粘度の高い液体で、それらは互いに集合し、大きくなっていった。
大木に匹敵する大きさになったそれは、村を呑み込んだ。家も、木も、人も、無論人も。
少年も例外ではなく、それに取り込まれた。突然のことに彼はなんの抵抗もできなかったが、不思議と圧迫感や息苦しさはなかった。
すると突然、少年は青色透明の空間から解放された。彼は生命の危機を感じ、すぐにその場から遠ざかるように走った。両親と、村の人たちの無事を願いながら。
彼は走り続けた。その間、他の人間と出会うことはなかった。
走り続け、彼は小さな洞窟を見つけた。仄かな希望をもって、彼はそこに呼び掛けた。
「どなたか、いらっしゃいますか」
何度も、そう呼び掛けた。彼の碧い瞳を滲ませながら、そう呼び掛けた。
しかし、無情にも返事が返ってくることはなかった。
想像していたことではあった。しかし、彼は生き残りが自分だけだとは信じられなかった。いや、信じたくなかった。大切な人たちが理不尽にも殺されてしまったことを受け入れられなかった。
だから、彼は村に戻った。その日はちょうど晴れており、遠くからでも村の様子を見ることができそうだった。
案の定、そこには村はなかった。
そこには村を呑みこんだ粘っこいものがあのときより小さくなった存在と、紫色の毛をもつ禍々しい獅子のような生き物がいた。
それらは少年が近づいたことに反応したのだろうか、同じ方向に注意を向けるような素振りを見せた。間髪を入れず、少年は高い草の陰に隠れた。
彼は絶望した。間もなく自分が食い散らかされるという現実にではなく、家族と、友人と、村の人々がもう生きていないという確信を持たされる光景を突きつけられたことへの絶望である。
獅子が動いた。
素早く、そして力強い突進。心得のない彼がかわすことなど不可能。
しかし、それが彼に届くことはなかった。
激しい音を立て、雷が落ちたのだ。それも獅子の背に直撃するように。獅子は声をあげることこそなかったが、苦しむような様子で怯んでいた。
そしてそれは少年が逃げるのに十分な隙だった。
脂汗を吹き出し、少年は最悪な目覚めを迎えた。
――洞窟の外はまだ暗い。