序章 出会い 2
不気味に輝く紅い月、その縦横に走る亀裂は、さらに深く刻まれていく。月の中央にある特に大きな亀裂から赤い光がドロドロと漏れ出た。赤い光は亀裂から這い出るように、ゆっくりと地上に落ちていく。まるで、時が止まったかのような感覚が襲う。その光景に思わず目を奪われ空を見上げていると、その光はどんどんと街に近づいていって…
───次の瞬間、ドガガガガガッッッ!!!と耳を劈く激しい轟音と共に内臓だけでなく、世界自体が浮き上がるような感覚が全身を襲った。大地が大時化の海のようにうねり、大きく波を打つ。街を中心として大地に波紋が走り、鮮やかな光が絶え間なく降り注いだ。光の衝撃により弾き飛ばされた大きな瓦礫までが街から遠く離れた街道沿いにまで飛んできていた。また時間差で、何度も…何度も…とめどなく激しい音と衝撃が迫り来る。
一体、あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。
馬車に必死にしがみついていたら、次第に揺れは落ち着いてきた、無意識に瞑っていた目を開けると、先程まで自分たちがいた街の変わり果てた姿が眼下に広がっていた。
「なんだよ…これ…」
ざあっと音を立て、前触れもなく雨が降り出した。血のように赤い雨に打たれながら、アルカは決意に充ちた面持ちになった。俺達は向きを大きく変えて、再び街を目指した。
「おじさん、あの広場まで!急いで!」
「おう、任せろ!」
俺達は急いで街に引き返した。街道すらぐにゃりと波を打ち、馬車の揺れも激しい。おじさんは最短距離を意識しながら馬車で通れるギリギリの道を進んだ。街の入口までもう一歩のところに、馬車では乗り越えられないほど大きな断層が生まれていた。
「だめだ、こっから先は馬車じゃ行けねぇ!俺はこいつらを見とくからお前らは先に行ってろ!」
「分かった!」
俺とアルカは断層を乗り越えると、無我夢中で走って街に向かった。街の入口付近までくると、街の内部は、想像もつかないほど酷く荒れ果てていた。所々地面が割れていることもあり、足を取られれば地の底に落ちてしまいそうだ。周囲を見渡すと、数え切れないほど多くの家屋の残骸や住民の死体が転がっている。隣を走るアルカの表情は凍りつき、雨と涙に濡れた顔を上着の袖口で拭っていた。
街の中央付近は特に酷く、ほとんど更地に近い。その中央に位置する広場の噴水だけは、不気味にも何事も無かったかのように無傷だった。
その景色は不思議と見覚えがあった。そう、今朝見ていた夢の中の光景とそっくりだったのだ。
噴水付近に人の気配はなく、静まり返っている。それなのに、どこからか視線を感じた。
水の枯れた噴水には赤い水が溜まり、その中心に赤い光が煌めく。
「…やっぱり、『アルカの記憶』と同じだ」
『アルカの記憶』では、アルカは血の雨が降り注ぐ始まりの日に、赤黒い雲に覆われた廃都市で目覚める。
「この雨は…だとしたらアルカが!」
アルカが光の目の前までたどり着いた時、その光はより輝きをましながら球状に変化した。
その光は再び形を変えながら、徐々に人型に変形していった。
透き通るほどに、美しく赤い髪をした小柄な少女。
俺達は、その美しさに目を奪われていた───
「計画通りです、クレオン。えぇ、、あなたに頼んで正解だったようですねぇ」
「滅相もございません、主よ。我が娘も大義の為ならば喜んで命を差し出すでしょう」
背後からパチパチと拍手の音がして振り返ってみると、両手を広げながらこちらに近づいてくる仮面の男とクレオンさんの姿があった。
「パパ…?一体何を言っているの?」
クレオンさんはアルカの声に応えず、仮面の男に付き従いこちらに迫ってくる。ふと顔を上げた仮面の男は、全身から黒い靄を漂わせている。背筋が凍りつくような鋭い視線を浴び、直ぐに踵を返してアルカの手を引いた。
「アルカ!逃げよう!」
「おや、邪魔をされては困りますね。えぇ、困ります」
「えっ──」
ドスっと音が鳴った瞬間。腹部に鈍い痛みが走った。確かめるように撫でた手のひらが赤く染まっているのを見て、自分が攻撃されたことに気がついた。
俺は時間差で激しい痛みに襲われ、その場でへたりこんでしまった。傷口は黒い靄に包まれて塞がらず、器をひっくり返したように大量に血を流している。体は徐々に重くなり、立ち上がることもままならない。
「リオン!」
アルカが大粒の涙を零しながら必死に駆け寄ってくる。だが、俺の傍には既に男が迫っていた。
「…アルカ、早く逃げ──」
ドゴッと音と共に腹部を強く蹴りあげられた。蹴りの威力だけで骨が数本折れた気がする。飛ばされた先の壁に頭を強く打ったようで、意識が朦朧としてくる。
「リオンッ!お願い…目を覚まして!」
アルカが必死に叫びながら俺を抱きしめる。だが、体に力が入らず、抱きしめ返すことが出来ない。
「涙ぐましいものですね。えぇ、自分の身を削ってまで私たちから逃がさんとする…ということはもしや、彼は計画を知っていたのでしょうか?」
仮面の男が視線をやると、クレオンは震え上がりながら顔を真っ青にした。男は肩を竦めるとこちらを見据えて悠々と語り出す。
「まぁ、いいでしょう。えぇ、せっかくですし、少年にも、我らが神の再来を見届けて貰うとしましょう」
「あの大柄な男と同様、目撃者には消えてもらいますがねぇ」と男は高らかに言う。その瞳には侮蔑のような感情が宿っているように思えた。クレオンは必死に抵抗するアルカを気絶させると、少女の元へと抱え込んでいく。
少女の元にアルカが近づいた時、ふっと小さな赤い光が空に灯る。その光は数をましていき、噴水付近全体を包み込むように広がって行った。その光の中心に立つ紅い髪の少女は夢で見た少女にそっくりだった。仮面の男はアルカに首輪のような魔具を取り付けると、使役魔法を唱えた。
「さぁ、神よ!依代は用意致しました。どうか我らの元へ救済の力を!」
男が芝居がかった様子で叫ぶと、光は激しく明滅した。少女の髪もそれにつられたかのように紅く光り輝く。明滅をやめた光球がアルカの体を包みこみ少女の元へと運んでいく。
「ついに!神の光が我らの元に───」
「渡さねぇ!」
アルカの体が少女の体に触れる寸前、余力を振り絞った俺は必死に走って滑り込み、アルカの体を掴んでその光の元から強引に引き剥がす。
「おやおや、少しお転婆が過ぎますね」
振り返ることさえ出来なかった。いや、その速度に完全に反応できなかったのだ。男はニタリと口角を上げてそう呟きながら。羽虫を払うかのように容赦なく黒い魔弾を放った。その魔弾は視界に映るとほぼ同時に俺の胸を容易く貫いていった───
───俺はここで死ぬんだろうか
壁に頭を強く打ったせいで、視界の右半分は額からドクドクと滴る雫で赤みがかっている。思考は上手くまとまらず、意識もどこか夢を見ているかのように浮ついている。
噴水に沈む体はとても重く、全身が軋んでいる。動かそうとする意思に反して、俺の身体はピクリとも動こうとはしない。
男に貫かれた胸からは、絶え間なくドポドポと血が溢れ出している。噴水に溜まった赤い雨水と血が混ざり合い、うつ伏せに倒れた俺の金色の髪を深い紅に染め上げていく。
無力感に苛まれながら死を覚悟した俺は、目をつぶろうとした時。図上に漂う少女の光が一際輝きを増したような気がした。
「さぁ、もう一度神の力を───」
男はゆっくりとアルカに近づいていく。意識が遠のいて行く中、時の流れがとても遅くなっていくような感覚に陥った。先程まで絶え間なく動き回っているように見えていた光が、噴水の上方で複雑な軌道を描きながら不思議な模様を描いていることが分かった。それは燃え盛る炎のように、ゆらゆらと揺れながら折り重なり、少女の元へ束なっていく。サラサラと髪を漂わせる少女は、泣いていた。やっぱり、夢で会ったのは君だったんだな。ふとそんな感想を抱いた時、頭に直接に響くかのように少女の声が聞こえてきた。
───なんで力が欲しいの?───
アルカを救い出せるだけの力が欲しい。出来るなら、童話の英雄みたいな力が。
───その子を守りたい?───
あぁ、守りたいよ。出来るなら、今まで通り静かに暮らしていきたいんだ。
───死んじゃうかもしれないよ?───
俺は怖いんだ…。自分が死ぬことよりも、家族が死んでいくことが。
───それなら、君の名前を───
俺は、リオン・クレオン。でも、俺の本当の名は。…アルカレイ。リオン・アルカレイだ。
───きっと炎が、リオンの力になる───
少女を纏っていた光が、ぼうっと鮮やかな炎に変わった。その炎が俺の体を蛇のように巻き付き、包み込み、ゆっくりと焼き尽くしていく。
不思議と痛みは伴わなかった。むしろ、心地よい温もりを感じていた。身を焦がす業火は俺の全身にまとわりつき、やがて俺と一体化していく。
少女はゆっくりと目を開くと、俺に視線を向けてきた。実体のない光の粒子のような少女は俺の頬にそっと手を添えると、ゆっくりと語りかけてきた。
『私の事…何も思い出せないの…だからお願い、私の記憶を探して…そして───』
何かを言おうとした少女の言葉は途切れてしまった。未だに意識はふわふわと夢を見ているようなのに、全身の熱さや痛みがパッたりととまっている。下を向くと、水面に映る顔は俺の面影を残すものの、より中性的な顔立ちになり、髪は腰のあたりまで伸び、深い紅に染まっている。
その時、子供の頃母さんと一緒に童話を読んでいた時のことを思い出した。それはとても鮮明で───
『 緋月輝く時、魔は地を蔓延り
神は魔を照らす光を授ける
紅く美しい髪を纏う少女、その名を──』
「───深紅姫アルカ」
その名を呼んだ時、俺の身体は眩い光を放った。光が収まり目を開いた時、紅と黒を基調としたショート丈のゴシックドレスに包まれた、美しい緋色の髪の少女が水面に映っていた──