親密度は距離では測れず故にこれは恋と証明出来ず
ギィ、と扉の軋む音がして、意識が物語の世界から現実世界へと引っ張り戻された。
ブルーライトのお陰で神経が痛む目を、何度も強く瞬き、愛用の回転椅子を回す。
振り返った先には見慣れた幼馴染みの姿があり、軽く肩を竦める。
「随分男前だね」
貫徹をした回転の遅い頭で浮かべた言葉を、飾り付けることなく吐き出す。
すると、幼馴染みは眉間に力を入れて深い皺を幾つも作り出した。
ボクはまた、肩を竦める。
幼馴染みのオミくんは、生まれ付き中性的な、小綺麗な顔立ちをしていた。
成人しても相変わらず小綺麗な、端正な顔立ちで、正直貫徹した状態で隣に並びたいとは思えないような容姿である。
兎にも角にも、見目の良いオミくんは、大学半ばから伸ばした髪を適当な結紐で小動物の尻尾のように後ろで結んでいた。
そうして、髪を伸ばし始めた時期から前髪の分け目も変えており、隠していた左目は右目同様にボクを射抜く。
すっかり髪型が変わり、多少受ける印象も変わってしまったオミくんだが、特別髪の色を変えたりすることはなかったので、相変わらず青混じりの黒髪だ。
髪よりも幾分青の濃い瞳が深い海を思わせる。
しかし、その酷く静かで凪いだ夜のような雰囲気を打ち壊すのは、程良く焼けた頬にある椛だった。
「いや、本当、男前が増してるよ」
クスクスと笑い声を上げれば、オミくんはチッと鋭い舌打ちを響かせる。
カーテンも閉めっぱなしの部屋は薄暗く、ボクの背後の机に置かれたパソコンの青白い明かりだけが頼りとも言えた。
そんな部屋の中で、オミくんは迷うことなく足を進め、ぼすり、音を立てて壁際で窓際のボクのベッドに倒れ込む。
貫徹したお陰で丸一日誰も潜り込むことが無かったベッドに皺が出来るのを眺め、ははっ、と態とらしく笑う。
オミくんはと言えば、手近に置いてあった白熊の抱き枕を手繰り寄せ、その腹部に顔を埋めて唸り声を上げる。
くぐもったその声は、獣臭い。
「それで、今度は何を言ったの?」
笑いを噛み殺すようにして問い掛ける。
足を揺らすと、椅子の金具が物悲しいか細い音で鳴いた。
「飯が不味い」
間髪入れずに返された答えに目を瞬く。
「そもそも惣菜を手作りだと偽って出すその性根が気に入らない」
「……嗚呼、オミくん神経質だから」
白熊の腹部から顔を上げて答えるオミくんに、何とか首だけを動かして頷いた。
神経質と言うか、それこそ、そもそもオミくん何て、下手に人の作った物を口に入れる事が無いだろう。
それなら寧ろ惣菜を出されている方が、相手にも自分にも、もっと言えば食材そのものにも良いのでは。
「まぁ、だからと言って手料理とか何入ってるか分からないから食べないけど」
ほらな、と言わなかっただけ褒めてもらいたい。
代わりに乾いていた上唇を舐めて、椅子に深く座り直す。
「後化粧濃い。嫌なんだよな、ああ言う化粧濃い顔で擦り寄って来られるの。服が汚れるだろ」
「まあ……」
「やたら交友関係を気にしてくるところ」
「あー」
「いちいち迎えを頼んでくるのも怠い。タクシー使えよ」
「うん」
「ピロトークよりも寝たい」
「ん?」
若干気のない相槌を打っていたが、話の転がり方が妙な方向へ向いた気がし、首を捻る。
「セックスの時くらい付け爪外せば良いだろ、あれ。あんな長い爪で皮膚抉られる身になれよ」
「うぅん?」
「ゴム無しで良いとか、無責任だろ」
「あぁぁぁぁ……」
とうとうボクは頭を抱えた。
今度はオミくんが目を瞬かせる。
「オミくんそれ彼女?それともセフレ?」
長い付き合いである。
幼少期からの付き合いは既に二桁台で続き、一人暮らしの相手の家も勝手知ったる何とやらで、相手のプロフィールなんて聞かなくても書けるのだ。
故にこそ、頭の痛い話である。
「彼女」
「マジかよ」
本当にこの手で頭を抱え込む。
オミくんは身を起こし、胡座をかいたその足の間に白熊の抱き枕を挟み込んでいる。
何が言いたい、と片眉を大きく上げて首を傾けていた。
「一応聞きたいんだけど」
「あ?」
「叩かれる前の台詞は?」
付き合いの長さとは偉大である。
そして、皮肉なものである。
頭を抱え込んだ予想通りの答えが、寸分違わぬ形でボクに向けられた。
「『これなら、幼馴染みと付き合ってセックスした方がマシだわ』」
「馬鹿かよぉぉ……」
膝に両肘を置いて顔を覆った。
俯くボクに「何がだよ」だとか「何処がだよ」とか言っているオミくんは、どうしてかどうしようもなく真面目でマジだ。
視線だけを何とかオミくんの方へ向ければ、きゅっと眉根を寄せている。
学生の頃から何度も思ったことだが、オミくんはいつか絶対に刺されるだろう。
夜道には気を付けろ、と何度言ったことか。
ついでに言えば、幼馴染みであるボクも下手をすれば刺される。
実に良い迷惑である。
「て言うか、オミくんボクとセックス出来るの?」
「出来る」
「じゃあしたいと思うの?」
「思わない」
ですよねー、と溜息混じりに言う。
出来るとしたいでは全く別物になる。
「ボクも出来るけどしたいとは思わないわ」と続け、回転椅子から少しばかり勢いを付けて飛び降りた。
ガッチャン、と金具が大きく鳴く。
「と言うか」
「うん?」
「俺セフレは居た事ねぇよ」
寝室兼作業場として使っている部屋のベッド脇に、小さな冷蔵庫を置いていた。
そちらに足を向ければ、掛けられた声に首を捻り、続いた言葉に小さく笑う。
眉尻を僅かに下げたのだが、それを見たオミくんは片目を眇め「居ねぇよ」を繰り返す。
寝室用なのでそれこそホテルの一室などにあるサイズの冷蔵庫で、その前にしゃがみ込みながら「うーん、まあ、ねぇ」と曖昧に頷いた。
やる事はやってるけどね、とは言わない。
冷蔵庫の中からキンキンに冷えた缶チューハイを取り出す。
二本取り出し、緑色のマスカットの缶を手元に残し、紫色の葡萄の缶の方をオミくんに渡した。
壁に引っ掛けられた時計は、相変わらずカチコチと音を立てて時を刻んでいる。
夕方にもならない時間から、缶チューハイのプルタブを起こす。
オミくんはベッド脇に腰掛けたボクを見て、缶を頬に押し当てた。
未だに左頬は真っ赤な椛が付いている。
「……オミくん、女の人の扱い下手になったよねぇ」
行儀も悪く音を立ててチューハイを飲む。
喉を通って空っぽの胃の中にストンと落ちていくのを感じ、後で胃痛かも知れないと独りごちる。
甘みの中に確かな酸味を舌の上で転がす。
「そうかもなぁ」
ごろり、膝の上にオミくんの頭が乗せられる。
黒いパンツの縫い目から、艶やかな髪が突き出し、チクチクと肌を刺激した。
頬には缶を当てたまま。
胸元には体の形を歪められた白熊の抱き枕――正直、可哀想なのでそんなに乱暴に扱わないで欲しいと思う。
気怠げな唸り声は男臭い割に、伏せられた睫毛は長く、色濃い小さな影を落した。
「……いや」
「あ?」
「寧ろ、愛想の良さとか外面の良さとか、猫被りの猫が脱走した感じじゃないかな」
ごっくん、音を立ててチューハイを飲み込む。
詰まるところ、身内枠にばかり甘くなり、外側には苦くなるばかりだ。
「いやぁ、本当、色んな意味で男前だよ」
伸び切った爪の先で、椛を突っ付けば、不満そうにオミくんの端正な顔が歪められた。